第八話 他には何も

 やっと兄から解放されたとき、やはり時計は十二時を回っていた。兄はこれから少しだけ自分の勉強をするという。

「俺まで成績を落とすわけにはいかないからな」と笑っていた。笑っている場合じゃないよ、と僕は泣きそうになる。

 自室に戻ると急いで窓に駆け寄りカーテンを開けた。館の窓はすべて暗く、明かりが一つも見えない。待たせてしまってごめんなさい……今日はもう、行けないんだ……そんな絶望を抱きながら見つめていると、一つの窓に明かりがついた。いや、雨戸が開いたのだ。あれは屋敷の角、書斎だ。そしてその向こうから人影が覗く。

 長い黒髪が風に揺れていた。白っぽい服……ヒマリさんは僕の姿を認めると、かわいらしく小首を傾げた。

 ごめんなさい、行けなくて。会いたかった。話をしたかった。いや、何も話さなくてもいいから、プラネタリウムの下で共に時を過ごしたかった。

 毎日通い続けていた中で、突然その時間が失われたとき、僕は一層思い知る。ヒマリさんと館の存在がどれほどこの心を占めているのかを。

 僕は手を振った。窓から身を乗り出し、夢中で振り回した。本当は行きたかったけれど、やむなく行けなかったのだと、その思いだけは伝えたかった。

 ヒマリさんも手を振り返してくれた。大きな丸い目が笑ったように細められた気がして、安堵する。

 思えば、僕が馬鹿だった。ヒマリさんとの時間がほしいなら、普段の行いもおろそかにしてはならないのだ。自分の招いた失態に、怒りを通り越して情けなさを覚えた。――もう二度と、繰り返すものか。冷たいリップスティックを握りしめて、僕は心に強く誓った。


 翌日、美術室の前に列を成し、ひとりずつ人物画の課題を提出していった。みんなそれぞれ仲の良い友達同士で描き合ったようで、一緒に固まってわいわいと並んでいる。

 後ろから慎二がひょいと覗き込んできた。

「ケンジャ、まさかおまえにモデルをしてくれるような友がいたとはな!」

 僕は慌てて画用紙を胸に引き寄せて隠す。

「そりゃあね」

「だれだよ。まさか、かあちゃんか? にいちゃんか?」

 うるさいな――僕は黙って先生の机に伏せて提出する。昨晩寝る前、たくさんある中から吟味した絵だ。配布された画用紙とスケッチブックはサイズが同じで、紙質も似ているからそのまま提出することにした。

 先生が一枚一枚手に取り、「おお」とか「いいねえ」と反応を見せる。そして紙の山も半ばまできたとき、手を止めた。

「なかなかいい」 

 それぞれどの反応が僕の絵に対するものか、わからない。でもきっと良い反応であってほしい……僕は何度も何度も同じ人を描き続けてきたのだ。しかも、モデルも舞台も最高級の逸材で。

 その日誕生日だった人を机の上に座らせ、人物デッサンをした。照れたように俯く、制服姿の平凡な女子を真剣に眺めて画用紙に描いていく。顔、束ねた髪、制服の線、影……ヒマリさんを描いていたときのことを思い出しながら――だけど、どうしてだろう、途中で思うように手が動かなくなった。鉛筆の種類が少なくて描きづらかったせいだろうか。

 授業の終わり、僕は先生に呼び止められた。

「横澤、絵画教室でも通い始めたのか?」

 誰もいない教室でそう問われ、僕は黙って首を振った。

「ちがうのか? まあいい。とにかく、とんでもなく上達していたから気になってな」

 先生が改めて僕の提出した絵を眺める。大小様々なクッションに囲まれ、窓台に寝そべるヒマリさんが描かれた絵を。

「これは親戚のお姉さんか誰かか?」

「そんなところです」

「わざわざ貸衣装を着てもらって?」

「そんなところです」

 多くを語りたくはない。あの人との関係は秘密でなければならない。

「横澤がそんなに美術に関心があるとは思わなかったな」と、先生は苦笑した。

「それにしてもすごい上達ぶりだ。実は年明けに美術の展示会があってな。冬がテーマで何でもありの学生展示会なんだが、どうだ、出してみる気は?」

 冬――僕の脳裏に、ふわふわのお姫さまのコートを着たヒマリさんの姿が浮かぶ。コート姿なんて見たことないのに。

「いえ……僕は、いいです」

 展示会という目標に向かって描くのは悪いことではないように思えたが、さっきのデッサンの間に確信していた。僕はヒマリさん以外を描けない。かと言って、彼女の姿を堂々と世間にお披露目したくはなかった。彼女と僕の関係は秘密でなければならないのだ。

