9
ホールを出ると空はすっかり夕方の色をしていた。自分の行動もそうだけれど、
みっちゃん、大事になさいね。自分の手に負えない音楽や感情を抱えたこと、忘れないでいて。いつかそれはあなたを助けるわ。どうしようもない時にあなたを救ってくれると思う。
葉子の声は切実で胸を深く打った。でもその内容を考えると、ふいに胸の奥がすっぽりと抜けてしまったような感触を覚えた。それは恐怖にも似ていたし、畏怖のようにも思えた。あのショパンを聴いた時に似ているような気もした。
自分で自分の感情を制御できない、そういうことがあるのは知っている。緊張だって同じだ。けれど今日感じたものはそれよりもっと乱暴で、凶暴で、熱を持ちながらも暗い淵を覗き込むような感覚にも近い気がした。
なんとなくこれに似た感覚を知っている気がして――それに思い当たって、
気づいたら坂を下りていた。学校は随分遠く、坂の背後に隠れてしまっていて、そこでやっと今日が終わったのだと思った。この感覚には覚えがある。レッスン終わりだ。
歩いているうちに太陽はだいぶ西に沈んでいた。鈴のような音はきっと秋の虫だ。郊外ならではの音がまた季節を知らせてくる。きっとほんとうに、あっという間に後期試験になるんだろう。――いつかの映像を見るようにそう心の中で呟きながらテラス席を見やると、髪を解きおろしたみそらがいた。
ぼんやりと駅前の通りを眺めながら、透明なカップをテーブルに置いている。風に揺られる髪が一部、夕焼けの色を受けて金色に輝いている。みそらは一度、二度と瞬くと、なにかに惹かれたようにこちらを見た。
みそらは何も言わなかった。自分も言わない。まるで初めて会った人のように、ただ互いを見つめる。どれほどそうしていたか、――おそらくほんの数秒のことのような気もするけれど、時間が自分の奥に流れていくような感覚の中でみそらがふわりと笑ったのが見えた。
「――何してんの、突っ立って」
数時間前、舞台上で聴いた以来の声だった。あの時のミミの声が、今、山岡みそらのままにここまで届く。それが妙に切ない気がして、三谷は頭を横に振った。
「よく会うなと思ってた」
「ほんとだよ。もう一店舗くらい出店すればいいのにね」
軽やかに笑う声が言葉を運んでくる。そこにはさっきのような時間の流れは消えていて、歩を進めた三谷はみそらの隣の席に荷物を置いた。
「買ってくる」
「うん」
いつものようにコーヒーを買って、いつものように座席に戻る。テラス席は人がまばらで、頬を撫でる少し冷たい風が冬を予感させた。
テーブルにカップを置くと、ほとんど同時にみそらが口を開いた。
「やっぱりさ、二年の差って大きいよね」
みそらが何を言いたいのかわかって、三谷は黙って席についた。触れたテーブルがわずかに揺れて、カップの氷を小さく踊らせる。
「悔しい?」
「とは厳密には違うかな。全力でやったから納得もしてる。木村先生の思惑はクリアできたと思ってるし、だからこそ余計に正攻法で勝てるようになりたいとも思う。――練習あるのみだよね」
みそらの言葉は穏やかだった。先ほどと同じような響きなのに、誰かを捕まえるための声ではないからすぐに風に溶けていきそうになる。
自分の能力や舞台上での音を正確に分析・把握できることは、表現者にとって必須の素質だといえた。そしてきっと、みそらは今回の結果を正確に予想している。
ふいに二年前の景色が脳裏によみがえる。――あの時のような、誰かを支える音には、まだ到底届かない。今日という日はそれを深く自分に突き刺したような日だった。
みそらが振り返った。
「さっき、もしかしてわたしのに寄せた弾き方した?」
レチタティーヴォ――ささやくような、歌うような声でみそらが言う。それはとても心地よいまっすぐな音で、自然と返事を誘われた。
「――なんでわかった?」
「わかるよ。自分で勉強した解釈だもん。一致する場所が多いと、もしかしてって思うよ」
みそらはカップに手をやり、ゆっくりとそれを手に取った。涼しくなってきたというのに珍しくアイスラテで、揺れると氷がかすかに音を立てた。
「思考が並列で動いてるってことでしょ? 器用にもほどがあるよ」
「褒めてる?」
「褒めてる褒めてる。三谷はいつもわたしの予想を超えるよね。喧嘩のしがいがあると言いますか」
「……それは良かったです」
「ほんとにね」
みそらは嬉しそうに微笑んで、それから「ありがとう」と続けた。やっぱりミミのレチタティーヴォのようだった。
「肯定された気がしたの。自分が演奏してるんじゃないのに、わたしの中にいるミミが肯定されたみたいだった」
みそらはゆっくりと瞳を向けた。夕方の色を吸い込んで、淡く琥珀色に輝く。
「あの子のこと抱きしめてくれて、ありがとう」
まるで曲を閉じる時のようにやわらかく言う、そのみそらの音に、確信する。
山岡みそらの中には、あのミミが棲んでいる。声で、言葉で、仕種で相手を魅了できるミミが。――人は、自分の中にいるもの以上の表現を作ることができない。だから、あのミミは間違いなく、山岡みそらそのものなのだ。
その確信が自分にとってどんなものであるかまだ判然としないけれど、――誰かを変えるような音楽をつくることが、この学校でできているだろうか――またあの問いが体の中でこだまする。
知らずに同じ場所にいたというあの夏から二年が経った。あの時に見上げたのと同じ場所にいるけれど、まだこの学校でやれていないことがたくさん、たくさんある。それはきっとみそらも同じで、今回の『ミミ』もそのうちのひとつなのだろう。
――まつげも肌も瞳も、夕方の色と同じに染まっていることを山岡は知っているんだろうか。そんなことを思いながら、三谷夕季はゆっくりと息を吸った。たぶん、どういたしましてとか、そんなありきたりな言葉では、相手に届かない気がした。
「今度」
「うん?」
「また、ああいうのやるなら、付き合うよ」
その言葉を聞いたみそらが目を丸くすると、瞳のふちがまた光を弾く。みそらは唇を頬杖をついた手のひらに埋めた。
小さな声でうん、とうなずく彼女のすぐそばで、夕暮れは昼を抱きしめている。そしてゆっくりと眠りに落ちるように、その色を夜に沈めていった。
[冥色を抱く 了]
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