第十二話 あなたが一番
カフェ・ルナティのケーキはとにかくおいしくて、僕はあっという間に食べ終えてしまった。ヒマリさんは上品にちょっとずつ食べているのに……アリスの仮面にそぐわなかったとひとり反省する。
やがて、ブランド店長の女性が再び前に進み出て、マイクを取った。
「みなさん、ご歓談中失礼します。そろそろ新作お披露目会をはじめさせていただきます」
と言い終わるや否や、周囲の客が一斉に鞄をごそごそとやりだした。カヨもサチも、みんなスマホを取り出している。ちょっと異様な光景だ。
お披露目会は、レ・ローズ・ミニョンヌのスタッフが新作のドレスに身を包み、店の真ん中を練り歩いてみせるというものだった。立ち止まってポーズをとるたび、黄色い歓声と共に嵐のようなシャッター音とフラッシュが浴びせられる。
僕は不思議だった。別に有名なモデルというわけでもないのに……。確かに、一般人にしてみればすらりとしていて背も高いし、このお披露目会を見込んで綺麗な見た目の人を選んで雇っているのかもしれないけれど、はっとするほど美しいとは感じなかった。ヒマリさんが歩いた方が絶対に映える。これは決して身内贔屓じゃない。
「みなさん、撮影はお済みですか? 当新作はすぐ裏手にあるレ・ローズ・
ミニョンヌ本店にて、本日より予約を受け付けております。トルソーにも飾っておりますので是非お立ち寄りくださいね」
サチさんの言葉の意味がわかった。やはり、このお茶会の目玉は新作ドレスの宣伝なのだろう。
その後は自由に席を立ち、各々客同士で交流してもいい時間になった。といっても僕もヒマリさんも席に座ったまま、静かに紅茶のおかわりをいただいている。周囲の客はお茶会の常連が多いのか顔見知り同士らしく、遠くの席からわざわざ移動して、お久しぶりです、なんて言葉を交わしている。フリルとレースのロリィタたちが部屋の中を一斉に行き交う様子はなかなか圧巻で、視界に花びらが舞っているかのように華やかだった。
カヨとサチも席を立ってどこかへ行ってしまったので、僕はそわそわとヒマリさんの方を見る。
「あの……この時間、どうすれば」
「どうもしなくていいよ。気になる人がいるなら、行って声をかけてもいいいけれど」
悪戯っぽく囁かれ、僕は少し慌てた。
「まさか、いません。僕は別に……」
「わあ、素敵!」
突然、頭上から野太い声が降ってきた。いつの間にか、テーブルの横にずんぐりむっくりした人が立っている。ふわふわのピンク髪のウィッグを被り、ロリィタを着てはいるが、女性でないことは一目でわかった。ごつごつした広い肩幅、繋がりそうな太い眉、口周りに薄らと見える青ひげ。筋骨たくましい足に履いたハイソックスは猫の模様がはち切れんばかりに伸びている。ブラウスもスカートも全てが甘ったるいピンク色だった。
「もしかして初めて見るひと?」と、僕の方を見下ろす。ヒマリさんを指して、「彼女は見たことある。何度か来てる、よね?」
「二回ほど」ヒマリさんは彼のぎょっとするような容貌にもまったく動じず、美しい微笑を浮かべる。「この子は初めてです」
「そうなんだ! ええー、すっごくかわいい! どこから来たの? ロリィタはいつから? 君、かなり若いけど中学生? 高校生?」
怒濤のように質問攻めにされて、僕は視界がちかちかした。気づけば周囲のロリィタ客たちもこちらを見ている。心なしか、憐れむような目で。
野太い声の人はそれからもひたすら話しかけてきた。聞いてもいないのに自分はどこから来て、なんのブランドが好きで、今日の客やモデルは全員ぱっとしないけど君だけは素敵などと熱っぽく語りだした。僕は不本意に目立ってしまった恥ずかしさに石のように固まっていたが、ヒマリさんがぱっとしないと言われた瞬間、腹のあたりがかっと熱くなった。
「ねえ、写真撮ってもいい? さっきもあの白い子と撮ってたよね?」
彼は安っぽいラメでぎらぎらと飾り付けたスマホを取り出して、もうカメラアプリを立ち上げるそぶりを見せている。僕はアリスの仮面につんと冷たい表情を貼り付けた。
