第四話 眠れぬ夜
「マスター。ナイト・キャップをお願い。今日は、これで最後にする」
「かしこまりました」
マスターは、卵黄を用意して、ブランデーとキュラソーとアニゼットを2:1:1でシェイカーに注いて、卵黄を入れる。
注文した女性は、マスターの手元にうっとりとした視線を向ける。
「ナイト・キャップです」
女性は、マスターが置いたシャンパングラスに注がれた液体をしばらく眺めてから、喉に流し込んだ。
「マスター。私、夜を卒業するの」
「そうですか」
マスターは、シェイカーを洗いながら女性の独白に答える。
「それで」
「わかりました。清算します」
マスターは濡れたてを綺麗なタオルで拭いてから、精算を行う箱に入っているノートを取り出す。
一度、手を拭いたタオルは、そのまま洗濯物が入っているかごに投げる。
「いいの。マスター。他の子の為に使って、それほど残っていないと思うけど・・・」
「わかりました。ありがとうございます」
「ううん。私も、マスターのおかげで救われた。眠れぬ時間を過ごす寂しさを知っていたから、マスターの作る優しさが嬉しかった」
「いえ」
「ううん。いいの。私が、勝手に思っているだけ・・・。だから、マスター。ありがとう」
「はい」
女性は、立ち上がって、ドアを開けて、ネオンが消えた街に足を踏み出す。
「マスター。おやすみ。さようなら」
「はい。また、その扉を開ける日が来ないことを祈っています。おやすみなさい」
女性は、マスターに笑いかけてから、ドアを閉めた。
湿られた扉に深々と頭を下げるマスターが居た。
「マスター。よかったね」
カンターの奥に座っていた男が、マスターに話しかける。客が居る時には、マスターに話しかけることもなく、壁のシミのように佇んでいる男だ。
「何が?関係がない」
「ん?気になっていたのでしょう?」
「そうだな」
「彼女は、新しい希望を見つけたみたいだよ」
「そうか」
マスターは、男が言っている”新しい希望”が、どんなことでも、”女性”が大切にできるものなら良いと思っている。
カクテルグラスを二つカウンターに置いて、ホワイト・ラムとライムジュースを取り出す。一人分の分量をシェイカーに挿れて、シュガーシロップを入れる。よく、シェイクして、カクテルグラスに同量を注ぐ。
「ダイキリ」
マスターが一言だけ呟いて、男の前にカクテルグラスを置く。
一つを、壁に掛けられている。枯れている花の前に置く。
「希望か・・・。マスターにも、希望が訪れるように!」
男は、マスターが置いた、グラスに軽く合わせてから、目線の高さまでカクテルグラスを持ち上げてから、一気に飲み干す。
「マスター」
「あ?」
「そんなに怒らないでよ。これを、渡したら、今日は帰るよ」
「わかった」
マスターは、男が差し出したSDカードを受け取る。中に入っている、マイクロSDだけを抜き出して、男に投げ返す。
「面倒なことをするな」
「はいはい。
「まて!どこからだ?」
「あの子が所属していた店だよ。会館と言えば解る?」
「そうか・・・。わかった」
男が、手を振って、扉から出ていく、マスターはネオンを消して、扉に”CLOSE”の札をかける。
マスターは、カウンターの奥に作られている私室に入る。マイクロSDを、特別に作られた機器に挿してから、決められた手順で中身の確認を行う。
「クズが!」
マスターの怒りに満ちた呟きが、狭い部屋に響く。怒りの波動でも伝わったのか、マスターのスマホが振動する。マスターは、表示された名前を見て、スマホを通話モードにする。
『マスター』
「準備は?」
要件の必要はない。マスターが拒否しないのは、男にはわかっている。マスターも、男が早々に店から出ていったのは、準備を行うためだと理解ができている。
『出来ている』
「裏取りも終了しているのか?」
『大丈夫。あとは、実行だけ・・・・。でも、マスター。いいの?』
「大丈夫だ」
『わかった。上には、そう伝えておく』
「あぁ」
『情報を送っておくね。マスター。本当に、無理をしていない?』
「大丈夫だ」
