第五話 連鎖
女性は、店に入ってきた。静かな、店内に女性の歩く靴音が響く。
「マスター。ウイスキー・フロート」
いつもと雰囲気が違う常連の女性からの注文。
それも、今までに頼んだことがない。ウイスキー・フロートだ。
「バランタインの17年が入ってきています。どうですか?」
「うん!あっ足りる?」
女性は、普段と違うテンションでカウンターに座る。
上機嫌を装っているが、空元気なのは誰の目にも明らかだ。
「大丈夫です」
マスターは普段と同じテンションで、女性に向き合う。
「お願い」
タンブラーにロックアイスを入れる。ミネラルウォーターを注ぎ入れてから、カウンターに置いたバランタインの封を切って、タンブラーに静かに注ぎ込む。ウイスキーがミネラルウォーターに浮かぶ。
「ウイスキー・フロート。強いので、注意してください」
「ありがとう」
女性は、ゆっくりとグラスを持ち上げて、ストレートのウイスキーを喉に流し込む。
ゆっくりとした動作で、味を確認するように、飲んでいく。
「マスター。聞かないの?」
「・・・」
「だから、皆・・・。マスターを頼りにしているのね」
「何のことでしょう」
「フフフ。いいの、独り言だから、気にしないで・・・」
マスターは、カウンターの上に置いたバランタインを片づけて、洗い物の続きを始める。
女性は、マスターの動作を見ながら、”ぽつぽつ”とマスターに話しかけるように、独り言を続ける。
飲みかけのグラスを持ち上げて、ロックになり始めるウイスキーを喉に流し込む。そして、カウンターにグラスを置く、酔いが回ってきたわけではない。疲れてしまっているのだ。
「この
女性は、残っていた水割りになってしまっている液体を飲み干す。
グラスを少しだけ乱暴にカウンターに置く、自分が思っていた以上の音が鳴って驚いた表情を浮かべる。グラスは、割れなかった。グラスに付いていた水滴が、女性の手を濡らす。マスターは、そっとハンドタオルを女性に渡す。
「チェイサーです」
女性は渡されたミネラルウォーターを一気に飲み干す。
「ありがとう。あの人も、マスターくらい優しければ・・・。ううん。なんでもない。マスターありがとう。こっちに来られたら、また寄るね」
「はい。お待ちしております」
女性は、店に入ってきた時とは違って、落ち着いた足取りで店を出て行った。
階段を上がって、太陽が登り切って、明るくなった繁華街に消えていった。
マスターがグラスやボトルを磨いていると、店の扉が開いた。
マスターはチラッと扉を見て、作業に戻った。
「マスター」
入ってきた男は、マスターを呼ぶ。
「なんだ?」
マスターは視線を男に移すのも面倒だと言っているように、手元を見ながら、ぶっきらぼうに答える。
「”なんだ”はないと思うけど?」
男は、マスターの様子がいつもと同じ事に安堵して、言い返す。
いつもの二人の掛け合いだ。
この意味の無い掛け合いが、丁度いい距離感を醸し出している。二人は、お互いを仕事上のパートナーだと認識している。
誰にも語ることがないプライベートな内容も、お互いに知っていても話さない。二人は、二人だけの世界で、別々に生きている。
「それで?なんだ?」
「マスター。キルシュ・カシス」
「あ?」
「
「気持ち悪い」
そう言い返してから、キルシュ・リキュールとクレーム・ド・カシスを取り出す。
氷で冷やしたグラスに、二つの液体を入れる。しっかりとステアしてから、グラスに注いで、ソーダで満たす。
「キルシュ・カシス」
「ありがとう。『愛の芽生え』だね」
「うるさい。それで?」
「急ぎすぎ。飲んでからでもいいよね?」
「わかった。早くしろ」
男は、グラスを目の高さまで上げてから、壁際に置いてある、古ぼけて、色あせている写真に向けて一礼してから、液体を流し込む。男が、小さく呟いた「(献杯)」の言葉は、マスターの鼓膜を揺らすには十分な声量はなかった。しかし、マスターは男がなんと言ったのか解っている。
「(ありがとう)」
マスターの呟きも、男の鼓膜には届かなかった。しかし、マスターも男もお互いが何を呟いたのか解っている。
「マスター。依頼・・・。だけど、今回に関しては、マスターには、拒否する権利がある」
「拒否?」
「資料を見て欲しい。正直、この依頼は、受けたくない」
男は、空になったグラスの中に、SDカードを投げ入れる。男が、受けたくない仕事をマスターに依頼するときの仕草だ。
マスターは、男の様子から、CLOSEの看板を店のドアにかけて、ドアをロックする。
SDカードを取り出して、専用の端末で表示させる。
「・・・。おい」
資料を読んでいたマスターは、男の顔を見る。
「ね。判断に困るでしょ?」
「あぁ。俺は、判断しない。遺族が望んだのなら、それが”正しい”ことだ」
「はい。はい。そういうと思っていたよ。でも、かなり難しいよ」
「解っている。地方だな・・・」
マスターは資料を見つめている。
資料には、事件の概要から、遺族が望んでいる内容が書かれている。依頼に相当する部分は、かなり詳細な説明が付随している。
