ドリーマー達は歩きだす

漸近喪神

シグビッドの街にて

事例1 破壊衝動①

 今日のシグビッドの街は、昨日に引き続き曇り模様である。建ち並ぶビルの上を覆うように暗い色の雲が広がっており、風がビルの間を吹き抜けていく。マフラーやコートを着ている青年の黒い髪が風でなびき、彼は少し体を縮こまらせて、革の手袋を着けた手で二の腕をさすりながら街道を歩いている。まだ息が白くなるほどではないが、秋の終わりということもあって気温はかなり低い。


(ウーン、何かあったかい飲み物でも買うか……?)


 彼は歩きながら辺りを見回し、少し先にあるドラッグストアを発見する。彼は若干小走りでそこへ向かい、自動ドアをくぐってまず温かい店内を喜ぶ。そして陳列棚に置かれているカフェラテを手に取り、そのままレジに向かう。その途中で財布の中身を見るが、そこには2枚の硬貨しかない。


(あー……)


 少し悩むが、彼はそのままレジへと進む。そして、彼が財布に手を入れた時──彼の手には紙幣が握られていた。彼は何食わぬ顔で紙幣を持ち、自分の番が回ってきた時にカフェラテと共にそれを差し出した。会計は問題なく終わり、彼は温かいカフェラテの入ったビニール袋を持って店を出る。


(取り敢えず、どっかゆっくりできるとこにでも行かないとな……)


 彼はビニール袋片手に歩き、目の前に路地への入り口を発見する。


(……ま、カフェラテ飲むぐらいならあそこでもいいか)


 彼は適当に場所を選んで、その路地裏に入っていく。彼はある程度進んだところで壁に寄りかかり、ビニール袋からカフェラテを取り出して──入り口の方に何者かが立っているのに気がつく。


「オイ、アンタ」


 その何者か──軽いモヒカンの、いかにもガラが悪そうな男が彼に話しかけてくる。彼はカフェラテを袋にしまい、その男の方を向く。よく見れば、その男の右目は2つある──普通あるべきところにある右目のすぐ下に、小さい目が存在している。それを見て彼は、この男の正体を察する。


「オレさっき見ちまったんだよな~、アンタが持ってなかったハズのをいきなり出すトコ。一瞬スリか? とも思ったがよ、ま大方何かしらの能力だろうなって踏んだワケだ」


 能力という単語を聞いて彼の推測は確信に変わり、思わず目つきがより鋭くなる。それを見て、その男はヘラヘラと笑う。


「……つまり、、か?」


「オイオイ、待てよ……そんな気張るなって。オレは何も、アンタを潰しにきたワケじゃねーのさ。むしろ逆だよ、逆」


「逆……?」


 怪訝そうな顔で彼は男を睨むが、男のヘラヘラとした態度は変わらない。


「そ。オレは嬉しかったのさ、この街にオレ以外にも夢追人ドリーマーがいるって事実がな……。つーことは、こりゃお近づきにならねー手はねーよな、ってまー、そーゆーワケよ」


 男が、少し黄ばんだ歯を見せるようにニヤニヤ笑う。彼はそれを見て何か言うわけでもなく、黙って男の言葉を聞いている。


「んじゃ……そーゆーワケでさ、折角オレたち出会えたんだしよ、いっちょトモダチっつーのになろーじゃねーか。いわゆる『お友達から始めましょー』っつーやつよ。わかる?」


 男がのジェスチャーを取る。しかし、それに対して彼は答えない。


「……ま、いーや。ただよ、オレもこれまで何度も夢追人ドリーマーとケンカしてきちまったからさ。ショージキ、100%アンタを信用するワケにもいかねーワケよ。だからよアンタ、オレにちょ~っぴりおトモダチ料っつーのを払ってほしーんだわ」


「……何?」


「おトモダチ料。これからおトモダチになりましょーね、っつー、まアカシみてーなモンだよ。あ、額はベツにいくらだっていーぜ? アンタの言い値で構わねー。オレだってホントはこんなこたーしたくねーが、今までオレがお誘いしてやったヤツらは、大抵オレの誘いを断って攻撃してきやがった。だからよ、オレもタダでアンタを信用するこたーできねーっつーワケよ」