 これは独占欲なんだろうか。「賢嗣」の? 「アリス」の? ……わからない。


 待ちに待った土曜の朝、僕は読書も絵もできず、ひたすら机に向かって勉強をしていなければならなかった。サボっていないか、母が定期的に部屋を覗きに来るからだ。そして去り際に必ず言うのだ。

「賢人に追いつくのよ。同じ私の子なんだから」

 その言葉を聞くたび、心がずしりと重たい鎖で縛られる。

 昼食のとき、父は仕事でいなかった。母と兄と僕とで静かに食卓を囲んでいる。

「母さん、午後から、その、外へ出たいんだけど……」

 遠慮がちに訊ねてみると、母は露骨に眉をひそめてこちらを見た。

「勉強は?」

「やってるよ、ちゃんと。母さんも見たでしょう」

「それなら、後で見せに来なさいね」

 母の声にはまだ怒りこそないものの、不信感がありありと顕れていた。

「あなたは義務教育のテストで満点を取れなかったのよ。義務教育っていうのはね、知ってて当たり前の最低限の教育なの。それができないというのがどういうことか……」

 母の隣で兄は無表情でカレーを食べていた。当然助け船などこない。

「賢人はいつだって満点だったわ。それをひけらかしもせず……休日もおとなしく勉強するか、スポーツで鍛えていたのよ。あなたはどっちもしないで、外で遊んで……」

 ただ遊んでるわけじゃない、と出てきかけた言葉を呑み込んだ。じゃあ何をしているの、と踏み込まれたくはない。

「食べたら見せるよ」と、力なく答える。

 僕の勉強量は母の満足に足りなかったらしく、問題集をあとここまでやりなさいと折り目をつけられた。ばかな……時計を見る。二時までに行けるだろうか。

「やったら見せるのよ」

 部屋に戻る際、母から追い打ちがかかる。

 母は毎月本屋に赴き、料理のレシピ本と共に問題集を買ってくる。僕たち兄弟に与え、次の月までに終わらせるよう、間違いなく解けるようにと命令する。

 僕はきちんと計画を立てて、無理なく終えられるようにしていた。でも母からすればそれは手抜きなのだ。毎日全力でやって、何度も繰り返し解いて、何も見ずともすらすらできるくらいにならなければ合格とは言えないのだろう。

 結局、母が満足する頃には午後三時にさしかかろうとしていた。僕は慌てて荷物を詰め、着替えて外に飛び出した。


「そんなことがあったのね」

 居間で紅茶を注ぎながらヒマリさんが言った。

「大変だったね」

 館にたどり着くまで噛みしめていた憤懣が、彼女の労りの言葉で温かく溶けていく。我ながらなんて単純なんだろう。

「ごめんなさい、貴重な夜の時間なのに、待たせてしまって……行けなくて」

「全然気にしないよ。確かに会えないのは寂しいけれど、あなたの人生の邪魔をしたいわけじゃないもの」

 紅茶を一口啜り、美しくはにかむ。

「それにもう、そんなことで壊れるような関係じゃないでしょう。わたしたち」

 確かにそうだ――僕は元気が甦って、勢いよく紅茶を啜る。途端に熱くて咽せてしまった。

「この館はね、あなたのためならいつでも開かれているの」

 苦笑混じりに僕へハンカチを差し出しながらヒマリさんが言った。

「あなたには二つの家がある。ここは隠れ家よ。いつでも出入りできるの。毎日来なくたっていいし、毎日来てもいい。だから気を張らないでね」

 隠れ家……僕ははっとする。そうだ、隠れ家だ。監視の厳しい僕の家の目の前に堂々と建つ不敵な隠れ家なんだ。そう思うとなんだか嬉しかった。

「ありがとうございます」

「ううん。こちらこそお礼を言わせて。わたし、あなたの存在に本当に感謝しているのだから」

 僕なんかのどこに感謝することがあるんだろう。僕はただ、この館にお邪魔しているだけの存在なのに。僕にできることはただひとつ、ヒマリさんの姉妹になることだけだ。

 それから僕たちは共に館の中を歩いた。「そういえば紹介していなかったから」と、ヒマリさんは館にある部屋を案内してくれた。

 居間のある一階には他に風呂場やサロンがあった。サロンにはアンティークなピアノやヴァイオリンなど楽器が保管されており、「弾けないんだけどね」と笑いながら見せてくれた。でも、置いてあるだけですごいと思う。それから、図書室に収まりきらない本が積まれた書庫を見て、改めて蔵書の量に感心する。

