異世界、ネズミの謀略

胡蝶の夢

プロローグ⑴

 ある晴れた春の日の、とある場所。

 包み込むような優しい陽光。噴水から出てきらめく水飛沫。幾何学的な花壇に植えられた美しい花々。そう、ここは人々が夢見た理想郷ユートピア、あるいは小さな神の箱庭エデン

 その楽園に、一人の幼女が足を踏み入れた。

 幼女はしばらく一人で戯れた。楽園に迷い込んだ彼女は、しかし幼いがためにその自覚もなく、純粋に美しい景色に魅了され、衝動のままに走り回る。

 だがそれも短い間のことで、幼女は急に胸を締め付けるような寂しさに襲われた。

 幼女は自分が一人になってしまったことをやっと理解した。慌ててキョロキョロと周りを見渡すが、見知った大人の姿はない。

 彼女の中で寂しさが不安に、遂には恐怖に変わりゆこうとするその時、彼女は視界の端で僅かに動く影を見つけた。

 幼女は期待に心を躍らせて、再び走り始めた。


 ボスケ、と呼ばれる樹林の、一つの木の陰に彼は寝転がり、何やら分厚い本を読んでいた。

 横に何列も連なる文字群を、左から右に読み進めていた彼だが、不意に上から声がかかった。


 「あなたは、だーれ?」


 小鳥の囀りのように軽やかな声に誘われ、彼は本から目を移した。すると視界に入ってきたのは、一人の幼女。

 彼はしばし、彼女に見惚れた。

 銀色に輝く長い髪。透き通るような白い肌。整った顔立ち。何よりも、天真爛漫な光に満ちたアメジストの瞳。


 「もしかして…あなたが、プルトンさま?」


 次の一言で、彼は我にかえった。

 彼は再び本の中に視線を戻しながら、彼の心に微かにあった親切心に基づき、彼女に答える。


 「おとうとなら、ここにはいない。ほうこうが、ぎゃく」


 プルトン、とは彼の弟の名前だった。顔は見たことがあっても、言葉を交わしたことはない、誕生日が10カ月違いの弟。


 プルトンは、世話する者たちが言うところの「本邸」に住んでいる。弟の実母と、兄弟共通の実父と一緒に。

 対して彼自身は、本邸の庭を挟んだ向かい側にある「別館」に住んでいた。世話する者たちが居るほか、そこに住む者は彼を除いて居ない。実父がそこに来ることは今まで一度も無かったし、実母は彼が物心つくころには既にこの世に居なかった。

 齢四つの彼には、まだ状況が把握できない。兄弟で扱いが違うこと、母親は永遠に自分の前に姿を現さないこと、使用人に世話される生活。全てが産まれた時からあるもので、それ以外の世界を彼は知らない。

 ただ、弟に対して、彼は言葉にし難い感情を抱いた。

 彼は齢のわりには聡明だった。既に彼は文字の読み書きもできるし、最近は体も鍛えている。こんなにも、こんなにも努力している。でも、父が自分に目を向けることはない。それなのに、何もしていないはずの弟は、いつも二親と楽しげに笑い合っている。

 持て余すその感情を、彼がはっきり理解するまでにはもう何年かかるだろう。否、かかるはずだった。


 さて、幼少期の子供にありふれた彼の複雑な感情の影響で、素っ気ない態度をされてしまった幼女は、困惑の渦中にあった。

 彼女は他人にそんな態度をされたことがなかった。いつも周りの人は自分に優しくしてくれる。そう思っていたのに、すぐそこの彼は彼女を一度見てそれっきり、後は目も呉れようとしない。

 戸惑いは悔しさに、悔しさは悲しみに、悲しみは恐怖に移ろいゆく。

 なんで彼は私に優しくしてくれないの。

 何か私が悪いことをしたのかな。

 もしかして私はもう、誰にも優しくしてもらえないのかな。

 これからはもうずっと、ひとりぼっちなのかなぁ。


 「…っ」


 彼女もまた、小さなことがきっかけで心が揺れ動くお年頃の子供だった。

 再び自分が一人だという心細さを知りたくない幼女は焦り、足掻こうとして、とっさに目の前の微かな希望を掴む。

 彼女が動いた理由は簡単である。端的に言えば「寂しかったから」だ。


 「ねぇ!…じゃあ、あなたは、だーれ?」


 しかしその行動が、彼女の運命を大きく変えることになるのである。

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