第一章 望郷と憧憬
1
すべてが真っ白に染まるような夏の天気から、校内で二番目に大きなホールに入る。冷気にすっと肌を撫でられると、ここまでの道のりを労われているようにも感じられた。知らず、ほっと息をつく。
ロビーには学生服姿の生徒もちらほらいて、ふとその様子が新鮮に写った。学校の制服というものを着なくなって一年と少しだけれど、もうあの頃の制服に袖を通すと考えるだけで気恥ずかしくなるのはなぜだろう。着ていた頃はそんなこと微塵も思わなかったのだけれど。
そんなとりとめもないことを考えながら、ホールの扉に手をかける。ドア係の生徒が何も言わないということは、ちょうど曲間だということだ。
木目が美しい扉を押し開けると、ホールとホワイエをつなぐ独特の音と空気圧が肌に触れた。
眼下に広がる客席と、その先にある、ましろに光る舞台。
――ああ、異次元だ。
何度見ても思うことを、今日も変わらずみそらは思った。ここで何度演奏を聴いても、また自分が実技試験で舞台に立ったとしても、それは変わらない。二年前の夏から、みそらにとってここは異次元だ。
かすかに肌下が震えるのを感じながら、みそらは急いで空いている席を探した。いつだったか、副科ピアノの担当講師が「真ん中よりもちょっと後ろのほうが音が聴こえやすい」と言っていたのを思い出したところで、折よく席も空いている。制服姿の多くが、前方に陣取っているおかげだ。
拍手がまばらに聞こえて、みそらはさっと目当ての席に向かった。ベルベット生地の柔らかい席に落ち着くと、息をつく。ほぼ同時に立ち位置に立ったのは、三年年のピアノ専攻の生徒だった。
黒いドレスをまとった演奏者は、たしか今年の特待生だったはずだ。小野門下の生徒じゃないけど、と、みそらの伴奏者が言っていたことを思い出す。
曲はシューマンの「謝肉祭の道化」から、第一楽章『アレグロ』。シューマンは確かドイツ人だ。ドイツ語ってこんな感じだっけ、と思いながら聴く。
白い舞台、黒い大きな楽器、黒いドレスの人。
二年前、同じこの場所で聴いたものとはえらく違うな、と、とくに批判的なことを思うわけでもなく考えた。あれは、――あれが特別だったのだ。
ラフマニノフの前奏曲、通称『鐘』。
同じ場所にいるせいだろうか、思い返すだけで肌が寒さを覚えて鳥肌立つ。ラフマニノフはロシアの作曲家だが、あんなにも冬というものを感じる演奏は初めてだった。
白く雪に覆われ、道だけが灰色にうねる様子はまるで上空から見ると蛇が這いずり回ったよう。そこにぽつぽつと雨のあとのようにある家には寒さが染み込み、大地に走る音はどこまでも冷たく、遠く響く――
曲を聴くだけで、曲がもつ景色が脳裏に浮かぶ。そんな演奏をみそらは生まれて初めて「体感」した。そういうことがあるというのは知っていた。けれど体感したのは初めてだった。
今日の演奏はドイツも謝肉祭も見えないな、と思いながら聴いていると、いつの間にか曲は終わっていた。お辞儀をして演奏者が去ると、スタッフが素早くピアノの位置を調整する。真ん中よりやや下手に移動したピアノの蓋は三分の一以下まで閉じられ、譜面台が金色の弦を覆った。――ここからピアノは、脇役になる。
次に出てきたのは派手なドレスの生徒だった。みそらはちょっとだけうんざりした。プログラムにはたしか、『歌に生き、愛に生き』とあったはずだ。プッチーニのオペラ「トスカ」からの一曲だけれど、この衣装は少しイメージ違いなんじゃないかなと背中を預けながら思う。
聞こえてきた歌声に、かすかに首を傾げる。発音は相変わらず、うちの門下のほうがきれいだ。林先輩なら、もっと聞き取りやすいだろうに――と、比較するつもりはなくても比較してしまうのが同じ専攻というものだろう。誰に師事しているかで、生徒のカラーはずいぶん変わる。みそらが所属している木村門下ではこのような歌い方をする生徒はいなかったが、こちらも声楽専攻の特待生だ。心の中であれやこれやと考えていると、曲はすぐに終わった。生徒が舞台袖にはけると、知らず息がもれた。なんだかあのドレスを見ていると目がくらんだ。
入れ替わりに舞台下手が小さくきらめいた。――金色だ。
「管楽器専攻三年、
呼ばれた名前を追い風にするように颯爽と現れた生徒の姿に、ふと二年前の景色が重なるようだった。あの時もこんなふうに見上げたっけ。夏の暑いさなかに講習会に来て、特待生演奏会だとわくわくしてこのホールに足を運んだあの日。
あれから、二年だ。
金色に輝くトロンボーンを抱えた江藤先輩はそんなに変わらない気がする。そんなことを思いながらみそらはその後ろで伴奏譜をセッティングしている人物を見やった。
彼は無駄のない動作で準備を終えると、腰掛けて位置を調整する。それから軽く前に立つ独奏者を見た。独奏者が彼を振り返ることはない。そのまま楽器を構えると、照明に金色がまた輝いた。
とん、と肩を叩かれたようだった。強い音ではなかった。柔らかいメロディがホールに広がっていく、それだけなのに、まるでここにある空気を全部入れ替えたようだった。――まるで前までにあった音楽を一掃して、この空間をまるごと自分のものにするような、圧倒的な強さ。
二年前と違う部分があるとしたら、それは伴奏だ。みそらが初めて江藤颯太の演奏を聴いた時、その伴奏は別の人物だった。今は、同じ学年で、ピアノで言えば同じ門下の友人がその場所にいる。
友人である
演奏はよどみなく進んでいく。だんだんとホール内に憧れが充満していくのをみそらは感じていた。高校生たちの――いつかの自分の――きらきらした感情が、ホールを満たしていく。それはあまりにも美しい光景で、みそらは視界に白い光が乱反射するのを見た。あれ、と思って目元に触れると、少しだけ涙で濡れていた。
体は正直だ。どんなことを思っていても、いい音楽にはこうやって反応してしまう。
演奏者がお辞儀をし、拍手の中を去っていく。これは前列の女子は軒並み心臓射抜かれたな、と思うと同時に、夏休み前最後のレッスンで言われたことが頭をよぎって、みそらは小さく息をついた。
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