第九話 鳥籠の中
五
昼間になっても風の冷たさが増すようになってきた。十二月の頭にもなると、本格的にセーターやコートを着なければならなくなる。
僕は毎朝早起きして勉強に勤しむようになっていた。あの日点数を落として以来、神経過敏になってしまっている。
「次の土曜日、僕、外へ出たいんだけど」
夕飯のとき、母に申し出てみた。母は兄の方をちらりと見つつ、首を横に振る。
「だめよ。冬休み前にもテストがあるんでしょう。あなたはこの間点を落としたばかりなのよ、遊んでいる暇はないわよ」
「あれから勉強時間を大幅に増やしたんだよ。たまの息抜きがほしいんだ」
「たまの息抜きですって!」母は大仰にため息をつく。「本をたくさん買ってあげているのに、足りないというの?」
「本もあるけど、外の空気を吸いたいときだってあるよ」
「賢人はそんなの言ったことないわ。あなただってそうあるべきよ」
また、賢人だ。母は僕に、兄と同じ道のりを辿らせたがっている。自慢の息子にするために。
兄はすまし顔でハンバーグを口に運んでいる。僕は、母が一瞬兄の方を迷うように見たのを見逃さなかった。なぜだろう、妙な空気が流れている感じがした。
「とにかく、賢嗣、次の試験までは土日の外出は禁止よ。息抜きしたければ本を読みなさい。――ああ、あなたが自分で買っている、あの変なファンタジーとかじゃなくて、お母さんの買った事典とか、文学セットとかよ」
文学セットとは、日本を代表する純文学が箱入りになったもので、買ってもらった当初に全部読んでしまった。正直、僕に純文学なんてわからないのでもう一度読みたいとは思わない。でも、豪華な装丁が箱の中にきっちり並んでいる様は好きなので、部屋の棚に飾っている。
「わかった」
これ以上食い下がってもなんにもならないので、早々に席を立つ。
「賢嗣、皿洗いはいいから、早く部屋へ戻って勉強なさい」
僕はおとなしく従い、洗面所へ歯を磨きにいった。
洗面所を出る頃、母と兄はまだ食卓で話をしているようだった。兄が出てきて顔を合わせるのはなんとなく嫌だったので、足早に通り過ぎようとしたときだった。
「やっぱりあの子、反抗期なのかしらねえ」
ダイニングから漏れ聞こえてくる母の声。
「あんな風に外へ出たがって……確かに、不安だわ。賢人が教えてくれなかったら、見逃してしまっていたかもしれない」
「この前も言ったけど、あいつ、最近寝不足っぽいんだ。それだけ根を詰めてやってるのかもしれないけど、だからといってテスト期間の貴重な休日に遊び回っているようじゃ、難関校にはいけないしね」
「そうよ、寝不足ならベッドで休めばいいのよ。仮眠を息抜きにすればいいんだわ。だいたいあの子は、あんなに外へ出て遊ぶような友だちなんていなかったじゃない。それが急に……」
「そういえば俺のクラスメイトからちょっと聞いたけど、賢嗣の中学には不良っぽい家庭の生徒もいくらかいるらしい。良くない影響を受けているかもしれないな」
「いやだわ! 本当にそんなことになっていたら……ああ、だから無理矢理にでも私学に入れればよかったのよ。それなのにお父さんが、本人が嫌がるなら無理には、とか言ってあんな公立の汚いところに入れて……」
「入ってしまったものは仕方ないよ、母さん。大丈夫、俺も注意してみておくからさ」
足音を忍ばせて階段を上がる。
やはり兄が母にいろいろ報告していたんだ、僕のことを。だから余計に母が神経質になっているんだ……
腹の底がむかむかしていた。本当に余計なお世話だ。以前より勉強量を増やしながら必死に自分の時間を確保しようとしているのに、仮眠が息抜きだって? 何もわかってない……
部屋に戻り、宿題を済ませてふと時計を見ると午後九時だった。下の玄関で父の帰る音がする。トイレに行きたくなったので部屋を出ると、兄が階段を上がってくるところだった。
「トイレか?」
どうしてそんなことをいちいち訊くんだろう。
「うん」
「勉強、捗ってるか」
「どうして?」
「いや……」
「集中してるよ。今までになくね。だから、僕が部屋に籠もっている時は邪魔しないでね」
