さよなら、アリス

シュリ

第一話 「お化け屋敷」にて

 家の二階に僕の部屋はあって、ベッド脇の窓を覗くと道路を挟んだ向かいに古い洋館が見える。黒ずんだ石壁はびっしりと蔦に覆われ、庭も鬱蒼と草木に覆われた湿っぽい廃館だ。ホラー映画に出てきそうな様相なので、僕の通う中学校で館の存在を知っている人はみんな「廃墟」とか「お化け屋敷」と呼んでいる。

 少し前から時折、誰かが洋館に出入りしている気配があった。車が停められ、青い服を着た男の人たちが行き交っているのを何度か見ている。だからてっきり、もう取り壊されてしまうのだなと思っていた。

 そんな廃館の真横に、今朝も白いトラックが停まっていた。また男の人たちが出入りしている。青い作業着に青の帽子。だけど何かが違う。段ボール箱を抱え、或いはキャスターに載せて館の中へ運び入れているようなのだ。ここは取り壊されるんじゃなかったのか。まるで誰かが引っ越してくるといわんばかりの……

「賢嗣!」下から母の鋭い声が響いてきたので僕は我に返った。扉を出て階段を降りる傍ら、手の中のスマホをちらりと覗く。チャットアプリの右上に通知の件数が示されていた。三桁だ。夜中の間にクラスメイトたちが盛り上がっていたのだろう。別に珍しいことじゃないけどうんざりする。でも、一応内容を見ておかなければならない。教室に登校したとき、中身を知らなければ文句を言われてしまうのだ。こんなものに、果たして意味があるのかわからないけれど。

 下に降りてダイニングに入った途端、「遅い!」と叱声が響き、思わず竦み上がった。まずい、母が鬼の形相で仁王立ちしている。

「賢人はとっくに起きて準備しているのに、本当にあんたって子は、いっつもぼーっとして……」

 朝から母のイライラとした声は心臓にくる。だけど、僕は別に寝坊をしたわけじゃない。兄が早いだけだ。ちゃんと時間通りに起きたのに怒られるなんて、理不尽すぎるんじゃないか。……と心の中では思いつつも、ごめんなさい、と小さく呟きながら横を通り過ぎるので精一杯だった。とにかくこれ以上機嫌を損ねないよう、急いでテーブルに着く。目の前に、白米と味噌汁、焼き魚や卵焼きといった皿が力任せに置かれていった。

 食べていると高校の制服を着た兄が来て、もそもそと米をかき込んでいる僕を一瞥した。見下ろすその背は僕と違ってすらりと高く、切れ長の眼はすっと一重で男らしい。

 兄は「母さん、行ってきます」と言って玄関へ向かっていった。「気をつけてね」と返す母の声は甘ったるい猫撫で声だ。兄に対してはいつもこんな感じだ。

 その後僕は母に急かされながら準備をして、押し出されるようにして家を出た。

 僕の家は町から少し外れた急な坂の上に建っていて、近所付き合いらしい付き合いはない。誰かと一緒に登校することもないのでもっぱら本を読みながら歩いていた。剣士や魔法使いが活躍するような冒険譚が僕は好きだ。

 歩きだしながら、ふと後ろを振り返る。家の向かいの館の前にはまだ白いトラックが停まっていて、作業着姿の人たちが行き交っていた。やはりどう見ても荷物を運び入れているように見える。取り壊す予定の場所に荷物なんて必要ないはずだ。信じがたいが、本当に誰かが引っ越してきたのだ。


 教室に入るとうるさい笑い声が耳を貫いた。一番後ろの僕の席を男子たちが陣取っている。

「あ、ケンジャ!」

 僕の椅子に座っているのは桑山慎二だ。クラスの男子たちと日がな騒いでいるリーダー的存在で、僕を見るといつも絡んでくる。ケンジャというのは小学校のときに彼が僕につけたあだ名だ。いつも本を読んでいるから、という単純な理由で「賢嗣」は「ケンジャ」になった。

