恋するハンマーフリューゲル

山本しお梨

 なんだ、この伴奏。舞台を見つめながら、山岡やまおかみそらは唖然とした。

 高校三年生の夏休み、去年から参加しているとある音楽大学の講習会での特待生演奏会。ベルベットの生地が背中を撫でる座席に座り込んだまま、みそらはもう一度思った。

 なんだ、この伴奏。こんな弾き方ができる人が本当にいるなんて、わたし知らなかった。

 主役であるトロンボーンの音はさることながら、伴奏をするピアノの音色が素晴らしい。主役を引き立てながらも、ピアノの美しさが伝わってくる。影でありながらこの存在感は一体何なのだろう。

 プログラムには「伴奏 藤村ふじむら六花りっか(一年)」とある。名前を見た時は女性かと思っていたが、いま実際に舞台上でピアノを弾いているのは男性――といっても、みそらと年の変わらない、男子と言って差し支えのない人物だ。

 六花はたしか、雪の別名のはずだ。春の名字に、冬の名前。へんなバランスだけど綺麗な名前、――なんて思っていたけれど、そんなことはもうどうでもよかった。みそらは演奏を聞きながら痛烈に思った。

 こんな伴奏に支えてもらえたらどんなにしあわせだろう。

 みそらがやっている声楽は、基本的に一人では舞台に立てない。大人数でやるオペラならオーケストラ、ひとりで歌う歌曲ならピアノの伴奏が必要だ。大学生であるなら、学生同士で伴奏者を見つけなければならないから、伴奏者探しには苦労する、と、師事している先生や知り合いからも聞いている。

 トロンボーンも、伴奏者も一年生。ならば今回の講習会ではじめて聴いたのもうなずける。

 だってもしこれを一度でも聴いてたら、絶対に忘れない。

 トロンボーンの曲は知らなかったが、奏者がとても楽しんでいることも、事実とてもうまいこともわかる。金色に輝くトロンボーンのベルが深く震えると、みそらの中の襞も震える。何か、人の奥深くにある本能みたいなものをかき乱す音だ。

 いいな、こんなに楽しそうに、そして誰にも負けないくらいに、みんなの耳を、体を、鷲掴みにしている。

 それを支えているのが伴奏だ。みそらはその音色の深さにあらためてぞっとした。こんなピアノの音は知らない。

 そうあるべき、という伴奏者のお手本を詰め込みながら、伴奏者本人の個性さえも感じさせる演奏。だからこそ独奏者が自由なのだ。確固たる技術と信頼関係があるからこそ、お互いに自由な表現ができる。伴奏と独奏の理想の形だ、と思うとつんと胸の奥が痛んで、みそらは涙が出てくるのを感じた。

 いいなあ、わたしもこんな音楽をつくれたら。

 いわゆる天王山と呼ばれる高校三年生の夏。彼女のように音大を目指す高校生にとっても、自分の未来がかかった大切な夏だ。

 一年後、わたしはこの学校にいるのだろうか。

 いつか、同じように舞台に立てているのだろうか――そんな伴奏者に出会えるのだろうか。

 涙だけが体から流れていく。嗚咽は出ない。涙だけがただ、蛇口を捻ったようにするすると溢れている。

 ああ――音楽だ。誰かとつくる音楽が、ここにはある。



 なんだ、この演奏。舞台を見つめながら、聴こえてくる音に三谷みたに夕季ゆうきは呆気にとられた。

 え、これ、ほんとに大学一年生? 俺とひとつ違い?

「ピアノ専攻一年 菊川きくかわ一夏いちか」――見直してみたプログラムにも、しっかりとそう記載されている。

 名字が秋で、名前が夏。二つの季節を感じられる名前なんだ。――演奏が始まる前にはそんなことを思っていた。特待生演奏会だし、そもそも国内でも有名校に入る学校だから、レベルが高いのは当たり前だと。

 けれど、この演奏はなんなんだ。

 あまりにも美しくて、だからこそ自分との差に胸が潰れそうになる演奏を、彼は生まれてはじめて聴いたと思った。

 音大を受けると決めたのは昨年の暮れで、講習会に参加したのもこれが初めてだ。だからこれが通常なのか、それとも特別なことなのかわからない――いや、周りの空気が物語っている。何より自分の体が悲鳴を上げて歓喜している。

 これは、別格なんだ。天才の演奏だ。

 コンサートサイズのピアノは、二十歳前後の女性が制御するにはあまりに強靭だ。けれど舞台上の彼女はそれを難なくやっている。ピアノは上品な習いごとに見えるが、その実、ピアニストがほとんどそうであるように男性の楽器である。なのに。

 舞台の上の人は、性別を超越して、ただ、ひとりの人間として楽器と対峙している。

 うらやましい、と心底思った。

 うらやましい。外野の声なんて関係なく、こんなにも自由に、誰にも負けない強さでピアノと向き合えたら、どんなにしあわせだろう。

 受験まで残り半年。進学校に在籍している自分には、当然ながら推薦枠などなく、一般で受験するしかない。友人はもちろん法学部や経済学部に行くし、それから先の未来も見据えている。進学校のメリットを棒に振った――なんてことを言われているのも知っている。

 そうか、と彼は思った。やっと思った。そうか、自分はこういった人たちと戦おうとしているんだ。そう思うと、ざわりと肌が粟立つのを感じた。

 この独奏だけではない。さっきのトロンボーンの伴奏もすごかった。伴奏は今まで合唱コンクールの助っ人みたいなものしかやったことがないけれど、あれも別格だった。あれは伴奏というひとつのジャンルだ。独奏者の影に隠れるのではなく、独奏者を引き立てるための演奏。自分の演奏ひとつで独奏者の未来さえ変わってしまうような。

 誰かの未来を救うことができるような、そんな演奏。

 そうだ、ここには音楽が溢れている。この場所なら音楽をやっていても赦される。そう思えば、さっきとは違う音が胸を震わせた。

 この人たちに並ぶことができるだろうか。受験しようと決めてから初めて、「ここ」にいる自分に思いをはせた自分がいることに気づいた。

 いつか、同じように舞台に立てるのだろうか。同じように誰かの胸を震わせる音楽を作ることができるだろうか。

 いくつもの問いが自分の中から溢れてくる。胸の奥、ずっと奥に隠れていたそれを呼んでいるのが目の前の演奏者だ。

 想像しやすい未来と天秤にかけて、この学校を選んでよかったと思える未来を、自分は作ることができるだろうか――誰かを変えるような音楽をつくることが、この学校でできるだろうか。


 自分もまた彼らのように、舞台の上で音楽とともに生きてみたい。


 誰かの声と自分の声が共鳴した――そんな気がした。

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