アリスブルーとアメジストの回顧録

リアー

序 : 契機

1、捨て子姫と天使長1

『天使』というものは、文字通り、天からの使い、ということであろう。

 魔界や人界からの評価と同じく、我々はその仕事を執行するための機械(被造物)なのだろう。

 いや、そう言い切ってしまうのは良くない。

 我々は確かに被造物である、しかし人界神が作る機械とも違うだろう。

 我々には自由というものがある、遊戯や成長を人生とする下級天使も、各自の目標や趣味を持つ上級天使も、天界には存在するのだ。

 数多の恵みの中で、我々は、秩序の中に自由を保てた。

 煉獄の混沌と機械化の管理にも、魔界の暴力による統治にも、似ても似つかない。それは、ぼくの数少ない自慢だった。

 ああ、すまない、話が逸れてしまったな。

 天使とは天上からの使者、ぼくが今、務めているこの仕事のように、三界の平和と平穏のために、我々天の住民はこうして、時々魔界と人界神の宮殿を訪れて、交流をし、三界の秩序を保てている、と、思いたいものだね。

 ふふ、こう言ってしまえば、まるでぼくたちが偉人のように聞こえてしまうけど、人界の研究者集団、そして魔界王室の協力がなければ、この任はどうあがいてもまっとうすることはできないのだろう。だからこそ、彼らに数えきれない感謝を向けているつもりだ。

 天界は三界の一部分に過ぎない、均衡を保つ世界に頂点は不要、我々の任務は、ただ彼らと交流し、争いを避けるだけだ。統治者の視察でも、ましてや三界を統一しようとは違う。ただの、隣人としての義務、それだけだ。

 ーー淡い白き光を放ちながら、男は魔界のぬるぬるとした気持ちの悪い地面を踏みしめていた。

 金色の短髪は先程の小雨に濡らされ、周囲は霧の湿気で満ちている。この霧の中、普段は目にすることのない淡い光は、今や目を奪うような輝きとなって、周りを照らす。大道を歩けば、よほどのことがない限り、魔物も魔界の住民も、この眩い光のせいで寄ってくることはないだろう。

 なぜといえば意外と簡単なことだ。

 この光こそが、男の身分を証明する、何よりの証拠だからだ。

 天使長、神の寵愛を一身に纏う者。特別のものの中でも頭ひとつ抜けるほど特殊な存在。

 天界に置いても人を寄せ付けない、高嶺の花。それが魔界にいると、この暗闇と魔物に満ちる世界にとって、その光はあまりにも神々しく、そして眩しくて、何者でも近づきたいとは思わないだろう。

 しかし確かに、今の彼は、とてもじゃないが、一般人と軽く話せる気分ではなかった。

 100年前に、魔界の王は代替わりした。

 魔界は煉獄の管理者とは違い、天界の神とも違う、強者による支配は今まで続いていた。王はいつでも反乱に遭う者であり、そしてその反乱を鎮めることができる強者でなければ、王権は崩され、勝者は新たな王としてその座を引き継ぐ。

 残酷な世界だ。

 男は静かにそう思った。

 しかしそれだけならば別に問題ではなかった。

 今の王になってから、特に最近の十数年間、天界と魔界の関係は、あり得ないほど悪化している。この張り詰めた空気を緩めるため、そして、何より戦争を避けるため、神は最も信頼できる天使を派遣して、魔王に交流を求めた。

 だがその話し合いは、言わずとも、男の顔色を見ればわかるほど、全く順調とはいえない。100年以内、いや、もしかして10年以内に、魔界との戦争は避けられないのであろう。

 だからそことも言えるだろうか、男は大道を歩かずに、森の中の小径で思考を巡らせながら、魔界に滞在するときに使う屋敷へと向かった。

 真っ白な制服が雨に打たれて、少し重く感じる、それはまるで、闘争を好まぬ彼の、今頃の心情のように。

「……ん?」

 墨に彩られたかのように漆黒に染まった森の中、青空を思い出すような淡い色が、視界に忽然現れた。彼は一旦考え事を止めて、その明るくて儚い青に近づいた。

「ん、これは……」

 ヌルと湿った地面に膝をつき、彼は困った顔を浮かべた。

 幼い女の子が一人、そこに倒れこみ、微動もせず、まるで死んだかのように。

 しかし確かに聞いた話では、魔族は死後に死体を残さず、塵と化すだけのはず。ならば、ということは、この子はまだ生きている。

 男はなにも考えずに動いた。まず彼女の体温がそれ以上奪われないように、外套で包み込み、そして抱えて走り出した。ここならば、自分が住む小屋に遠くはない。走れば10分もかからないだろう。

 魔族だろうとなんだろうと、命であれば、平等であるべし。

 これこそ彼の信条。

 どうか、無事に目覚めてくれ。

 薄い霧の中、淡く光を放つ純白な天使は、薄着のシャツだけを身に纏い、林間の小道を走り抜く。濡れた髪の毛が目の前を遮っても、白いズボンの裾が泥に濡れても、彼にそれを考慮する余裕はなかった。

 全ては目の前にある命を助かるため。

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