③ スミレが囲む家

 高橋チーフが先に口火を切った。


「ええっと、あの……。この土地はどちらになられるのですか」


 高橋チーフが手に取っている用紙を、舞もしげしげと覗き込む。他にも数点、印刷された写真もあるが、森の入り口は花が咲いていてまったく殺風景というわけでもない。森林へと小径が続いているが、その入り口には納屋もある。その納屋の向こうは、森林が開けて青い空が見える。さらに開けたそこに見えるのは連なる緑の丘、頂上には洋館風の建物があり、丘には羊の姿が点々と見える。ここは……もしかして……。父がその答えを告げる。


士別市しべつしです」


 高橋チーフがまた息を引いて驚いている。


「え、士別市……。あの高速道路最北のインター『士別しべつ剣淵けんぶち』がある、あの士別市ですか」

「はい。羊で有名なサフォークの丘が見える麓に、このペンションがあります。ここをカフェに改装して、娘にはガーデンを担当してもらい、二人で経営したいと考えています」


 舞はやっとテーブルに身を乗り出し、父に詰め寄る。


「待ってよ! 私、いま初めて聞いたんだけれど!」


 士別市は札幌から車で高速道路を使っても三時間かかるほどに、北へと離れている街。人口は二万人いるかいないか。札幌を去り、そこでお父さんと一緒に仕事をしようと言い出したのだ。舞にしたら寝耳に水だが、父はちっとも悪びれていない様子で、いつもの優しい笑みを見せるだけ。


「カフェはどこでも出来ると思う。でも、お父さん、この土地が気に入ったんだ。舞が整えるガーデンが見えるカフェをやってみたいんだ。舞がひとりで出来る仕事だとチーフさんが判断したら、一緒に来て欲しい」


 困惑するしかない。娘として初耳で、なんの相談もなければ、そんな素振りさえ父は見せていなかった。そしてチーフもだった。


「私が、上川が一人で手入れが出来ると答えたら、お父さんは決心がつくと仰っているのですか」


 決断を人の返答に委ねられていると感じたのか、いつもの高橋チーフの声ではなく、どこか不快感も垣間見え、舞はひやっとして黙り込む。


「あ、そうではないのです。ですが、舞が、娘が手入れできそうな広さであることも考慮して、不動産を当たってきたのです。確信はあります。大きくもなく小さくもなく。ここで花が咲き誇れば見栄えがする土地で、家屋も古くは見えますが、外観は素晴らしい佇まいですし、不思議なことに中はそれほど傷んでいなかったんですよ。買い手がつくまでこちらの地主さんがマメに点検されていたそうです。なんでもご両親が経営されていた昭和の頃は随分と繁盛していたとのことで、お子様だった地主さんも、こちらのペンションがご生家で育って巣立ったとのことで、愛着はあるようです。ペンション自体は平成になって閉業したそうですが、ご両親はこのペンションでしばらく暮らして、お父様が他界され、お母様が一人でしばらく暮らし、二十年前にご高齢で施設に入ることになり、この土地を売りに出すことにしたとのことです」


 父の落ち着いた声の説明が続いたが、やっぱり舞は納得できなくて、ひとり悶々としてる。高橋チーフもそんな説明されても、どうして部下のお父さんがこんな決断をしているのか、理解が出来ないと眉をひそめている。


