第二話 幻想の城とお姫さま
玄関をくぐり抜けた瞬間、僕は息をするのも忘れてしまった。陰鬱な灰色の石壁に囲われた館の中は、拍子抜けするほど温かな光に包まれていたのだ。吹き抜けの玄関ホールには貝殻の洋燈がきらきらしく瞬き、大きな柱時計やソファが置かれ、深紅の絨毯が廊下の向こうまで続いている。二手に分かれた廊下の先、左手へ進んだ扉に向こうに僕は通された。「居間よ」と言われたけど、僕の知っている居間じゃなかった。天井に煌めくシャンデリア、薔薇柄の豪奢な絨毯、中央に置かれた優雅なソファとガラスのテーブル。壁をくりぬいたような暖炉があるが、その横に黒い鉄のストーブがあるのでこれは飾りなんだろう。向かいの壁に沿うように配置された横長の棚には四角く平べったい機械のようなものと、アンティークドールが飾られている。とにかく、この日本で普通に生活していたらまずお目にかかれないような光景だ。
女性が「ソファにどうぞ」と僕を促す。明らかに高そうなソファだ、中学生が座っていい代物なんだろうか――女性は柔らかい微笑を浮かべてこちらを見ている。僕が端の方におずおずと腰掛けるのを見届けてから、彼女は棚の方へかがみ込んで戸を開けた。中に薄い冊子のようなものがぎっしりと詰まっているのが見える。
「あった、あった」中から取り出されたのは真四角の大きな分厚い紙。知らない外国人の色あせた写真が大きく写っているけれど、一体何だろう。
女性が四角いものを傾け、中から黒く大きな円盤が現れた瞬間、僕はようやくその正体に思い当たった。
「レコード、見たことある?」
女性の問いに、僕はうなずく。
「はい。教科書とか、資料集で」
「ふうん……」女性は平べったい機械の蓋を開き、円盤を挿し入れた。「教科書や資料集か……まるで化石扱いね」
針が円盤の溝をなぞりだし、ブツ、という音と共にオーケストラの曲が流れ出す。
「今はない交響楽団の貴重な音源なの」女性はうっとりと目を閉じる。優雅で、落ち着いた旋律が流れていた。クラシック音楽はよく知らないので何の曲がわからないけれど、お城にいるような気分になった。
「そうだ、紅茶ね」彼女はいそいそと扉へ向かった。「少し待っていてね」
優美な音楽と僕だけが部屋に取り残される。アンティーク調の壁時計は一時半を差していた。まさかこんな展開になるとは思っていなかった。家を抜け出してこんなところに来て、未だに状況が呑み込めない自分がいる。
間もなくして女性が戻ってきた。金の盆を手にしている。なんとも言えない芳しい香りが部屋中に漂った。
「お好みに合えばいいのだけど」
白い陶器に青の蔓薔薇模様が焼き付けられた華奢なカップが置かれ、熱い紅茶が注がれる。香りはますます強く立ちこめ僕の鼻腔をついた。僕の知っている紅茶の香りじゃない。家で飲むティーパックのレモンティーとはまるで違う。
「どうかしら」
僕は一口啜り、ゆっくりと離した。
「おいしいです。すごく」
語彙が死んでいる。もっと相応しい言葉あるはずなのに。
女性は嬉しそうに顔をほころばせた。
「ああ良かった。実は一番お気に入りの茶葉なの。これ以外切らしていて」
スピーカーからは、ストリングスというのだろうか、重なり合うヴァイオリンの旋律が滑らかに流れていた。僕は初めて、クラシック音楽を真正面から聴いていた。音楽の時間に聞き流すのとは違い、旋律の一つ一つを耳で追ってしまう。これもアンティークに満ちた不思議な空間と特別な紅茶の成せる業なのかもしれない。
一人分くらいのスペースを空けて女性もソファに座った。
「そうだ、お名前はなんというの?」
途端に僕は咽せそうになった。しまった。こういうときは目下の僕から先に名乗るべきだったのに。
「すみません、遅れてしまって。僕は横澤賢嗣といいます」
「賢嗣くんね。わたしはヒマリ」
彼女は名字を教えてくれなかった。ヒマリ……花みたいに綺麗な名前だ。
「あの」
なんとなく打ち解けたような雰囲気になったので、躊躇いがちに問いかける。
「僕、その、昨日、見たんですけど……」
「何を?」
「金髪の人を」
ようやく疑問を投げかけられる時がきた。彼女はきょとんとし、それから、ふふっと笑った。
「そうね、見られてた。金髪……少し待ってね」
彼女は笑いながら部屋を出て行く。
そして次に戻ってきたとき、ヒマリさんの髪は黄金色に輝いていた。安っぽい髪染めの黄色じゃない、本物のブロンド……
驚く僕を見ておかしそうに笑い、金の巻き毛を一房、指先に摘んで見せた。
「ウィッグなの。昨日はね、金髪で本を読みたい気分だったから」
まさか、昨日見た人がヒマリさんだったなんて。それにしても、読書をするのにいちいち髪を変える必要があるのだろうか。
「気持ちがいいのよ。髪とかお化粧とかお洋服ってとっても大切で、精神を大きく変えてくれるの。精神だけじゃない、自分の今いる場所や空気さえもがらりと変えてくれるのだから」
『今いる場所や空気さえも』