 男は「ヘヘ」とうすら寒い笑みを浮かべて笑っている。彼はその様子を見ながらしばらく男の言葉を反芻はんすうしていたが、やがて呆れたようにため息をつく。


「何を言うかと思ったら……悪いが、オレには払えないな、それ。そもそもいくら同じ夢追人ドリーマーとはいえ、お互い無理に友達になる必要は──」


 突然、男が手で壁を叩く。彼は少し驚いたように目を見開いた後、口を閉じる。


「──なー、アンタ。まさか、オレの好意をムダにするつもりじゃねーよな?」


「………」


「それによ、アンタだって困るんじゃねーの? 見た感じ奇形がねーしよ、アンタ普段自分が夢追人ドリーマーだっつーことは隠してんだろ? オレだってアンタの平穏な生活をぶっ壊してーワケじゃねーしさ。わかってくれや」


 少し考え込んでから、彼は男の目を見る。男は彼を鋭い目で見つめている。


「……すまないが、。わかったか?」


 彼の返答を聞いた男は、ため息をついた後その場にしゃがんで、足元に落ちていた小さなコンクリート片を拾う。男は立ち上がり、右手でコンクリート片をお手玉している。


「……ザンネンだな~~、オレ、ちっと期待してたんだがよー。……ま、いーか。これで──」


 男が、コンクリート片を持って大きく振りかぶる。


「──遠慮なくテメーをヤれるぜ、オイ」


 そう言って、その男はそのコンクリート片を彼目掛けて投げつける。彼は一瞬受け止めようかと思ったが、その自信たっぷりな挙動に違和感を覚えてそれを避けることにし、大きく屈む。コンクリート片が彼の背後に飛んで行った直後、パキンという硬く異質な音がしたと同時に──頭上に半径2mほどのいびつなガラス板のような何かが出現する。


「ん~、ナイス回避」


 彼が屈んだ勢いで背後に顔を向けると、その何かがビルの壁に食い込みつつその場で浮遊しているのが見える。また、屈んだ時に舞い上がったマフラーの先端が綺麗に無くなっている。それを見つつ、瞬時に彼は体勢を立て直して男に向き直る。既に男は、その手に次のを握っていた。


「……この能力、キサマ、今まで何人を──」


 彼が眉間にしわを寄せながら問いかけるが、その問いが終わる前に男は再びそれを構え始める。


「ま別に? オレは何回でも攻撃できっからいーんだけどよ……!」


 そして、男は再び大きく振りかぶる。しかし、


「……流石に、もう一撃食らうのはまずいか」


 彼が両手を男に向けて伸ばし、瞬間男の顔の前に10枚程度の紙幣が出現する。男は一瞬気を取られ、その隙をついて彼は男の横をすり抜ける。


「何──」


 紙幣と少し格闘した後に男が振り向くと、既に彼は路地裏を出て走り去るところだった。


「……へー、一気にこれくらい金を出せるワケか。ホント、殺すにゃ惜しいヤツだよ」


 ビル風で紙幣が吹き飛び、路地裏の外へと飛んでいく。それを見た何人かの通行人たちが、路地裏を覗きそこに立つ男を見る。男は集まってきた通行人たちを見て、何か思いついたかのようにジメっとした笑みを浮かべた。



(クソ、面倒な輩に出会ったもんだ)


 先ほどの路地裏から離れようと走る彼の額には汗がにじんでおり、またその眉間に刻まれるしわは一層深い。既にある程度距離を取ってはいるものの、彼は確実な安全を得るためにその足を止めない。そして、そんな中で彼は先ほどの敵について考える。


(恐らく、いやほぼ確実にヤツはだろう。自分の能力に酔いしれた典型的な夢追人ドリーマー。オレを狙ってきた刺客のたぐいなら、まず正体なんか現さずに奇襲してきたはずだ)


 何人かの通行人とぶつかるのも気にせず、彼は走り続ける。彼の背後で悲鳴が上がる。


(……問題は、ヤツの能力の正体だ。第一印象的には間違いなく大して頭の回るような輩ではないから、あのコンクリはヤツの能力に関係してくるはず。あのガラスみたいなものは、正体こそわからないが殺傷能力は確定で有してるだろう。一体何だ? アレは……)