 それでも父は続ける。


「さらに、こちら見ていただけますか」


 新しく差し出された用紙にも、いくつかの写真が印刷されている。

 だが、それを見た舞と高橋チーフは驚き、その紙に二人揃って顔を近づけ目を丸くする。


「すごい、ムスカリの群生だ」

「クロッカスにスイセンも……いっぱい」


 なぜ驚いているのか、高橋チーフがさらに茫然とした様子で呟く。


「野生化している? いや……ムスカリならともかく、クロッカスにスイセンまで?」


 雪解けの季節なのか、森の入り口にはまだ白い雪が残っている。ところどころ土がのぞき始めている家の軒下、森の入り口樹木の下に春咲きの球根草が咲き誇っている。


 穂のような紫のムスカリが群れ、対照的なイエローのクロッカスも所々に、高潔な姿のスイセンの白い花も森の入り口を彩っていた。


 手入れをする者がいなくなっても勝手に気ままに、しかも雪解けあとに咲いている。都市部では見られない野生の姿だった。


「この雪解けの花たちにも惹かれたのですが、さらに私がこの家を買おうと決めたのは、これなんです」


 さらに父が指さした写真を見て、舞は感嘆する。


「これ、スミレ?」


 ムスカリなどが群生している家の軒下には、薄紫の小花がびっしりと、その家を取り囲むように咲いていた。


「これはまた可憐で美しいですね。自然が豊かな土地柄だからこそでしょう。素晴らしい」


 高橋チーフも感動している。

 だが舞はもっと違うことに心を囚われていた。父も舞を見つめ、目を細めている。

『スミレ』――。それは亡くなった母の名だった。


 父はここに母と再会したような、なにかを感じたのかもしれない。


「そこで先ほどのご相談に戻ります。この敷地をもう一度、花のガーデンとして復活させたい。いまの娘にできるかどうかを教えて下さい」


 本題に戻ったが、その答えを詰め寄られるように突きつけられた高橋チーフが当惑している。


「お答えできません。上川は大事なスタッフの一人です。これからもこの公園のために働いてほしいと上司として思っています。もし手入れをする力を持っていたとしても、お渡しするつもりはありません」


 相手が父親でもチーフがきっぱりと断ってくれ、舞はほっとしてしまった。

 でも父は少しもがっかりした顔を見せない。むしろ余裕の笑みを湛えている。


「チーフさんが既に手放したくない職人になっていると、思っていいようですね」

「いえ、そんな、園芸インストラクターの資格を取得したとはいえ、まだまだですよ!」

「さようですか。わかりました」


 父が諦めてくれたように見えた。


「他の職人さんを当たってみます」


 チーフと共に『え』と顔を見合わせる。父はまったく諦めていない。娘がダメなら他のガーデナーを探すつもりらしい。つまり、どうあってもあのペンションでカフェを経営し庭を造り直すと決意しているのだ。


「お忙しいところ、お話を聞いて下さって、ありがとうございます。本日はこれにて失礼いたしますね」


 それでも父は舞に『考えておいてくれ』と持ってきた不動産の資料と画像のプリントを置いていった。





 父が帰った後も、舞は事務所のデスクで父が置いていった画像のプリント用紙を数枚、何度も眺めていた。


 隣の席にいるチーフも、そんな舞を気にして黙って放っておいてくれたが、業を煮やしたのか話しかけてくる。


「なあ、大丈夫か? お父さんのあの話、承諾するのか」

「まさか。ですが……、どうしちゃったのかなと……」


 ペンション風の建物の周囲を、綺麗なスミレが紫のリボンのように囲んでいるその光景は、確かに惹かれるものがある。


「なんでだろうな。園芸職人として、綺麗に庭園を造り出し整えても、こんな野生の風情に惹かれてしまうのは」


 高橋チーフの呟きに、舞もその通りだと心の奥で頷いている。

 きっと父もそうだったのだろう。雪解けのある日、この家を見つけて惹かれて心を掴まれたのだ。


「あれだな。言っちゃ悪いがよ、おまえのお父さん、まだ子離れできてないわ。お父さんのことは俺も一人の父親として仕事人としても男としてもかっこいいと思っているけど。こればっかりは……」


 無謀にも娘を巻き込もうとしていると言いたいのだろうが、チーフはそこまでは言えず言葉を濁した。


「でも。この庭、園芸種でもう一度整え直したら、いい風情になるぞ。森林が側にあり、その向こうにサフォークの丘が見えて、そう広大でもなく小ぶりの敷地で、古き良き北国様式の洋館で雰囲気は抜群だ」


 無茶な父の決断ではあるが、例の物件についてチーフはべた褒めだった。見る目はあると言いたいのだろうか。


「だが上川、よく考えろよ。おまえが『やる』と言えば、お父さん本当に決断してしまうぞ」

「はい、わかっています」


 父の真意をもっと深く知るために、話し合わなければならないと舞は思っていた。

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