「また歩きながら本を読んでら。どれどれ……」慎二の手が素早く本を奪い取る。

「『魔法使いと七つの鍵』だって! ははは、相変わらずガキくせえの読んでんな」

「返してよ」

 真っ赤になりながら手を伸ばすが、僕より背の高い慎二の腕は届かぬ高みへ本を持ち上げてしまう。

「ほらほらどうした、ケンジャ様」

「返して、それ、図書室の本なんだ……!」

「返してやるさ。俺の言うことを聞けばな」

 にんまりとした笑みが広がる。嫌な予感がした。

「今日の夜中、おまえん家の向かいの、お化け屋敷の写真を撮ってこい」

 すかさず周囲の男子たちの声がどっと湧いた。いいぞ、心霊写真だ……! 囃し立てる声に僕は大いに焦る。

「だめだよ、今朝見たけどあそこは人が越してきたみたいなんだ。ずっと前からトラックが出入りしていたし……」

「そんなわけあるかよ、廃墟なんだぞ。おまえ、怖いからって言い訳してんじゃねえ」

「言い訳じゃないよ。それに、僕の家は厳しいから、夜中になんて……」

 慎二のいかつい眼がつり上がり、僕は思わず口を噤んだ。だめだ。彼の機嫌を損ねたらこれ以上何をされるかわからない。

 結局僕は彼に逆らえなかった。


 夕暮れに染まった空の下、とぼとぼと家に帰る。

 秋特有の涼しい風が僕の前髪を揺らす。そろそろ切らなくちゃ。ただでさえ女子みたいな奴だとからかわれているのに。

 家に帰ると母に追い立てられるように風呂に入り、すぐに夕食を囲んだ。母と兄と僕。父はいつも遅いのでいない。

「賢人、高校はどう? もうすぐテストがあるんでしょう」

 母が優しい声で兄に問う。兄はビーフシチューを口に運びながら爽やかな微笑を浮かべた。

「大丈夫だよ母さん。何も心配いらない」

「そうよね、さすがは賢人」

 と言いいながら、ちらりと僕を見る。

「僕も大丈夫だよ」――訊かれる前に答えておいた。好物のビーフシチュー……喉を通らない。なんとか掻き込んで、「ごちそうさま」と席を立つ。

 食器を台所に運んでいると、母の大きなため息が聞こえた。

「あの無愛想な感じ、なんとかならないのかしら? もう中学生になったっていうのに、ちっとも変わらないんだから」

「無愛想というより、内気なんだよあいつは」

「同じよ……はあ、本当に、賢人の爪の垢を呑ませてあげたいわ」

 足早に台所を去り、洗面所で歯を磨いて二階へ上がった。

 兄の部屋の真向かいが僕の部屋だ。階段を上がって右手にある。そして、あの古い館が見下ろせる。反対に日当たりよく、坂の上から町を一望できるのが兄の部屋になっている。

 兄は食事を終えてしばらくすると勉強のために部屋に閉じ籠もり朝まで出てこない。そして夜の九時頃に父が帰宅する。父母が晩酌を終えて眠るのが十二時頃。つまり、慎二の約束を守るためには深夜になるまで待たなければならない。

 僕にできるだろうか。夜中に家を抜け出すなんて……いや、やろうと思えば簡単だ。僕の部屋の窓を開けてすぐ下に太いパイプが通っていて、そこを足場に左へ進むと屋根がある。その先に少し低い倉庫があるのでその上に飛び乗り、スチールの棚、塀、と順繰りに渡っていけば外に出られるのだ。

 だけど大変危険な行為には違いなかった。厳しい母に見つかればどんな目に遭うかわからない。「非行少年」「あなたをこんな風に育てたおぼえはない」「賢人はあんなに良い子なのに」――母の声が脳内に再生される。そして同時に、慎二の意地の悪い笑みが目に浮かんだ。

 深いため息が漏れる。どのみち僕はどちらにも逆らえない。臆病なのだ。

 スマホを取り出すとチャットアプリの数字がまた増えていた。どうせ学校でも会うのに、毎日飽きもせず、よく喋るなと思う。

 何気なく顔を上げたとき、締め切ったカーテンが視界に映り、僕はふとひらめいた。

 慎二は確か、「夜中に館の写真を撮れ」と言った。何も、中に入って撮ってこいとは言っていない……

 途端に肩の力が抜けた。そうだ、僕は勘違いしていた。わざわざ危険を冒さなくても撮れるじゃないか。

 意気揚々とカーテンを開ける。窓を開け放ち、涼しい風を頬に受けた。スマホを構え、カメラアプリを立ち上げる。まん丸い月が暗い空にぽかりと浮かび、館の不気味なシルエットをレンズに捉えてピントを調節する。

