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 演奏も着替えも終わって通路に出ると、葉子ようこがホワイエにいるのが見えた。他の先生と談笑しているようだったが、彼女は自分の弟子を見つけると、ふわりと笑んで軽く右手を振った。そして話していた相手に何かを告げると、こちらに向かって歩いてきた。

「おつかれさま」

「先生、来てたんだ」

「うん。みそらのが見たくてね。林さんは?」

「もう帰ってると思う」

 林香織は毎回こうだった。自分の主科以外にはあまり興味を示さないし、実際に演奏した感触で自分が予選を通過するのもわかるのだろう。木村先生から講評と結果の連絡があるのだろうとも思っている。

 ゆっくりと歩を進めて、葉子は三谷みたにの前に立った。高いヒールのおかげで、目線の高さに大きな差があることはない。葉子はいつも、まっすぐに自分を見つめてくる。

「どうだった?」

「え、俺?」

「そう。みっちゃんに訊いてるの」

 葉子はほのかに笑んでうなずいた。その表情はいつものレッスンの時のようで、だからこそ三谷は考えた。何について訊いてるんだろう。自分のことか、名前が出たみそらのことか、それとも伴奏をした先輩のことか。

 選択肢はいくつも浮かんだが、三谷は一番最初に浮かんだことを言うことにした。

「こないだ山岡に、ミミとムゼッタどっちが好みかって訊かれたんだけど、――今日のを聴いて、どっちがいいのかっていうより、歌い手の問題なんだなと思った」

 葉子はびっくりしたように何度も瞬いた。

「……そんなこと訊かれたの?」

「うん。アンケートって言ってたけど」

「どっちって答えたの?」

「どっちも選んでないよ。ムゼッタのほうはやったことないし。でも曲としてはどっちも面白いよね」

 みそらから話を聞いて、音源を探して聞いてみた。ムゼッタのソロには奔放な性格が表現された、非常に技巧的かつ情緒的な曲から、ミミを思って歌う情感あふれるものもあった。たしかに「カルメン」を彷彿とさせる部分もあったが、同時に思ったのはプッチーニはやはり稀代のメロディメーカーだということだったし――何より、先ほど聴いた『ミミ』は、ああやっぱり名曲なのだと、心の底から思える力があった。

「――先生」

 呼びかけると、葉子は三谷を見返した。すると三谷はなぜか少し視線を逸らした。

「みっちゃん?」

「……弾きながら、自分が担当してる音じゃないほうを追いかけるのって、やっぱ伴奏者としてダメだよなと思って」

 少し声を落とした弟子の言葉に、葉子は目を見開いたまま動きを止めた。本当に時が止まったかのような葉子に驚いて、三谷は声をかけようと口を開いた。その時だった。葉子の瞳に突然、ふわっと水の膜が張った。

「えっ」

 さすがにぎょっとした。「先生、どうしたの――」

「ごめん」

 葉子は慌てて両手を顔の前で振った。

「ごめん、ちょっとびっくりしただけ」

「びっくりしたって」

 びっくりしたのはこっちなんだが。そんな弟子の心の声が聞こえたのか、葉子はハンカチを取り出しながら苦笑した。

「いや、びっくりさせたよね、ごめんね。でも――なんかちょっと嬉しくなって」

 嬉しいとはどういうことだろう。初めて見た担当講師の涙に心底驚いて言葉に出せずにいると、また葉子はそれを読んだように続けた。ゆっくりとハンカチを目元に押し当てると、涙はもう乾いていた。

「みっちゃんはいつも感情の処理が上手だから、本番でも安心して見ていられる。ソロだって伴奏だってそう。担当講師としてこれ以上の強みはないなと思っていたし、事実誰もがそうはなれなくて苦労するのよ。けど、もし、それを揺らすものがあったら――」

 葉子はまっすぐに生徒を見上げた。そこにはたしかに、彼女の喜びのような――祝福にも似た色があったように思えた。

「みっちゃん、大事になさいね。自分の手に負えない音楽や感情を抱えたこと、忘れないでいて。いつかそれはあなたを助けるわ。どうしようもない時にあなたを救ってくれると思う」

 葉子の言葉はいつになく根拠がない物言いで、どう反応をすればいいのかわからない。けれど――どうしたらいいのかわからないのはさっきも経験したばかりだったのを思い出す。

 林香織の『ミミ』を伴奏しながら、どうしてもみそらの声が消えなかった。弾いているのが同じ曲だからかと思ったけれど、なぜか呼吸やちょっとしたフレージング、アーティキュレーション、そういったところでみそらの演奏を追ってしまう。――他の人の伴奏をしている本番の板の上だというのに、耳に、頭に、体に残っている音をどうしても追ってしまうのだ。そんなことは初めてで、自分でもうまく制御できないままに出番は終わってしまった。大きなミスをしでかしたわけでもなく、たぶん表面的にはいつもどおりにできたのだと思う。周りの反応を見ても、きっと林香織が予選を通過するのだと思われた。

 葉子に素直に言ってしまえば、きっと怒られると思っていた。だからこそ葉子の反応は予想外だった。彼女は生徒の行動を――音楽を否定しなかった。

 けれど――あらたな疑問が頭をもたげる。これがどうしようもない時だというのなら、本当にまたそんな時が来るんだろうか。そんなものが来ていいんだろうか。

 考えていることが伝わったのか、葉子はハンカチの下でふふっと声を立てた。

「大丈夫だよ、いつか絶対わかるから」

 妙に確信的に言って、葉子は「みっちゃん」といつものように柔らかく呼びかけた。

「もし自分が好きなものを同じくらいの熱量で好きな人がいたら、絶対に手を離しちゃダメだよ」

 ひと言ひと言がすべてはっきりと強く、それなのに優しい言葉というのはどうやって生まれるんだろう。葉子の言葉はそんなことを思ってしまう強さがあって、すぐには何も返事ができない。

 ただ、葉子が心からそう言っているのだということだけはわかる。言葉が示す事象すべてを理解するのは難しいけれど、その中に葉子の愛情が詰まっていることだけはわかる。

 だからこそ頷くことも簡単にはできなくて、三谷は葉子を見つめ返すしかできなかった。

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