アイドルが歌の練習をし続ける事情

 水彩画に描かれたような音楽に、優美なダンスが加わっていく。

 特にスローテンポというわけではない。その曲は脈々と時間を刻んていて、空気のように耳から身体全体へと伝わってくる。そんな音楽のさりげない仕掛けが、三人のダンスをより強調させている。調和された曲のバランス感覚はお見事という他ない。


 数秒ほどのイントロが終わると、曲はAパートに入っていった。まずは三人それぞれのソロパートで、一番最初は夏乃のパートだ。繊細な8ビートの譜面の上に、力動感のある夏乃の美声が加えられていく。夏乃は『Green eyes monsters』のオープニングに相応しい鮮やかな色をステージに残して、次のパートの御咲へとバトンタッチした。

 御咲は夏乃が調合した色を崩すことなく、そこへ深みを加えていく。夏乃の歌声とはおよそ百八十度異なっていて、微細で鮮明な声を曲に合わせていく。例えるなら、夏乃が光沢のある油絵で、御咲は彩度の高い水彩画という印象か。曲調とも見事にミックスされていて、音楽の奥深さを体現しているかのようだ。

 次のパートは愛花だ。その出だしの歌声を聴いて、俺は一瞬心の中でどよめいた。思わず夏乃が歌っているんじゃないかと勘違いしそうになったからだ。躍動感があり、そこへ夏乃の歌声に近い力強ささえある。まるで後出しジャンケンの一番最後にびっくり箱が開いたかのような、そんな心地で心臓が飛び出しそうになった。言葉にしてみると、意外性と呼ぶのがしっくりくるか? ……いや、音楽にそんなものが本当に必要なのか定かではないが。


「へぇ〜。愛花もちゃんと歌えているじゃん。有理紗先生の教育の賜物ってやつですかね?」


 と、千尋さんが思わず小声を漏らすほど。俺も同じ感想だった。


「あたしは特に何も教えていない」

「え……?」

「愛花だけ、三人で歌っているうちに、勝手にああなったが正しい」

「…………」


 だが有理紗先生はそれをきっぱり否定しその理由を話すと、千尋さんと俺はただただぽかんとするしかなかった。確かに俺は御咲や愛花と何度も一緒にカラオケへ行ったことがあるが、今日ほど愛花の歌が上手いと思ったことは一度もない。もちろんそれは御咲も一緒だが、御咲の場合はアイドルデビューが決まってから、俺の目の前でも練習を繰り返し行なっていた。だから今日どれほど上手く歌っても、愛花ほどの驚きは正直感じなかったんだ。

 だが愛花といえば、俺の自宅の喫茶店にやってきてはミルクと砂糖入りのコーヒーを飲み、いつも眠そうな顔を浮かべながら、だらだら愚痴を溢す毎日。マイペースな性格の夏乃と比べても最も緊張感がなく、いつも通りに今日という日を迎えていた印象があった。その光景があまりにも御咲と対照的だったから、俺はむしろ心配していたくらいだ。だがその心配は全くの無用だったということか。ひょっとするとあいつは俺の知らない時間、知らない場所で、密かに練習を繰り返していたのかもしれない。

 ……いや、あいつがそんなことをするような性格ではないって、世界中で一番俺がそれを知っているはずなのだが。


「愛花は三人の中で、空気を読む力が最も強い。それだけのことさ」


 有理紗先生はそう補足を加えていた。千尋さんはそれに納得したのかしてないのか、ただぼんやりとステージの上を見つめている。何か感慨深い顔で、華やかなステージの光景を目に焼き付けているようにも思えた。


 曲は三人で歌うBパートからサビの部分へ、川が流れるように進んでいく。

 その川面の上に三枚の桜の花弁がひらひらと舞い降り、くるくる渦を巻きながら、きらきらとダンスを踊っていたんだ。

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