 彼の歩みとは反対に、通行人たちの悲鳴はどんどん大きくなっていく。さらに、そこへサイレンの音も追加され、いよいよ彼はそれを無視できなくなる。


(ああクソ、うるさいのもいい加減に──)


 思わず彼は立ち止まり、そこで振り返って背後の光景を見る。そして、逃げるように走る通行人たちにぶつかるのも気にならないほど、彼は唖然あぜんとする。何故なら──


「ン兄ちゃんよ~~、早くこっちに来いよ~~」


「──!!」


──先ほどの男の周りに、何人もの切断された遺体が転がっていたからだ。


「マッタクよ~~、けーっきょくこの町でもオレはフツーに暮らせねーっつーのかよ~~。ホント参っちまうぜ~~、チキショー」


 ゆっくりとこちらに歩いてくる男の衣服は、大量の血──返り血で汚れていた。辺りに乱雑に散らばっている遺体は、右手と頭、左脚と胴体といったように、適当に切断されたようなパーツの散らばり方をしている。道路にはいくつも血だまりができており、そこには上からも血がしたたっている──地面より少し上に、誰かの生首の乗ったガラスの浮遊体が浮かんでいるからだ。それを見て、彼は男がどうやって人々を虐殺したのか理解した。


「……お、いたいた~。おーい、元気してたか~? 兄ちゃん」


 男が彼の方へ手を振る。しかし、


「う、動くな! こちらは既にAREDアレッドを起動している! それ以上動けば、は、発砲するぞ!」


 男の背後で、警察官が震えながら拳銃を構えて警告する。その腰には、シアン色に光る線の走った黒い端末を携えている。


「ね~、聞いてんのかよ~、テメーよ~~」


「き、聞こえないのか!? 撃つ、う、撃つぞッ!」


 そう言って、警察官が拳銃を握り直し、引き金を引こうとする。だが、弾丸が発射される直前にいきなり男は警察官の方に振り向き、手に持っていた血まみれの腕時計をすぐ手前の地面に叩きつける。そして、そこに先ほどのものと同様のガラス板が縦に出現し、弾丸があらぬ方向へ弾かれる。


「なッ……!」


 警察官が一瞬たじろぐが、その一瞬の間に警察官の前には血まみれの携帯電話が飛んできていた。警察官は回避する間もなく携帯電話にぶつかり、すぐに警察官の身体をガラス板が切断する。警察官の上半身が、ガラス板を滑ってボトリと地面に落ちる。


「邪魔してんじゃねーよ、カス」


 遠いながらも一部始終を見ていた彼は、思わず戦慄する。それを尻目に、男は彼の方に振り向いてニヤニヤと笑う。その横で、先ほどの生首がボトリと落下する。


「……な~、見ろよ。テメーがさっきオレから逃げたせーでよ~、いつの間にやらこーんなに人間が死んじまったぜ? なー、オイ。責任感じるよな~? 負い目感じるよな~?」


 男は、まるで一連の惨劇について自分は全く悪くないとでも言わんばかり軽い口調で語りかけてくる。彼はそれを見ながら、強く右手の拳を握りしめる。


「……キサマ、その行動がどれほどのことなのか理解しているのか?」


「あ~? 悪いんだけどよ、何つってるか遠くてよくわか──」


「その行為の下劣さをわかっているのか、キサマ!」


 彼は初めて、声を荒げて怒号を発する。一瞬男は驚いたような表情を見せるが、すぐにあのにやけ顔に戻って彼を見つめる。


「ハハハ! いーね~、夢追人ドリーマーのクセしていっちょ前に義憤なんか見せつけてきやがる。んなもん知るかよ! ま、そもそもオレはフツーのヤツらとはいる次元っつーヤツが──」


