⑥ リージャン・ロード・クライマー 野生化したオールドローズ

 士別市の春は遅い。冬は氷点下二十度台を記録することもある道内でも極寒の地だった。そのため、大手自動車会社が寒冷地試験場として利用しているほどである。


 初夏ではあるが本州の感覚でいうと、まだ春に近い気候。雨が降れば肌寒い日もまだあるため、舞は父と共にスプリングコートを羽織って、その土地に到着する。


 羊の丘へと登っていく道の入り口を通り過ぎ、緑の木々が道路沿いに続く。もう少し行くと、満天の星を見ることが出来る星の丘があるがそこまでは辿り着かず、父が運転するクルーザー型の車は、舗装が古くなっている小道へと曲がった。


 長年の劣化で雨水で風化しているでこぼこしたアスファルト、両脇は鬱蒼とした緑の木々、だがそう長くはない。ほんの数十メートルだ。助手席にいる舞の目に、あのペンション風の家が飛び込んでくる。


「あれ、だよね」

「そう、あれだ。レトロな煙突が目印だ」


 娘を連れてこられたからなのか、どこか父は嬉しそうだった。

 林の道を抜ける。父の車が開けた庭へと飛び込んだとき、舞はあっと驚くものに目を奪われる。


「お父さん、あれ……、あんなのもあったの!?」


 目的地に到着したため、父が車を止めた。濛々と茂る緑の草が覆う荒れた庭の向こう、森林の木々が大きな緑の壁面のようになっているそこに、まるでヴェールでもまとっているかのようなバラの群生が覆っていたのだ。


「凄い! あれも野生化しているの。そんな強いバラなの。凄い!!」


 遠目から見ているだけなのに興奮やまず、舞は急くようにあたふたとシートベルトを外して、父より先に車を降りた。


 以前のまま残っている石畳の道を行き、舞は草に覆われている庭の向こうへ、森林へと近づける道を探す。


「舞、納屋へ向かう道が森林と繋がっているんだ。家の手前から入れる」


 後から歩いてくる父を置いて、舞は急いだ。


 森林の緑の壁に、たくさんのローズが飾られているような壮観さだった。


 ベージュ色のスプリングコートの裾を翻しながら、舞は早足で向かう。

 石畳の割れ目に苔が生え、細く長く続き道の両脇を野草が頭をもたげ邪魔をする。それを押しのけ、舞は森林へと向かう。


 庭の片隅に納屋、そこまで辿り着くと、もう森への入り口。石畳はここまでで、その向こうは自然の土の小径が薄暗い森の中へと続いている。


 緑の広葉樹や針葉樹が無造作に並ぶ手前に、薄紅色の小さなバラが無数に咲いていた。しかも株が大きいのか数メートル向こうまで続いている。まさに森のフェンスを覆うヴェールだった。しかも、優しいほのかなローズの香りが漂っている。


 手が届くピンク色のバラを手に取り、舞は花の形状を確認する。


「浅いオープンカップ咲き、半八重咲き、オールドローズ。香りが強く、ティー系?」


 優しい紅からうっすらと白っぽい紅へとグラデーションがある花びら、こんな野趣溢れるおおらかな咲き方をしているのに、花にも香りにも気品がある。


「舞……、やっと追いついた」


 息を切らした父も、舞の側にたちつくし、自分の背丈より高く生い茂っている蔓バラを見上げる。


「これは素晴らしい。春咲きの球根草にも驚いたが、こんなバラも植えていたのか」

「ここまで放っておいてもずっと勝手に咲いていたってことだよね。これは『リージャン・ロード クライマー』かもしれない」


 帰ったら高橋チーフに見てもらおうと、舞はカップ咲きの花をアップで撮影し、全体像もと森と庭の境目で無数に咲き誇る姿もスマートフォンのカメラで撮影をしておく。


「良い香りだ……」

「このバラは1993年にイギリスのプランツマンが中国雲南省の麗江路(リージャン・ロード)沿いに植栽されていたのを発見して、リージャン・ロードという名がついたバラなの」

「平成の初めだな。ペンションのオーナーご夫妻が興味を持って新しい種のバラを植えたかもしれないってことか」

「初心者向けで、強いの。放っておくと大株になりやすくて、すぐに伸びていくから、ここのような広い場所が必要なバラなんだけど……」

「なるほど。この庭なら充分な広さ、そして野生の環境も抜群だったということか」


 舞は息を呑む。『花のコタン』でもバラが咲く時期に合わせて栽培をしていく。綺麗に見えるように手も入れる。整えるための手入れだって……。なのに、手入れもされていない庭で、誰も訪ねてこない庭で、ただそこにあるだけで咲き続けている。香りも姿も景観もこんなに素晴らしいのに、彼らにとってそれは目的ではない。ただ咲いている『生きているから』。


 高橋チーフの言葉を思い出す。『どんなに俺たちが綺麗に庭を整えて咲かせても。野生の姿に惹かれるのはどうしてなのだろう』と。きっとこれだと、舞はいま心打たれている。


 そして舞は庭をずっと向こうまで眺める。よくある学校のグラウンド半分ぐらいの大きさがある敷地。春によく見るハルジオンがたくさん咲いていて風に揺れている。庭から後ろへと振り返ると、平成の頃によくみたヨーロッパの造りを意識した洋館ペンション。そしてこの庭と建物の敷地の向こうには、小高い緑の丘がひとつ、ふたつ重なっている。羊が放牧され、のどかに遊んでいる。そして青空と白い雲。ゆるやかなカーブの丘陵地。その谷間、麓に小さな森林と一緒にこの土地がある。


 ここが、父がほしいと思っている場所。最後の……、終の……。

 そして舞も気がついた。側には古い納屋、その軒下にも薄紫のスミレがちょこちょこと咲いていた。


「お母さん……」


 舞の呟きを訝しんだ父も、娘の視線の先に気がつく。

 父はその小さな花へと近づいて跪いた。


すみれ、舞もここが気に入ったようだよ」


 父の指先が、小さな花に触れる。可憐に見えて強い花、どこにでも咲ける花。父はそこに亡き母を見ているようだった。そして舞も、なにも言えなくなっている。


 この庭の力を、知ってしまったからだ。

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