【1】 サフォークの丘 スミレ・ガーデンカフェ 開店です
① 父は、シングルファザー
庭の雑草取りは、暖かくなったら花の季節が終わるまで、やっつけてもやっつけても出現する敵との戦いの如く、毎日続けねばならぬ仕事だ。
セミロングにしている黒髪は、いつも一つに束ねている。少しくせがあるのか毛先はくるんと丸くなる。お気に入りのストローハットと大好きなリバティプリントのシャツ、首掛けエプロンをして、腰には花鋏やスコップを収めたツールベルト、ガーデナーの作業スタイルで、今日も土まみれになりながら、舞は腰を落として手を動かす。
そんなうんざりする作業をしている時、この人は気配もなく現れる。
「いい天気ですね。よく冷えたオレンジティー、おいしかったなあ」
相も変わらず、虹の黒髪をもつ彼が、森からひっそり現れては舞に話しかけてくる。
「こんにちは、もうそんな時間?」
「お疲れ様、舞さん。そろそろお茶の時間かなと思って来てしまいました」
この男性が現れるようになって数日だろうか。
「舞、で結構ですよ。そちらのお名前は……思い出せましたか?」
「ん? 僕のですか?」
首を傾げて唸っている。とぼけているのか、わざとはぐらかされているのか、よくわからなかった。
何度かこうして庭に現れて、そのたびに舞の休憩へとついてきて、一緒にお茶をする。昨日は父が、オレンジティーを初めてアイスで煎れてくれたので、またもや虹色の黒髪を持つこの人が大感激をして、満足げに森へと消えていくのを見送った。
この人は実態がないので、父が出したお茶を飲むことが出来ない。出来るのは舞がお茶をするときに、舞が飲むと彼も同じように味わうことが出来るようだった。
それからお茶欲しさに、焼き菓子欲しさに、この庭に現れては、舞の仕事が終わるのを待っている。特にオレンジティーを欲しがる。彼の大好物になっていた。
早く早くと急かすこともないので、舞も邪険にしない。それどころか、彼は庭に来るとさっと一巡り。庭の草花を観賞して楽しんでいる。実態がないので舞の仕事の手伝いは出来ない。
彼が庭巡りから戻ってきた。
「お父さんの剛さんは、珈琲屋さんだったわけですよね。どうしてやめてしまったのでしょう。本当に美味しいお茶をいろいろ淹れてくださるので、とっても気になります。舞がお父さんとここに来たのは、前の、そのまた前の夏……でしたっけ?」
「はい、そうです。前の夏は開店一年目でしたが、このガーデンの半分しか花を咲かせることができませんでした」
「では、ここでお仕事が終わるのを待っています。その間に、この前の話の続きを聞きましょう。ええっと、お母さんが早くに亡くなり、舞が『花のコタン』という大きな公園で、このようなガーデナーというお仕事をするようになった。でもお父さんが急にここでお店を経営すると言い出した。でしたよね」
「はい、二年前になります」
「前の前の夏、でしたね」
舞は雑草を抜きながら、こっくりと頷く。
二年前、札幌市。
札幌森林地帯の広大な敷地にある丘陵公園『花のコタン』。そこが舞の職場だった。
舞の仕事は、いまふうに言えば『ガーデナー』。いわゆる『庭師』、園芸の職人である。
大学卒業後、完全素人の新卒から上司と先輩にたたき込まれ、二十七歳までそこにいた。
望んで就いた職業ではなかった。花や植物を育てることに憧れや夢があったわけでもない。
就職活動中の求人で『花のコタン 園芸部での園内管理業務』に惹かれたのは、事務職ではないこと、外の仕事で身体が動かせること、実家から離れていることなどなど、舞が思い描く条件に、それとなく沿っていたからだ。
畑仕事にも似た作業を必要とする園芸職人は人手不足とのことで、なり手が少ないらしく、採用はすぐに決まった。仕事を続けていれば園芸庭師の資格が取れるというのも、舞の心を動かした。
五歳で母親を亡くしている舞は、父『
だから、舞が札幌郊外にある公園で園芸職員として働くと聞いた父は非常に驚き、戸惑い、内定が出ても『それでいいのか。舞、ほんとうにいいのか。大丈夫なのか、この家を出て一人でやっていけるのか』と、それまでの過保護な父親ぶりを発揮した。
舞は父のことが好きだ。大好きだ。きっと誰よりも愛している。父も娘を手塩にかけ、母親の分まで愛し、時に厳しく、しかしおおらかに育ててくれた。だからこそだ。だからこそ、舞は父から自立をしなくてはならない。自分の力で生きていく力を備えたい。
舞の願いは、父が自由になることだった。
何故なら、父が一度、再婚を諦めたことがあるから……。
そのとき舞は十四、五歳の気難しい年頃だった。舞は思う、きっと子供の自分がいたから、父と彼女が遠慮しあって、最後に話が噛み合わなくなって、結婚をやめてしまったのだと。
