5 旦那さまには少し難しかったかも知れない。
陽が昇るか昇らないかの辺りの早朝に深雪は目覚めた。そして、見慣れない天井が視界に入り、「そうだ……」と昨日のことを思い出した。
ここはもう座敷牢ではなくて、それから自分は崇正の妻になったのだ。瞼を擦りながら、改めてそのことを認識していた。
「……よし」
深雪はゆっくりと起き上がると、小さく伸びをした。
それから、自前の狐耳をぴくぴく動かしながら視線を落とし、自分の着ているものを見て気づいた。
そういえば、着替えの類を何も持って来ていなかったな、と。
「……」
匂いが少し気になったので、腕を鼻先に当てて確認してみる。
そこまで匂うわけでは無いけれど……でも、今日は崇正の近くには寄らないようにしようと深雪は決めた。
臭いと思われたくない。
崇正は気づかない気がするけれど……それでもである。
まぁ、そんな個人的な感情はさておき。
深雪はひとまず、妻としてやるべきことをしなければと思考を切り替え、何から始めようかなと考える。
まず思いつくのは家事炊事や洗濯だ。
それらは幸いなことに得意分野であり、なんだか上手くやっていける気がして来た。
座敷牢時代、深雪は身の回りのことは全て自分で済ませていた。
使用人も抱える楪家ではあったが、深雪は文の伝達以外で使用人の世話になったことが無いのだ。
理由は誰も近づきたがらなかったからだ。
だから、当然に食事の用意なんかも自分でした。いつも定時になると食材がこそっと部屋の前に置かれ、部屋の隅には小さな竈があったので、そこで本を参考に作っていた。
使用人に何かを作らせ与えることも出来たであろうに、それを家族がしなかった理由を、深雪は知っている。
食事を作るとなると、当たり前だが刃物も扱う必要が出て来る。
それが意味するところはつまり、深雪に対して家族は、包丁を使って自殺でもしてくれないかなと思っていたのだ。
姉と妹の二人が深雪の部屋の前を通り過ぎる時に、わざと聞こえるように、どうして深雪に自分で自分のことを両親がやらせているのか、その理由について話をしていたのを聞いてしまった。
――早く死ねって皆が思っているのに。父さまも母さまもそうやって準備までしてあげてるのに。中々死なないしぶといヤツ。
それを耳にした当時、深雪は悲しくて泣いた。思い出したくもない記憶でもある。
しかし、世の中は何があるか分からないものだ。まさか、そうして仕方なくに獲得した技能が役に立つ日が来ようとは。
ふと、深雪は自らの手を見た。
よく見ると少し荒れ気味の手であり、そのことが恥ずかしくなった。
昨日崇正に手を引かれた時は、嬉しさばかりが先に来たけれど、冷静に考えてみるとこんな手を握らせて申し訳ないなと思う。
……今日は旦那さまとは物理的に距離を取ろう。深雪はそんなことを思いつつ部屋から出た。
☆
部屋から出て、早速に妻の職務を果たそうとした深雪は、けれども予想外の事態に焦っていた。
どこに何があるか分からないのだ。
掃除道具がしまってある場所も分からない。炊事場はどうにか見つけたけれど、冷静になって考えて見ると、あるものを勝手に使って良いのだろうかとか、そんなことを考える。
あたふたとしていると、そのうちに崇正が起きて来てしまった。
「……早起きだね。何をしているの?」
そう言われて、深雪はしゅんとしつつ、若干距離を取りながら事の成り行きを全て話した。聞かないとどうにもならないからだ。
「……そういえば、僕もそういうことをまるで説明していなかったね。ごめんね。まず、家の中のものは全部勝手に使って大丈夫だよ」
崇正にそう言われて深雪はホッとした。これで動きやすくなる、と。
「どこに何があるかとかその説明もしないとね。おいで、案内するから」
崇正は深雪に近づくと手を差し出して来た。
深雪は、寝起きに考えた自分の匂いとか手の荒れ具合のことを思い出して、思わず、崇正の手をぱちんと弾き返してしまった。
頬は朱に染まっていた。
「だ、大丈夫です……。わたしに近づかないでください。触らないでください」
少し上ずった声で伏し目がちに言うと、深雪はぷいと横を向く。すると、崇正が瞬きを繰り返し額に汗を浮かべた。
「あ、あれ……? 昨日と何か違――」
「――お願いですから」
「え……一体何が……どうして……?」
「聞かないでください」
手を弾き返した本当のところは、距離を取りたいと思っていると同時に、崇正に触れたいという深雪の欲求の現れでもあった。
単に離れて欲しいのなら、言葉でだけ伝えても何らの問題は無い。どのような形であれ、わざわざ触るという選択を取るのは、つまりそういうことなのだ。
だがしかし、女性の扱いが苦手そうな崇正にそれを察しろと言うのは、無理な相談であった。
崇正は、「僕が何かしたのだろうか……?」と自問自答を呟き続けていた。
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