「すみません、やっぱり写真は好きじゃないので」
彼はみるみる顔を曇らせた。「そう……」と呟き、それでも机の横から動かない。さらに何か言わんとして口を開く。
「紅茶のおかわりをお淹れしましたよ。いかがですか?」
盆を持った店員さんがいつの間にか後ろにいて、さりげなく声をかけた。空いた手で座席の向こう側を指し示している。
「ただ今、全てのお客様にお注ぎしているところです」
「どうも……」
しぶしぶ、彼は座席まで去ってくれた。全然気づかなかったが、僕らの座る座席の斜め向こうだ。顔を上げると目が合いそうになるのでできるだけ避けた。
「あなたのこと、ずいぶん気に入られたみたいね」
ヒマリさんは苦笑している。笑い事じゃないのに。
「あの人は……僕と、同じですか」
「あなたと同じ?」
「あの人も……男の人、ですよね」
男性がロリィタファッションを愛用することについては何とも思わない――こともないけれど、少なくとも僕が何かを言える立場じゃないことはわかっている。わかっているから不安だった。あの人はここの空気の中で明らかに異様で、浮いていて、受け入れられていない感じがする。僕もやっていることは同じだ。たまたま若くて髭もなく、骨格が華奢で、女の子っぽいというだけで……
ヒマリさんは考える間もおかず首を横に振った。
「あなたとあの人は違うよ。あの人は、ただロリィタを着るのが好きな人」
それは僕も同じじゃないだろうか? いや、そもそも僕はヒマリさんと同じ世界を生きるためにアリスになっているのであって、ロリィタを着ること自体、好きなのかどうかはわからないけれど。
「まず大前提として、ロリィタは自由だから、性別の制限は基本的には存在しないの。ただ美しくあればいい。それとは別に、あなたは今わたしの姉妹、アリスなのだから、女装とは違うのよ」
ヒマリさんは紅茶を啜り、「前にも言ったでしょう?」と優しい笑みを浮かべた。何度聞いても、やっぱり僕のアリスと女装との明確な違いはわからない。でも、ヒマリさんの中では全くの別物なのだということだけは確かなようだった。いつか僕にもわかるだろうか。ヒマリさんと同じ世界で、同じ視点で物事を見られるときが来るだろうか……
交流時間はあっという間に終わり、カヨとサチが戻ってくると、いよいよ最後のプログラムとなった。
「では本日のベストドレッサー賞を、勝手ながらこの私が独断で決めさせていただきます。受賞された方にはレ・ローズ・ミニョンヌで使えるクーポン券と、こちらカフェ・ルナティの最奥にご用意していますVIPルームにて記念撮影をプレゼントさせていただきます」
周囲の客の声がひそひそとさざめきのように湧き立った。わくわくとした顔で、誰が選ばれるだろうと囁き交わしている様子だ。
でも、カヨとサチは興味がないのか隣でスマホをいじっているし、ヒマリさんもぼんやりと壁の装飾を眺めている。僕は、ヒマリさんが選ばれる気がしていた。だって、本当に、一番綺麗だから。
「では発表いたします。本日のベストドレッサー賞は……」
ごくり、唾を呑む。絶対、ヒマリさんだ。間違いない。美貌も着こなしも振る舞いだってずば抜けているんだから。
「おはがき十七番、みおねこさんです! おめでとうございます!」
まったく知らない人が、きゃあと叫んで立ち上がった。同じテーブルの友人たちとはしゃぎ合っている。ぴょんぴょん飛ぶので、ぱんぱんに膨らんだスカートがテーブルのカップをひっかけそうになっていた。
「おめでとうございます、こちらクーポンでございます。そして、お茶会終了後はぜひVIPルームで記念撮影を」
「嬉しいです! ありがとうございます!」
舞い上がったような黄色い声が部屋中に響き、ぱらぱらと拍手が湧き起こる。僕は呆然としていた。そんなばかな。
「ま、そうだと思った」
カヨがスマホをいじりながらサチのほうへ目を向けた。
「あの子、全身ミニョンヌだもんね」
「しかも限定のヘッドドレスと靴まで揃えてる。かなり重客」