父の姉、伯母に言われたのだ。『舞ちゃん、お父さんの幸せのために、よく考えてあげて』と。舞さえ受け入れたら、結婚は成立するような雰囲気を大人たちが漂わせていた。
父の恋人だっただろう『彼女』のことは、舞も嫌いではなかった。むしろ綺麗なお姉さんで、素敵だと緊張したりしていた。そして父と彼女が恋人に見えたことは一度もない。おそらく父と彼女が完璧な気遣いを、思春期だった舞に配慮してくれていたからだ。
父と彼女と三人でドライブに行ったこともあれば、食事をしたこともある。生々しい男女のやりとりなど決して見せない二人だった。だから、舞は密かに期待していた。『あの人が、お母さんになってくれるのかも。若い女性が作るお弁当とか、買ってきてくれるお洋服はどんなものなのかな』――なんて、少女らしいときめきがあったことさえ、いまでも鮮烈に思い出す。そしてそれは、切なさにも変わる。彼女が去ってしまったからだ。
二人が男と女の匂いを一度も舞に感じさせなかったのと同様に、父は彼女と別れた理由さえ垣間見せなかった。ただ、元気はなかった。しばらくは……。
成人して、社会人になり、それなりに恋愛を経験した舞であっても、やはりわからない。父と彼女がどうして別れて、結婚をしなかったのか。
父はそれから二度と女性を連れてくることはなくなった。
むしろ仕事に打ち込み、娘を育てること一筋のシングルファザーを貫いた。
娘の自分がいうのもなんだが、父はハンサムでオシャレで、物腰もやわらかく、仕事も出来る。女性にモテることは、舞も肌で感じていた。
父の勤め先は札幌市内の大手珈琲会社『エルム珈琲』。カフェメニュー開発部の課長から部長も務め、会社からも部下からも信頼されている姿を、子供の頃から見てきた。
もしかすると、また舞に気遣って、恋人の匂いを完全に消し去っているかもしれない。いまのところ、父から女性の影や匂いを感じたことはない。
舞が自立したら、父は自由に恋が出来る。少し歳を取ってしまったかもしれないけれど、まだ遅くはないはず。これからの伴侶を得て、自分のために満たす人生を送ってほしい。舞の自立願望は、そう思ってのことだった。
『花のコタン』という公園は、札幌近郊の道民にとっては憩いの場だった。
北海道らしい自然豊かな土地柄の敷地は丘陵地帯で、広大な丘の花畑に豊かな植物、そしてファミリーが賑やかに遊べるレジャー施設もある。冬の間は雪一面になると、スキー場として運営している。
遅い春にはチューリップが鮮やかに丘陵を彩りはじめ、五月の終わりには札幌を象徴する花、ライラックの香りが漂う。六月にはすずらんが可憐な姿を見せ、夏になるとラベンダーにバラが爽やかに公園を包み込む。秋には優しいコスモスが無数に丘を埋め尽くす。
その花の彩り、森林からの風、緑の匂い、広々とした敷地で伸び伸びと駆け回る子供たちの声がこだまする。人の幸福にも包まれる花と森の公園。
舞はそんな人々が集まる中、淡々とするべきことをこなしてきた。
自然は気まぐれだ。そして植物には決まった性質がある。不確かな自然という器に、どこまでも生真面目な彼らの性格に合わせて育てなくてはならない。
それでも、気が強い舞は一所に毎日同じ人が集まる場所では、窮屈な付き合いしかできないだろうと、たとえチームがあったとしても、外でダイナミックに身体を動かす仕事をと望んでここにやってきた。
面接で『あなたは、どうしてこの仕事を選んだのか』という、ありきたりな質問に対しても、どこの面接先でもおなじ返答を繰り返した。
『自立をしたいからです。まず自分の力で最低限の生活ができるように努力をしたい』だった。
そんな舞の姿がどう映ったかは知らないが、この『花のコタン』園芸部への就職が決まった。最初は寂しそうにしていた父だが、周りの友人や親戚に言われたのだろう『親離れ、子離れも大事なことだ』と。きっと舞が心で思っているように、よくよくある親戚のアドバイスは『やっと子育てが終わったのだから、これからは自分がやりたいことをやりなさいよ』だったに違いない。
その父が『やりたいこと』を見つけた。
それを知らされたのは、札幌『花のコタン』で、ガーデナーとして黙々と花々と向き合うこと五年。勤務中なのに娘とその上司に、父から会いに来た時だった。
一人前とはいかずとも、先輩職人の指導から経験を積み、園芸部員の一員だと自ら感じられるようになった頃、舞、二十七歳の六月。娘に報せるべく、わざわざ父が『花のコタン』にやってきた。
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