と、兄の返答も待たずに階段をすれ違う。廊下で父に遭遇し、「おかえりなさい」と声をかける。
「ただいま。そうだ賢嗣、母さんからきいたぞ、テストが良くなかったんだって?」
僕は出かけたため息を必死に呑み込んだ。
「八十五前後だよ」
「悪くはないじゃないか」
「でも、それじゃだめだって」
父は僕の言いたいことを察したのか、小さく肩を竦めた。
「まあ、あまり根を詰めすぎないような」
少なくとも、父は母ほど息子の成績にご執心ではないようだ。父の物言いにほんの少し救われた気分になった。
深夜、みんなが寝静まってから着替えて、窓から外へ出る。屋根の行き来はもうすっかり手慣れていて、自分でも驚くほど素早くなっていた。ただ、このところめっきり冷えるのでダッフルコートを着ている。これが案外動きにくい。
塀を乗り越え、道路を渡って館にたどり着くと、いつも通りヒマリさんが出迎えてくれる。今日は黒髪を波打つように巻いて、臙脂と黒のティアードドレスを着ていた。頭には薔薇のヘッドドレスがついている。
「いらっしゃい。寒いでしょう、早く入って」
そのまま、奥の居間に通してもらったが、僕は中には入らずに部屋の入り口で立ち止まった。
「ヒマリさん、僕、早くアリスになりたいです」
ヒマリさんは大きく目を瞬いた。そして、すぐに柔らかく微笑んだ。
「そう。わかったわ」
二人で二階へ上がる。衣装部屋に入ると、彼女はスピーカーのスイッチを入れた。もの悲しいヴァイオリンのメロディが流れ始める。
「何の曲ですか」と、鏡台に座って訊く。
「これね、映画の音楽なの。孤児院が舞台の、悲劇なんだけど……劇中のどの場面でもとにかく音楽が素晴らしくて」
僕の顔に化粧を施しながらヒマリさんは教えてくれた。
孤児院に暮らす仲の良い三人姉妹――といっても血のつながりはない――が隣町のおつかいから帰ると、孤児院はもぬけの殻になっていた。壁はところどころ崩れ、中は荒らされ、人がもみ合ったような跡もあった。金目の物もほとんどない。姉妹は、このところ国内各所で起こっていた紛争の余波が襲いかかったのだと知り、孤児院の先生や他の子供たちが全員無事であることを祈りながら、行く宛てもなく孤児院の中に留まることにした。徐々に食料がなくなり、町へ出ては低賃金で雇われながら、夜は三人でくっついて眠った。
「彼女たちはまだ十代半ばにも満たないで、生きる力なんて知れているの。しかも孤児院育ちだしね。だから最後には、三人で静かな死を待つのよ」
はい、とヒマリさんが僕の注意を鏡へ向ける。アリスの仮面ができあがっていた。白銀のウィッグを被せて完成だ。
「ドレスは用意してあるからね。それじゃ、先に図書室へ行っているから」
ヒマリさんが選んでくれたのは、深緑のジレと生成りのブラウス、茶色いショートブーツだった。眼鏡でもかけたくなるくらい知的な組み合わせだ。
図書室に向かうと、すでに明かりは落とされていて、一面の星空が僕を出迎えた。
「ここよ」
ヒマリさんが手招くのが薄らと見える。足下に注意しながら中央の座椅子へ向かった。見れば、座椅子の配置が少し変わっているようだった。二つの椅子が、肩を寄せ合うようにぴたりとくっついて並んでいる。
「おいで」
ヒマリさんの言葉のままに、僕は足を伸ばして座る。そして、背もたれを後ろへ倒した。
降り注ぐような星の瞬きを眺めながら耳を澄ませば、小さく音楽がかかっているのが聞こえる。もの悲しい、ピアノのメロディ。
「……さっきの、映画の音楽ですか」
「うん」
ぽつん、ぽつんと呟くようなピアノの音が、星々に跳ね返るようにして僕の耳に届く。それが余計に寂しくて、胸が締め付けられるような切なさを覚えた。
「僕、その映画、見てみたいです」
「悲しい映画よ。いいことなんて一つもないし……」
「でも、その……なんていうか、綺麗だと思います。最後の結末……飢えに耐えながら他のみんなのことを祈って、三人で寄り添いながら静かに死ぬのを待つなんて……」
言ってしまってから、引かれただろうか、と思った。人の死を綺麗だなんて、人格を疑うような発言だ。