「だよね。出来レース出来レース」
ひそひそ、小声で話しているのは二人だけじゃない。いくつかのテーブルが明らかに祝いの雰囲気を纏っていなかった。
ヒマリさんは澄ました顔で最後の紅茶を飲みほし、ほっと息をついている。彼女だけは陰口に塗れた俗世とはまったく無縁のようだった。
お茶会がお開きになるとき、カヨがさっと立ち上がって僕たちの方へスマホを差し出した。
「よかったらお友達になってくれませんか?」
見れば、QRコードを読み取る画面が表示されている。クラスメイトたちも使っているあのチャットアプリに招待するつもりなのだ。
ヒマリさんも僕も揃って首を横に振った。
「ごめんなさい、わたし、スマホは持たない主義なんです」
ヒマリさんの言葉に僕も小さくうなずく。カヨは「ええっ」と目をぱちくりさせた。
「じゃあ、あの、わたしたちこれからブティックを巡る予定なんですけど、よかったら一緒に……」
「すみません、この子の門限がありますので」
と、柔らかな手が僕の肩に置かれた。カヨは僕を見下ろし、明らかに未成年である僕の容貌に納得したようだった。表情はしょんぼりしているけれど。
「カヨ、その辺にしときな」サチも立ち上がって黒いコートを羽織った。
「また会えたらそれでいいじゃん」
「うん……」
僕らは店の前で別れた。二人は町の中心部へ、僕らは駅の方へとそれぞれ歩きだす。
空は夕焼けに染まりつつあった。午後四時前だ。
「門限、大丈夫?」
「はい。六時半までに帰られれば」
「それならいいね」
道中、ヒマリさんは僕に一度も「楽しかった?」とは訊かなかった。彼女のことだから、疲れたような僕の様子から心中を察してくれたのかも知れない。ありがたかった。今そんなことを訊ねられたらどう答えたものかわからなかったからだ。
知らない世界を覗き見た。ケーキがおいしくて、たくさんのロリィタで溢れていた。お茶会は素敵なイベントだ。だけど――
「僕、ヒマリさんが選ばれると思っていました」
S駅のホームで並んでいるとき、僕はようやく口を開いた。
「新作を着ていたモデルさんも、ベストドレッサーに選ばれた人も、他のお客さんも……確かにみんな化粧も装飾も凝っていて、すごかったけれど……なんというか……」
言いあぐねる僕の言葉を、ヒマリさんは黙って待ってくれている。
「そう、気品……気品が違うんです。纏っている空気が……ヒマリさんは、本当に、ずっと昔のヨーロッパからタイムスリップしたみたいで」
「ふふっ」
耐えかねたように吹き出すヒマリさんに、僕は少しむっとして見せた。
「笑わないでください、僕は真剣なんです。ヒマリさんしかあり得ないって思っていました。今だって……。それに、選ばれた人も周囲の人も、みんな確かにロリィタだけど、はしゃぎ回ったり騒いだり、スマホばっかり見ていたり……なんていうか、思っていたのと違うというか」
ふいに、僕の唇に柔らかな指先が触れた。ヒマリさんは僕の唇を塞いだまま、困ったように微笑んでいる。
「ありがとう」
静かに、彼女が言った。
ホームに音が鳴り響き、電車の間もなくの到着を知らせる機械音声が反響している。
「あなたの感性を、大切にしてね。わたしのアリス」
電車はあっという間に近づいて、いくつもの扉が通り過ぎながら減速していく。ぶわ、と生温かな風が巻き起こり、僕とヒマリさんの髪とスカートを持ち上げる。
喉まで出かかっていたもやもやした言葉の続きは、いつの間にか消え失せていた。
見慣れたK駅の景色に降り立ち、二人で町中へ戻っていく。相変わらず道行く人に注目はされるけれど、もうなんにも気にならない。
「なんだかあっという間だったね。疲れたでしょう、初めてのイベントだったから」
「いえ、大丈夫です。一緒に行ってくださってありがとうございます」
そう答えたとき、ふと首筋にぞわりとするような嫌な視線を感じた。慌てて周囲を確かめたけど、何もない。
「まだ、周りの視線が気になる?」
ヒマリさんが心配そうに顔を覗き込むので、僕は首を横に振った。