いじめられた少女が、自殺した。一度目は、母親が寸前で気が付いて未遂に終わったが、二回目は止められなかった。止められなかった事を悔やんで、母親も自殺した。父親は、すでに他界していて、残った遺族は、父親の両親だけだ。自殺した少女の祖父母だ。祖父はすでに痴呆が進んでしまって、施設に入居している。依頼は、祖母からだ。依頼料は、自分が死んだ後で、祖父が生きていくのに十分な保護をお願いした上で、残りを依頼料に充てる。と、なっている。試算した結果では、1億程度が依頼料になる。祖母は末期癌で、長くても1年だと診断されている。
依頼内容は、”いじめの連鎖を止めて欲しい”だ。
地方の小さな人口の少ない町で起きた自殺騒ぎ。
すぐに、情報は伝播する。いじめていた者たちはすぐに特定される。それだけなら、よくある話だ。しかし、地方の小さな町で発生した事で、事情が変わってくる。いじめていた者たちの弟や妹が、いじめられたのだ。自殺を行うようなことにはならなかったが、最初にいじめていた家族は、いじめられる立場になってしまった。そして、町から引っ越しを決意した。
町の雰囲気が、少女を自殺に追い込んだ者たちは、自業自得だという雰囲気になったからだ。
しかし、引っ越してから事情がまた変わった。今度は、引っ越しさせるまで追い込む必要はなかったという風潮になる。少女をいじめていた者たちではなく、いじめていた者たちの弟や妹を”いじめた”のは、やりすぎだと”
そして、自殺した少女は、
少女をいじめていた者たちの弟や妹をいじめていた者たちが、今度は”いじめ”の対象になってしまったのだ。
祖母の依頼は、『この”いじめの連鎖”を断ち切って欲しい』だ。
孫娘の名前が不名誉な連鎖の始まりになってしまっている状況が許せない。そして、死に行く自分に残された孫娘にしてやれる最後の事だと依頼をしてきたのだ。
「警察は動かせるか?」
「大丈夫だよ。でも、あまり無茶はできない」
「解っている。事情聴取を数回して欲しいだけだ。できれば、警察署に呼び出す形がいい」
「そのくらいなら大丈夫だ」
「わかった」
マスターは、資料を眺めて、また考え始めた。
男は、考えているマスターを眺めている。時間だけが過ぎていく。
「学校は何もしなかったのか?」
「うん。他と同じだよ」
「そうか、学校に悪者になってもらおう。”責任が全くない”とは、言えないだろう?」
「わかった。委員会を動かすか?」
「いや、担任や校長を事情聴取しよう。いや、事情聴取だとマスコミ発表が必要になるな・・・。事情聴取ではなく、任意の聴取だ」
「それだけ?他には、何もしないの?」
「いや、ネット系のマスコミを使おう。連鎖が始まったのは、マスコミにも責任がある。取材した奴らは調べられるか?」
「もう特定してある。ネットのマスコミはどうする?」
「動画配信を使おう」
「いいけど、間違いなく炎上するよ?」
「炎上しても、削除されなければいい」
「わかった。上手くできる奴を探しておくよ」
「頼む。今回は、依頼を完遂するまでの道筋を資料にする。長期戦になるだろうから、実際の作戦は任せていいか?」
「わかった」
男は、スマホを取り出してメモをする。
マスターから聞かされた作戦をしっかりと記憶するためだ。資料は、後日に提供されるが、マスターと話し合って、作戦に穴がないか考察を繰り返す。そのあとで、男は大凡の人員を考えなければならなかった。
それらが終わったのは、太陽が沈んで、周りの店が目覚め始める時間になっていた。
マスターと男が考えた作戦は単純だ。
誰かをいじめなければ、自分たちが安心できないのなら、いじめる対象を用意すればいい。連鎖を断ち切るために、いじめる相手を用意しようとしたのだ。マスターたちが用意したのは、組織としての学校と、個人としてのマスコミだ。
組織としての学校が何も対応していなかった事が暴露される。学校は組織としての対応を行ったと表明するに留める。実際の被害者たる。少女の遺族は、祖父を残して他界しているために、学校に鉾が向いているが、実行に移せる者が存在しない。
個人としてのターゲットは、取材した者たちだ。取材した者たちを名指しで批判する動画を配信する。名指しされた者は、批判されるが、徐々にそんな配信をした者が批判されるようになる。所謂炎上の状態だ。
炎上騒ぎを見て、知って、いじめの連鎖に関わった者たちは、自分たちに矛先が向くのを恐れる。
もし、それでも連鎖を続けるようなら、その者たちを、炎上している場所に放り込んでしまえばいいと考えていた。これは、もう別の連鎖だ。少女は関係がなくなる。
数か月後に、男は一枚の写真を持って、マスターの店に現れた。
「マスター。
マスターは黙って、頷いてから、男が持ってきた写真をバーボンのボトルに立てかける。
写真には、一人の少女と母親と思われる女性が、高齢の夫婦に挟まれて笑っている様子が写されていた。何かを言っているように見える。
映っては居ないが、少女の笑顔から、シャッターを切ったのが、少女の父親だと解る。
「「献杯」」
マスターと男は、1/3にしたカリフォルニア・レモネードを目線の高さまで上げてから、飲み干した。
そして、写真に映っていた高齢の男性が余生を過ごしているホームに、多額の寄付が振り込まれた。
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