ヒマリさんの返答はない。息を詰めながら待っていると、ふと、僕の左手に冷たい手が重なった。氷みたいだけど、柔らかで優しい手のひらの感触。それにぎゅっと包み込まれたとき、胸の奥が鷲掴みにされたように苦しくなった。
互いに一言も話さず、こぼれ落ちるような星空とピアノの音の間をたゆたう。僕たちは今、同じものを共有していた。普通の人なら「暗い」と言って拒むような結末を「綺麗」と感じ、もの悲しい音楽に浸っていられる、そんな感性を共有している。映画の境遇の当事者ではなく、鑑賞者として眺めるという、罪悪感すら覚える贅沢なことを通して。
暗闇の中、細く冷たい手を握り返す。何も考えず、ただもっと寄り添いたくて、指と指を絡める。ヒマリさんの手が少し強ばったような気がした。でもそれは一瞬で、彼女は親指で僕の手の甲をそっと優しく撫でてくれた。
この館は堅牢な城のようだと思っていたけど、今はむしろ、鳥籠のようだと思った。二羽の駒鳥を閉じ込めておくための鳥籠。柵を押し開けて出ようと思えばいつでも出られてしまうけれど、どちらもそれを望まない。
そう、鳥籠に閉じこもったままなら、この時間は永遠なんだ。だけど一羽の駒鳥は――アリスは、僕は、好奇心という魔物に囚われていた。
「ヒマリさん、お茶会って、ご存知ですか」
途端に、ヒマリさんの手が僕の手の下でぴくりと動いた。
「知ってるよ。行ったこともあるし」
「そうなんですか。僕、最近その存在を知って……」
お茶会は、スマホでロリィタについて検察していると何度か出てくる単語だったので、気になって調べたのだ。それはロリィタ同士のコミュニティであり、不定期にイベントを催して集まるらしいことも記載されていた。。
そこにいけば、たくさんのロリィタを着た人たちを見られるかもしれない。一体どれほど美しい光景なんだろうと胸が躍った。
「行くには、あなたもアリスでなければならないよ」
僕の胸の内を察したのか、ヒマリさんが言う。
「ドレスコードだもの」
「ですよね」
そこで僕はウッと詰まってしまう。この姿でこの町の中を歩くなんて、考えるだけで気後れしそうなほど危険な行為だった。僕のアリスは、あくまでこの館だけのアリスなのだ。
「やっぱり、危ないですよね。アリスで歩くなんて……」
「それは、大丈夫だと思うよ」
意外な返答だった。
「えっ、でも」
「賢嗣くんを知っている人がアリスを見ても、二人を繋げることはないんじゃないかな」
どう返したらいいのかわからなくなって、僕はぼんやりと星空を眺めたまま口を噤んでいた。
「アリス。行きたい?」
賢嗣、ではない。
彼女はアリスとしての僕に問いかける。
「行きたいなら、一緒に行くよ。勝手がわからないでしょうし、案内してあげる」
「……今月中にまたテストがあるんです」
掠れた声で僕は呟いた。
「それが終わるまで、母から、土日の外出はなしだって……」
「いつなの? 試験は」
「十三日です」
「じゃあ、その後にないか、調べておくね。大抵土日にあるから。そうね……たぶん、このシーズンならクリスマスイベントとかが開催されると思うよ」
クリスマス、という単語が僕の頭を鋭く貫いた。
ヒマリさんとクリスマスを過ごせたら、どれほど幸せだろう。一緒にイベントを楽しむのも素敵だし、イブや当日にこの館で小さなパーティをしてもいいかもしれない。
でも……
「……ヒマリさん」
「なあに」
――今、おつきあいしている人は、いないんですか?
「なんでもないです」
「なあに、それ」
僕の問う声を押しとどめたのは、アリスか、賢嗣の意思なのか。
次の深夜、ヒマリさんから、十二月十七日にクリスマス茶会があることを知らされた。ちょうど土曜日だ。僕は少し躊躇ったけど、結局、一緒に申し込むことにした。当日は二人ともロリィタに着替えて電車に乗り、五駅離れた都心の高級ホテルのカフェに向かうのだという。僕は部屋のカレンダーの隅に小さく×印をつけた。
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