 男の言葉を遮るように、彼が「オイ」と静かな怒気のこもった声を投げ掛ける。男は、ヘラヘラとした態度を微塵も崩さずに彼を見る。


「いいか、クソ野郎。キサマは勘違いしているようだから教えてやる」


 彼は、男を睨みながら身体を屈める。


「──人を殺した人間が、幸せになれると思うなよ」


 言い終わるや否や、彼は男の方へ走り出す。男はそれを見ながら、遺体の手からブレスレットを取って振りかぶる。


「んじゃ、ちっとそれを証明してもらおーかね!」


 今までで最も強い力を込めて、男はブレスレットを投げる。しかし、


「ここぐらいか」


 ブレスレットが男の手から離れた瞬間、彼が立ち止まって手を伸ばし──


「……え?」


──男の腕が、ガラス板によって切断される。


 男の腕がズルリと落ち、湿った音を立てて地面に落ちる。ほぼ同時に、どこかでチャリンと小さな金属音が聞こえる。男は一瞬理解ができず困惑していたが、すぐにその激痛に気が付き腕の切断面を抑えてうずくまる。


「ぐッ……!?」


「キサマの能力なんてお見通しだ。だろう? そのガラスのようなものは言わば空間の亀裂。キサマの生じさせた衝撃によって空間に亀裂が入り、それが易々やすやすと人間を切断し易々と弾丸を弾いていたんだろう」


 彼がその場で言い放つ。男は激痛に耐えながらも彼に向き直り、これまでにない憎悪を込めて睨み付ける。


「て、テメー……ッ!」


「タネさえわかればもう脅威じゃない。キサマのすぐ近くで衝撃を起こせばそこに亀裂は入り、キサマの肉体は切断される。もうキサマの攻撃は無意味だ」


「なんだテメー、ぶ……ぶっ殺してやる! テメーごときに、こんな、くッ……!」


 彼の能力の範囲ギリギリに男が入る位置で、彼は男を見つめている。男の顔は彼への憎悪にまみれているが、同時に右腕のあった箇所の激痛に気を取られている。それを見て、彼はもう男が大した策を練る余裕もないだろうと確信する。


 先ほど彼がやったことは簡単、男がブレスレットを投げた瞬間そのすぐ近くに硬貨を出現させただけである。その結果、男は意図せずブレスレットに硬貨をぶつけて衝撃を発生させてしまい、その場で亀裂が発生してしまったのだ。


(こ、コイツ、こんな短時間でオレの能力に対応してきやがった……ッ!)


 ようやく自分が狙っていた相手のに気がつき、男は冷や汗をかく──最早それが痛みによるものなのか、恐怖によるものなのかわからない。


「キサマ、まさか大勢殺しておいて右腕を失う覚悟すらなかったのか? そんな安っぽい心で何人も殺してきたのか?」


「……て、テメー、ぜってー許さねー……」


「……聞いていないか。なら良い、もうキサマは喋るな」


 男は半分上の空で恨み言を呟きながらも、ふらふらと左手で地面に落ちているネックレスのビーズを拾おうとしている。彼はそれを見て、呆れたように侮蔑ぶべつの眼差しを向ける。


「もうキサマは何もするな。どのみち警察が来て、オレは警察にキサマの身柄を引き渡す。抵抗しようとするなよ? キサマが何を投げようと、オレが弾いてで亀裂を作ってやる。オレに生かしてやるつもりは毛頭ないから、次のキサマの攻撃が間違いなくキサマを殺すだろう」


「……っせー……殺すッ……テメー……ッ!」


 ふらふらとした姿勢で何度も落としたり空振ったりしながら、ようやく男はビーズを拾う。そして、先ほどとは見違えるように余裕のなくなったフォームで振りかぶる。しかし、案の定バランスを崩してしまい、前方に倒れそうになる。片足が地面から離れる。


「全く……付き合いきれんな」


 そう言って、彼はため息をつく。しかし、すぐに彼の足元にある赤いものに気がつき、ハッとする。


(──今だッ!)