マスターは、通話を切って、無造作にスマホをソファーに投げる。
表示されている情報に目を落とす。そこには、にこやかに笑う女性と、女性を監視するように見つめる男性が映されている。
そして、女性は二日後に路上で刺されて、病院の集中治療室に運ばれて、意識を取り戻さなかった。
男は、一度は逮捕されたが、すぐに釈放された。アリバイが存在していたためだ。アリバイ自体が偽装の可能性もあるが、地位がある者がアリバイを証言したことから、男は釈放された。
ターゲットは、女性を殺したと思われる男と、アリバイを証言した男だ。
アリバイを証言した男は、希望を持った女性の店に通っている。女性を指名している常連だ。かなりのご執心の様子だ。
マスターに渡された資料には、女性の希望も書かれている。数ヶ月前に同じ店で働いていた黒服だ。黒服は、店を辞めてから。溜めたお金で小さいながらも自分の店を持った。庶民の食べ物ラーメン屋だ。女性は、黒服と一緒になりラーメン屋の女将になることに希望を持っていた。
地位を持つ男性は、女性の行動が許せなかった。自分が目を掛けてやっていたのに、挨拶もなしに、店を辞めて、調べてみたら、チンピラのような奴と小汚い店を開く?自分が、今まで貢いだ金を使って・・・。到底許される行為ではない。男性は、裏切られた。そう思っている。
地位を持つ男性は、男を殺して、店に火を放って、何もかも失った女性を囲い込むことを計画している。そのために、同じ店で働いていた女性をストーキングしていた男に声をかけて、計画を持ちかけた。
そして、男は自分の欲望と金銭で仕事を請け負った。
マスターのスマホが振動する。
情報が届いた。思った以上に簡単な仕事だ。マスターが行うのは、地位を持つ男の社会的な抹殺だ。実行者は、すでに別の人間が始末に向かっている。普段のマスターなら処分に私情を挟むことはないが、今回は私情を挟んだ。
男を社会的に抹殺する方法と同時に、”眠れぬ夜”を過ごしてもらうことにしたのだ。
男を精神的に追い詰めることにしたマスターは、仲間たちの協力と賛同を受けて作業を行った。
夜な夜な女の声が聞こえるような仕掛けを施して、スマホにウィルスを仕込んで、私生活を丸裸にしていった。
1ヶ月後には、男は別件で警察に逮捕された。
そして、その後に殺人教唆と委託殺人の罪で再逮捕された。
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「マスター。店は?」
「今日は、休日だ」
「へぇ一緒に行っていい?」
「好きにしろ」
「わかった。好きにする」
マスターと男は、並んで中央線の終着駅からさらにバスで移動してたどり着く”村”に向かっている。公共の足は使わないで、マスターが運転する車で向かっている。
車には、大きな花束が一つと、店で作った、”ナイト・キャップ”と”ダイキリ”が入った水筒がある。
「ここだね」
「あぁ」
その場所は、無縁仏が安置される場所だ。
住職に話を聞いてから、一つの墓の前に案内された。
手をあわせて、カクテルグラスを二つ取り出す。一つには、ナイト・キャップを注いで、もう一つにはダイキリを注ぐ。
男が持つグラスに、ナイト・キャップを注いだ。マスターの持つグラスには、ライムジュースが注がれる。
「「献杯」」
マスターと男は、グラスを掲げる。
太陽の光が、グラスを通って、墓石を照らす。
墓石にグラスを掲げてから、マスターと男はグラスの中の液体を飲み干す。
そして、空になったグラスを再度太陽に掲げる。
マスターと男は、住職にお布施を渡して、彼女のことを頼んでから、名前を告げずに立ち去った。せめて、眠る場所は・・・。陽のあたる場所で、眠ってほしかった。
自分たちも、同じだとわかっている。
陽の当たる場所には居られるが・・・。
帰りの車の中で、マスターはラジオから流れる陽気な歌声が妙に気持ち悪くて、ラジオを切った。男が口ずさむ音程が外れた歌の方が、今日はふさわしく思えた。
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