 二階にはコレクションルームがあり、アンティーク家具や球体関節人形たちで埋め尽くされていた。「頑張って集めたの」と誇らしげなヒマリさんの横で、僕はただ惚けたように見つめていた。これだけの量を集めるのにどれだけ時間がかかったのだろう。お金だって相当かかるはずだ。

「ヒマリさんは、小説家なんですよね。どんな本を出版されているんですか」

 訊いていいのかわからなかったけれど、思い切って訊ねてしまった。

 ヒマリさんは少し困ったように眉を寄せ、小さく首を傾けた。

「もしあなたが本屋で本を見つけて、タイトルやあらすじに心を惹かれて手にとって、やがてそれがお気に入りになったら、実はヒマリ作だった……その方が、素敵じゃない?」

 虚を突かれた思いがした。

 初めからヒマリさんの作品だと知っていたら、僕は迷わず手に取りレジに持って行くだろう。そして何の疑問も持たず「名作だ!」と思うに違いない。それは作家としては不本意なのかもしれない。

「たしかに、そうですね。ではこれからも本を読み続けます。いつかヒマリさんの作品にたどり着けるように」

 そう答えると、ヒマリさんは花開くように笑った。この笑顔が僕は好きだ。

 それから僕は衣装部屋でアリスになり、帰る時間になるまでヒマリさんと図書室に籠もった。二人で星空を見上げ、紅茶を飲む。幸せだ。この時間がある限り、どんなに母に怒鳴られても、蔑まれても、慎二にからかわれても、耐えられる。前を向いていける。


 ヒマリさんとの時間の影響だろうか、僕はスマホをほとんど開かなくなっていた。最低限、調べ物をするときと母に連絡するとき以外は触りもしない。当然、クラスのチャットアプリやSNS掲示板など見もしなかった。

 ヒマリさんとは連絡先を交換していない。彼女はスマホを持っていないというのだ。確かにあの館に電子機器は最低限しか見当たらない。仕事は書斎のパソコン一台で全てこなしているという。

「目の前にいるのに、メールや電話なんて、嫌だもの」

 一度連絡先を訊いたとき、ヒマリさんはそう口を尖らせた。

「無粋でしょう。こんなに素敵な館で時間を過ごせるのに、スマホを弄るなんて」

 僕も同感だった。館でスマホなんて触りたくない。アリスになったときなんて、鞄の中に置き去りだ。その影響で、家でも学校でもスマホへの興味は失われていた。

「ケンジャ、ケンジャよ」

 学校の休み時間、暇を持てあました慎二が絡みに来る。

「最近付き合い悪いんじゃないか? え? チャットに顔出せよ」

「元々そんなまともに返信してなかったよ」

「この頃開いてもねえだろ。既読が一個足りねえんだよ。おまえの分がな」

 鬱陶しくなり、僕は慎二を睨みつけた。

「僕が見る必要、あるの? 僕はみんなの好きなものが好きじゃないし興味もない。知りたいとも思わない」

 チャットアプリで出る話題はだいたい決まっている。アイドルグループの新曲、有名な面白いネット動画、テレビのお笑い番組、スマホゲーム……今までは味のしないガムを噛むようにして仕方なく追っていたけれど、もう、みんなの前で取り繕うつもりはない。

 慎二がいらついたように僕の机を蹴った。僕のことなんて小学校の時からいじりの対象でしかなかったくせに、チャットの反応ほしさに絡みに来るなんて、子どもっぽいなあと思う。

 僕にはヒマリさんさえいればいい。あの館で聴くレコードが、眺めるプラネタリウムが、画集が、冒険小説が、あれば生きていけるのだ。他に何もいらない。

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