 男は片足の後ろにあったカチューシャの破片を、彼目掛けて今までとは比べ物にならないスピードで蹴り上げる。咄嗟とっさに彼は前方に複数枚の硬貨を出現させるが、それより一瞬早く破片がその地点を通りすぎてしまう。


「しまっ──」


「テメーも、これで終わりだァーーッ!」


 破片はそのまま彼の額へと飛んでいく。そして、破片が彼の顔の前まで近づき、彼がこれから起こる激痛を覚悟して目をつぶった瞬間──


──柔らかい何かが、男の額に当たってポトリと落ちる。


「──え?」


 男と彼が驚いてその何かを見る。そして、すぐにその異常に気がつく──何か、半透明の丸いものに先ほどの破片が包まれている。


「……シャボン玉?」


 両者があっけに取られているのもつかの間、男に大きな影が差す。男が驚きの声を上げると同時に両者が上を見上げると、そこには──


──巨大なシャボン玉の中に立ってこちらを見下ろす、銀髪の少年がいた。


「は……!? お、オイ、何だテメ──」


 その巨大なシャボン玉はすぐに男の前に落ちてきて、地面に触れると同時に割れる。そして、中から出てきた少年は、涙目で男に駆け寄る──その目の本来白くあるべきところは黒く、また黒目は白かった。男が思わず少したじろぐが、すぐに少年が話し始める。


「つらかったですね、お兄さん」


「……は?」


「だって、その、ええと。こんなに多くの人たちを殺しちゃって、しかも自分も腕が、ほら、なくなっちゃって。本当に、本当に大変でしたね」


 少年の言葉に困惑し、誰も後に言葉を続けることができない。


「でも、うん、大丈夫。今、お兄さんが殺すのをやめれば、何とかなります。いや……ごめんなさい、さすがにここまでくるとボクも無理かなって思うんだけど、でも、多分大丈夫。目を覚まして、悔い改めるっていうのをすれば多分、多分。ね?」


「………」


 男は、少年が言い放ったあまりに適当に思える言葉の数々を受け止めることができず、思わずその場に崩れ落ちる。その音で、半分我を失っていた彼もハッとする。


「……オイ、キミ! 何をしてるんだ、早くそこから離れ──」


「──ざけたこと言ってんじゃねーぞ、小僧ッ!」


 ようやく我を取り戻した男が怒鳴り、手に持っていたビーズを持って振りかぶる。


(しまっ──)


 あまりに2人の距離が詰まっているために、彼は硬貨による衝撃の発生を使うことができない。彼はただ手を伸ばすことしかできなかったが、すぐに再びの驚愕を味わう。


「──なッ……!」


 男が、先ほど少年が入っていたような巨大なシャボン玉に包まれたからだ。


「ほら、ダメですよお兄さん。もうこれ以上人を殺しちゃ」


 シャボン玉の中で、男が勢いのままシャボン玉の壁にビーズを投げつける。しかし、そこに例のガラス板が出現することはなく、ただシャボン玉の中にビーズが転がっただけだった。それを見て男は青ざめ、左腕で少年目掛けてシャボン玉の壁を殴る──シャボン玉の形こそ歪むが、その拳が少年に届くことはない。


「もう大丈夫です。このシャボン玉の中なら、そう、お兄さんはどう頑張っても衝撃を生み出せない。これでお兄さんは、もう能力を使うことが……ってそうか。シャボン玉の中には声って届かないんだった」


「──!? ──! ──ッ!」


 シャボン玉の中で男が何かを叫んでいるが、外にいる少年と彼には全く聞こえない。しばらく2人は暴れ叫ぶ男を見ていたが、やがて少年が彼の方に近づいてくる。よく見れば、その両頬にはTのように見える黒い紋様が刻まれている。その異質な雰囲気に、思わず彼は少し後ずさりする。


「大丈夫でした? おじさん」


「え? ……あ、ああ。大丈夫だ。ありがとう」


「そうでしたか。……ふーっ、良かった~……」


 少年が、目の前でため息をついてみせる。そこに多少の人間味を感じるが、逆に彼は少年について様々な思索を巡らせてしまう。そして、しばらくして彼は1つの結論を出す。


(……まあ、取り敢えず悪人ではなさそうだしな)


 彼は深呼吸して、少年に話しかける。


「あー……キミ、名前は?」


「え? あ、その、ヨールです」


「なるほど、ヨール。良い名前だな。オレは──」


 そう言って、彼は左手の革手袋を外して、手のひらを少年に見せる。


「──タナリオ。もう知ってるとは思うが、キミと同じ夢追人ドリーマーだ」


 その手のひらに存在する3つの目玉には、少年の驚いた顔が映っていた。

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