「いえ、人の視線はもう……ただ一瞬、なんだかものすごく見つめられているいるような変な感じがして……」
一体なんだったんだろう。あの奇妙な感覚はもう感じなくなっていた。
「たぶん、気のせいです」
北へ続く緩やかな坂をのぼっていくにつれ、赤っぽい空が徐々に薄闇に染まりだし、人通りはまばらになった。あの公園に男子たちの姿はもうない。
まったく不思議な心地だった。今更ながら、僕は今、世間一般で言う女装をしていて、しかもかなり派手な恰好で町を練り歩いているというのに……
「なんだか、アリスとして町中を歩くのも、いいですね」
ヒマリさんと一緒なら、むしろこの方がいいとまで思えている自分がいる。
「そう?」
ヒマリさんは嬉しそうに口元をほころばせた。
「そうね……本当はね、アリスを館に閉じ込めて、わたしの視界の中だけのアリスでいてもらうつもりだったの。でも、このどうしようもなく無機質で美しさの欠片もない現実世界にあなたを立たせたとき、すべてが見違えるように見えて……」
「『自分の今いる場所や空気さえもがらりと変えてくれる』」僕はかつての彼女の言葉を口にした。
「ロリィタの力ですね」
彼女の微笑が、ぱっと大きく花開いた。
「ええ……そうね!」
その時だった。僕の頬に、しんと冷たいものが落ちた。はらり、視界に白い粒が舞っている。
「雪……」ヒマリさんが立ち止まり、両手を宙へ大きく広げる。
「本当に降るなんて」
「傘を差しましょう、ヒマリさん」
僕は夢中で傘のリボンを解いていた。実は、裾がたっぷりとフリルに彩られた美しい傘をさしてみたくてたまらなかったのだ。
二人で同時に傘を広げる。傘は中央の石突きに向かって骨が優雅に湾曲した形になっていた。パゴダ傘といって、ロリィタやゴスロリには欠かせない独特の形状であるらしい。内側いっぱいにステンドグラスのイラストが描かれていて、傘の下はまるで小さなチャペルみたいだ。
「素敵でしょう? お気に入りなのよね」
傘をさしたヒマリさんは、優美な貴婦人みたいだった。
ああ、目を奪われる。はらはらと舞う雪の中に佇む彼女が実は雪の精で、このまま雪の中へ溶けて消えてしまうんだとしたら、どうしよう……
「わたしの顔に、何かついてる?」
囁く声に我に帰る。僕は思わず一歩あとずさった。
「い、いいえ」
言えなかった。どうしても見惚れてしまうだなんて。だってこれは、きっとアリスにふさわしくない、「賢嗣」の意思。姉妹の神秘の時間を打ち壊すような、邪な意思……
ごくりと唾を呑み込み、僕は歩道の正面に向き直った。
「行きましょう。冷えますから」
そこから僕たちは互いに無言で、ただ過ぎ去る景色を堪能していた。平たい家と四角い建物が乱立するだけの無機質な景色だけど、僕たちは今、魔法にかけられている。粉砂糖のような雪の舞う中、周囲の景色は清廉な白に輝かんばかりだ。
あっという間に最後の坂を上りきり、僕の家と館が見えてきた。
「さあ、魔法を解かなくちゃね……アリス」
ヒマリさんが館の鉄門扉へ手をかける。
その時、僕ははっと顔を上げた。
ここから見える、家の二階の窓の一つ……あれは僕の部屋だ。そのガラスの向こうに一瞬、人影が映ったのが見えたのだ。
「アリス、おいで」
ヒマリさんが玄関口で手招いている。僕は窓から無理矢理目を離して、おとなしくついていった。
あれは、兄だろうか、母だろうか。
部屋の机にスケッチブックを置いたままにしていないか、何かヒマリさんとの関係をにおわせるものを剥き出しにしていないか、何度も頭を巡らせた。きっと大丈夫だ……母さんが掃除機をかけたんだ。自分でやるっていつも言っているのに、たまに兄のついでだからと入ってくるときがあるんだから……
館の衣装部屋で化粧を落とし、ウィッグを外し、ドレスを脱いで元の服に着替える。アリスは隠れ、賢嗣が戻ってくる。時計の針は午後六時。家に電話をかけ、駅から向かうと伝えた。
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