 その途端、僕は思わず目を瞬いた。何度も何度も瞬いて目を凝らす。向かいの館の二階部分、真ん中の出窓が開いている。その窓台に誰かがが寝そべっているように見えたのだ。

 びゅうと風が吹き抜け、その人の長い髪が揺れた。月明かりに照らされ、金色に輝いている! 気のせいだろうか。いや、今も尚、あの髪は紛れもない金色だ。安っぽい毛染めの黄色ではなく、正真正銘のブロンド……外国人だろうか。朝引っ越してきたのはこの人なのか……

 その人影が、突然顔をこちらに向けた。丸い眼……遠目にもわかるほど大きな眼が、ぱちくりと瞬きした、気がした。

 ぎくりと全身に衝撃が走り、咄嗟に窓の下へ身を隠す。心臓が早鐘を打っている。……見られただろうか。無断でカメラを向けられていい気持ちになる人なんていない。もしも朝、出会ってしまったらどうしよう。謝った方がいいだろうか。

 翌朝、家を出る際に注意深く館の方を窺ったが、窓辺や庭先に人の気配はなかった。

 ほっとしたのも束の間、教室に着いた途端、待ち構えていた慎二たちに囲まれてしまった。

「撮ったか?」

 挨拶も無しにいきなりこれだ。僕は首を振った。

「昨日も言ったけど、あそこはもう人の家だから……」

「撮ってねえのか?」教室中に響き渡るような慎二の声。「おまえ、本を返してほしいんじゃねえのかよ!」

「返してほしいよ。でも、見たんだ。夜中に窓が開いていて、人影があって……」

「嘘つけ。びびったからって言い訳してんじゃねえぞ」

 慎二に乗っかかるように周囲の男子たちも僕を責め立て始めた。弱虫、びびり、嘘つき……その大合唱に負けじと僕も声を張り上げる。

「本当だってば! 人が住んでいるのに勝手に撮るなんてできないよ」

「ふうん」慎二は片方の眉をつり上げた。「それなら、今夜俺が行って直接確かめてやるよ」

「えっ」

「それでもし誰もいなかったらおまえは嘘つきだ。本は返さない。せいぜい返却期限を破って貸出禁止になっちまえ」

「そんな」

 僕の声など誰もきいていなかった。男子たちは「肝試しだ」とはしゃぎ、もう今夜の計画を立て始めていた。 

「深夜一時だ。ケンジャも来いよ」慎二がほくそ笑む。「絶対だぞ。来なかったら本を破って、おまえがやったと言いふらしてやるからな」

 慎二は僕の嫌がることを全て心得ている。逃げられなかった。昨夜見たあの金髪の人を思い浮かべて胸が痛んだ。引っ越して早々、夜中に中学生が来て大騒ぎだなんて、ひどい災難だ。気の毒で申し訳なくて、しかたがなかった。


 夜九時半、父が帰る。兄はもう自室だ。全員が寝静まるまで暇を潰さなければならないがやることがない。これからのことを思うと気が滅入ってしまって読書もろくに集中できなかった。

 仕方なくスマホをいじっているが、チャットアプリを何気なく開いてしまったことを後悔した。

『ケンジャ、肝試しはもうすぐだぞ』

『ちびらねえようにオシメしとけよ』

『来なかったら本を燃やすぞ』

 慎二たちが盛んに僕を煽っている。クラスメイトたちも『えー何? ほんとにやるの?』と興味津々な様子だ。今夜のことは全員に知れ渡っているらしい。見ているだけで鬱々としてきて、僕はアプリを閉じた。代わりにSNS掲示板を開く。指で滑らせていると次から次へと情報が目に飛び込んでくる。……『相次ぐ殺人事件、共通項はオタク趣味』……『陽キャになれない負け組』……掲示板も閉じた。

 適当にインストールしていたパズルゲームを惰性で進める。どこもかしこも似たようなゲームばかりでうんざりするのに、やってしまう。他にすることがないからだ。僕は趣味と呼べるものが読書くらいしかなかった。それも、気持ちが落ち着いていないと遅々として進まない。今日みたいな日は絶対に無理だ。

 だらだらしているうちに一時も目前になった。立ち上がり、部屋の扉を小さく開く。明かりの落ちた廊下は物音ひとつしない。今なら大丈夫そうだ。

 学校のプールで使うサンダルを手に窓を開け、身を乗り出す。風は昨日より冷たかった。物音を立てないよう慎重に桟を乗り越え、下のパイプに足をかける。屋根……庭の倉庫……夢中で降りていくと塀を越えて外に出られた。脱出は成功したのだ。