……その通りだ。ヒマリさんはこの部屋を一瞬で本物のお城に変えてしまったのだ。金の巻き毛に白いドレス、頭上のシャンデリアがプリズムを纏って眩しく輝き、背後ではまさに荘厳なトランペットのファンファーレが鳴り響いていて、僕の目には一瞬、純白のお姫さまが優雅に佇んでいるように見えた。
ヒマリさんがふと目を上げ、「あっ」と声を上げる。
「もう二時を回ってる。明日、学校があるのよね?」
確かにそうだ。僕も慌てて立ち上がった。
ヒマリさんは玄関ホールまで僕を送ってくれた。
「賢嗣くん」扉を開けながら、ヒマリさんが僕に声をかける。
「また遊びに来てね。一緒に紅茶をいただきましょう」
夜の冷たい風が吹き込み、僕の頬を打った。雲はまだ月を隠していて、草木が妖しくざわめいている。背後で扉が閉まり、街灯とアスファルトの道を目にした途端、魔法が解けたように身体じゅうから熱が引いていくのを感じた。
鉄門扉を出るとき、もう一度振り返った。館は闇の一部のように黒々とそびえ建っている。毛細血管のように張り巡らされた蔦を見ているうちに我知らず鳥肌が立った。
あの輝くばかりのシャンデリアは、温かな絨毯は、芳しい紅茶は、白いドレスのお姫さまは、本当に実在していたのだろうか。僕の夢だったんじゃないのか……そんな錯覚すら覚えるほど、館の外観は廃墟然としていた。
二
翌朝、僕の顔を見た母はめざとく「寝不足?」と訊いてきた。鏡を見ると白目が薄らと充血している。母は生活習慣の乱れに厳しいので目薬を買っておいた方がいいかもしれない。
学校の教室はいつも通りざわついていたが、僕の席は珍しく占領されていなかった。男子たちは窓際の席に座る慎二の足元で足を伸ばし、くつろぎながら漫画を読んでいる。
「よお、ケンジャ」と言う慎二の声には、どことなく覇気がなかった。
「無事だったかよ」
「うん」
慎二が机の中に手を突っ込み、本を取り出す。
「ほらよ」
僕の借りていた本だった。いつもならもっと無理難題を要求して困らせてくるのに、随分とおとなしい。昨日の出来事がよほどこたえたんだろうか。
思わず口元がほころびかけるのを必死に抑えた。僕だけが「お化け屋敷」の真実を知っている。あの恐ろしい廃墟の中に夢のような世界が広がっていることも、幽霊のヴェールの下に美しい姫君が微笑んでいることも……
何もかもをぐっと呑み込んで、僕はゆっくりと席につく。久しぶりに朝の読書が捗りそうだった
授業は退屈だ。でも憂鬱ではない。授業の合間や、板書を写すのがはやく終わったとき、給食を食べている最中も、頭の中では昨夜の光景を思い浮かべていた。
『また遊びに来てね』――ヒマリさんは確かにそう言った。でも、よくある社交辞令だ。母も、家に来た父方の祖母が帰るときに必ず言うじゃないか。母は祖母を嫌っているのに……
「ねえ、あの館、まさかと思うけど誰か引っ越してきたのかしら」
帰宅し、夕食を囲んでいると母が言った。思いがけず、肩が強ばる。
「さっき見たら、窓に明かりがついていたのよ」
「そういえば、業者が何度か出入りしているのを見たよ」兄さんが冷静に呟く。「あんなところに住もうだなんて、酔狂というか、どうかしているな」
ひどい言い様だ。睨みたくなるのをぐっと堪える。
「本当にねえ。あんな汚い館で寝るなんて、まるで罰ゲームだわ」
「ごちそうさま」
素早く立ち上がる僕の勢いに押されて、椅子がぐらりと傾いた。母も兄も僕を見る。
「もっと満足そうに言いなさいよ」母のため息。「まったく、どうして賢嗣は――」
食器をシンクに置き、スポンジを乱暴に握りしめる。自分の機嫌をこんな風に表へ出すのいつぶりだろう。僕の大切な夢の時間を穢された気分だった。汚いだって? 罰ゲームだって? どうかしているのは二人のほうだ。何も知らないくせに、見ていないくせに……考えれば考えるほど手の中でスポンジは暴れ、シンクの中は泡だらけになった。
父が帰る頃、僕は自室で宿題を終わらせスマホを弄っていた。本を手にしても集中できないことは目に見えていた。どうしてもそわそわと時計を見てしまうからだ。そしてとうとう耐えられなくなり、立ち上がってカーテンの隙間を開いてみた。街灯の頼りない明かりだけがぽつんと灯る暗闇の向こう、洋館の窓が一つだけぼんやりと光っている。あれは二階だ。初めてここからヒマリさんを見た窓よりも左側の窓だった。
と、その窓の向こうに人影が動き、窓が左右に開かれた。ヒマリさんがこちらに気づいて手を振った。僕も反射的に手を振り返してしまった。
昨日見せてくれた金の巻き毛が見えた。赤っぽい衣服を着ているように見える。僕の頭の中でアンティークに囲まれた美しいお姫さまの姿が浮かび上がる。行って、直接見てみたいという気持ちに駆られる。
『また遊びに来てね』――鵜呑みにしていいのだろうか。つまらない中学生の訪問は彼女の時間を悪戯に奪ってしまわないだろうか。
僕の思考はどんどん降り積もっていった。深夜、両親が寝静まったあと、僕は動いた。上着を羽織り、部屋の窓から夜の闇へ飛び出した。
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