 館の前にはすでに人が集っていた。

「お、ちゃんと来たな」

 慎二がにやにや顔で僕の肩を小突いた。後ろに五人の男子が控えている。

「びびらずに来たご褒美だ、おまえから先に入らせてやるよ」

「えっ」

 思わず一歩後ずさり、さっと洋館を見上げた。分厚い雲が空を滑りながら月を覆い隠している。細い街灯だけが唯一光を放っているが、屋敷を覆う闇に今にも呑み込まれてしまいそうだった。黒い鉄門扉も、草木のぼうぼうと荒れ果てた庭も、びっしりと館を覆う蔦の異様さも、全てが僕を威圧している。

「だめだよ。本当に人が住んでるんだから……不法侵入になるよ」

「まだそんなことを」慎二はいらついたようにスマホを取り出してライトをつけた。

「もういい、俺が行く。おまえはそこでびびってろ。誰もいなかったら、マジで許さねえからな」

 理不尽なことを述べながら彼は勇敢にも前に出て、門扉に手をかけた。がしゃがしゃと騒々しい音を立てて揺らすが、開く気配はない。

「なんだよ、内側から鍵がかかってる」慎二はいらいらと門を揺らす。「くそ、手が届かねえ。ケンジャ、おまえ部屋に戻ってなんか長いものを取ってこい。定規とか」

「慎二!」

 突然、男子の一人が素っ頓狂な声を上げた。その隣の男子も真っ青な顔で館を見上げ、「あ、あ」と妙な声を上げている。

「なんだよ――」慎二もつられて上を見た瞬間、凍りついたように固まってしまった。

 僕も見上げた拍子にぎょっとした。館の二階のバルコニーに人影がある。長い黒髪と白い衣服が、夜の闇の中でぼんやりと浮かび上がっている。

「うわああっ」

 誰かが叫んだのを皮切りに、みんな我先に向きを変え一目散に走り出した。大きな慎二の体にぶつかられた僕は盛大に転び、地面に尻餅をついてしまう。待ってよ、と叫ぶ声も出なかった。後方でぎぎぎ、と扉の軋む音が聞こえたからだ。

 草をかき分け、土を踏みしめる音。静かに、まっすぐに、その気配は近づいていた。そしてとうとう門扉の錠が下ろされ、錆びたような音と共にゆっくりと開かれていく。

 空を覆っていた雲が流れ、わずかに開いた隙間から月光が差していた。その光に導かれるように僕は振り返る。白銀の光の下、白いワンピースがふわりと揺れる。

「こんばんは」

 鈴を揺らすような涼やかな声。地面に無様に尻餅をついた僕の方へ、その女性は優しく微笑みかけた。

「作戦は成功したみたいね? あの子たち、逃げていったもの」

 何のことかわからない。だけど確実に言えることがある。この女性は幽霊などではなさそうだった。生きた人間の気配がした。

「あ、あの」

 緊張のあまり声がもつれる。僕はやっとの思いで立ち上がり、夢中で頭を下げた。

「迷惑をかけて、ごめんなさい」

 丸めた背中を冷たい風が吹き抜けていく。女性から返答はない。やっぱり怒っているのだろうか。当然だ。引っ越して早々、見知らぬ中学生たちに散々騒がれていい迷惑だろう。

「昨日、あなた、写真を撮ろうとして、結局撮らなかった。そうでしょう?」

 はっと顔を上げる。この人は、金髪じゃない……どうしてそれを知っているんだろう。金髪のあの人は、中にいるんだろうか?

 女性は黒髪を耳にかけ、ふっと笑った。

「たぶん、あの子たちに脅されて無理矢理付き合わされたんじゃない? 何となくそんな気がする。当たってる?」

 ぎこちなくうなずく僕。

「だと思った。まあ、あの子たちもこれに懲りて二度と近づかないでしょう。せっかくだから、ホンモノが出るって吹聴してくれないかしら。静かなのが一番だものね」

 女性はくるりと館の方を向いた。ふわり、スカートの裾が翻る。白い花びらのように。 

 それから首をこちらに向けた。

「驚かせてしまったお詫びをさせてくれないかしら。紅茶はお好き?」

 怒られるどころか、お詫びだって?

 僕は咄嗟に返答ができなかった。詫びるべきなのはこちらなのに……戸惑う僕の返事も待たずに、女性は門を大きく開いてまた振り向く。

「どうぞ」

 黒々と草木の生い茂る荒れた庭。夜の闇から溶け出たような石の城。不思議な女性の導くままに僕は歩きだしていた。

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