第2話 余所行きマスク

 将司は一度玄関を開けて道路に出たときに外を歩く人を見たときに、自分がマスクをしていないことに気が付いてすぐに戻った。もうこの生活が一年になろうとしているのに気を付けていても忘れてしまう。最初はマスクをすることに抵抗を感じ、オシャレな色合いと形でないとと親に文句を言ったりもしたが、今となってはどうでもよくなっている。

「あんた予備をカバンに入れてあげたでしょ」

「予備をいきなり使ってたら意味ないだろ。いってきます」

 ドアの向こうに文句を言いながら将司は改めて飛び出した。駅までは軽く坂になっていてマスクを外したい衝動に駆られるが、自宅待機で失った持久力を補うために我慢する。それに周りの親と同年代かそれ以上の人たちが平気な顔をして歩いているのに一人若い将司だけが息を切らしているのは恰好がつかない。将司は口で大きく息をしながら何とか改札を通り抜けた。


 目の前の景色がいつものように通り過ぎていく。背中の日差しに照らされて室内は暗く沈んでいる。将司はドアの近くに立ちながらスマホを触ろうとジャケットから取り出したが、風を切る音が大きすぎたので、ラジオでも聞くことにした。今まではラジオなんて聞く習慣はなかったのだが、外出できない時間が増えたせいで生活リズムが夜型になってしまった時に、友人から勧められてお笑い芸人のラジオをつけたことで聞くことが増えた。他の作業をしながらでも聞くことができたし何より、イヤホンをつけているだけだと親から文句を言われないことも大きかった。友人とスマホでやりとりを市ながらラジオを聞いて、それを話題にすることは退屈な時間を紛らわすにはちょうどよかった。将司は無線のイヤホンを取り出して両耳につけた。本当はアップル社のイヤホンが欲しかったのだが、将司の使えるお小遣いには限界がある。友人がためらいもなく新商品を持っているのを見ると羨ましく思うことも会ったが、在宅勤務でとても話しかけることができなさそうな父親にそれを要求するのは将司には無理だった。

 ラジオの向こうではまるで部活のノリのような下世話なネタが飛び交っている。部屋で聞いているとき以外は無表情でいることに神経を使っていたが、マスクをしてからは声さえ出さなければ問題なくなった。最初は慣れずに笑いをこらえる場面もあったのだが、誰にも見られないことがわかってからはむしろ積極的に笑ったりすることもある。

 イヤホンから出てくる声に聞き入って、代わり映えのしないいつもの風景をなんとなく眺めている。ふと我に返ったときに周りの空気が気になることがあるが、皆スマホの画面に夢中になって自分のほうに注意を払っていないことにほっとする。顔を半分近く隠すマスクは無防備の自分を守ってくれる。将司はマスクをしっかりとつけなおして、目的地へ着くまでラジオに没頭した。


「おはようございます」

「うっす」

 校門のところで部活の先輩に挨拶する。まともに部活動してないのに先輩も後輩もないと思っているが、目を付けられると面倒が増えるだけなので将司は挨拶だけして通り過ぎる。一瞬嫌そうな顔をしてしまったことを自覚したが、相手は将司のほうを一瞥してそのまま通り過ぎていく。将司はその後姿を見ながら部活もなにもないのに偉そうにしやがってと悪態をつきながら校舎に入っていった。

 強豪でスポーツ推薦もある部活は活動しているが、思い出作りをするだけの部活動は実質休業状態だった。有志を募って顧問監視のもと、活動することも可能ではあるのだが、将司は親にできれば止めてほしいと言われていた。何となく一度は抗議してみたのだが、毎日パソコンに向かってリモートワークをしている父親の背中を見ていたら受け入れるしかなかった。母親の方も外に行くことはできないし昼間はヘッドホンしてテレビを見ているらしい。結局はゲームの新機種を買ってもらうことで妥協をするしかなかった。

 教室に入ると友人と手をあげて挨拶する。すぐにカバンを置いて将司は友人の瀬川を連れて廊下に出た。たまに大きな声で話した時に視線を感じることがあったので、廊下で話すことが多かった。


「昨日のラジオ聞いた?」

「さっき電車で聞いた。やっぱり面白いよな。でも、芸人より葉書を送ってる人が面白いって感じがするよな」

 二人は早速ラジオの話をしていた。クラスでラジオを聞いてるのは自分を除けば友人くらいだったのでこの話題をするときは必然的に二人で話すことになる。

「話題のきっかけを作ってるのは葉書からだもんな」

「毎回よくいろんなことを考えて送ってるんだなんてすごいよ」

 周りが誰も知らないことを話していることで、何だか内緒話をしているようで二人の結束は強い。

「実はさ・・・・・・、俺送ってんだよ」

「まじで? 読まれたことあるのかよ」

 将司はびっくりした。まさか身近に送っている人がいるなんて考えてもみなかった。

「ほら、俺たちの住んでる市の葉書が読まれることがあるだろ? あれが俺なんだよ」

「言われてみれば、あったような・・・・・・。ペンネーム教えてくれよ」

 しかし、瀬川は将司がどれだけ言ってもそれ以上は教えてくれなかった。恥ずかしいのか自分で探せということなのか表情からは読み取れなかったが、瀬川はトイレに行くと言って去ってしまった。

 将司は一人廊下に残されたまま、瀬川のラジオネームが何なのか放送を思い出していた。しかし、今までそんなことを意識してなかったから記憶に残ってない。将司が仕方なく教室に戻ろうとした時、クラスの女子と目が合った。彼女はまっすぐにこちらを見ていたが将司と目があうとあわてて教室内に入っていった。何かこそばく感じて身体をぶるっと震わせた後に、始業ベルの前に将司も教室に入った。黙って席に座った後に将司の中では瀬川のラジオネームについて何とかわからないかと考えてみようと思ったが、脳裏にはさっきの女子の姿が目から離れない。次の休み時間にもう一度瀬川に聞いてみたいし、彼も当然それを期待しているだろうからその話題を準備しないといけないと思っているのだが、何故かそれが煩わしく感じられた。将司は両手を広げて自然な幹事を装ってさっきの女生徒を見た。先ほどまで自分を見つめていた大きな瞳は黒板のほうに向いている。マスクで顔が隠れていて表情までは読めないが、長い髪を上げて露わになった首筋に薄い後れ毛が彼女の肌の白さを一層露わにしている。将司はそれをじっと見ていたい気持ちと、自分の感情が周りに漏れ出ているような羞恥に襲われて思わずマスクをしっかりとつけなおした。マスクに吐く息がいつもより熱い気がして少し呼吸が乱れる。それでも、将司は他のクラスメイトが自分に注目していないのを確認すると、また彼女の横顔を視界の端にいれて他のことはそっちのけになってしまうのだった。

 その後、瀬川と話をしたが、何を話したか憶えていない。電車でもまた音楽を聞いていたが、今はメロディーよりも歌詞のほうが耳に残っている。部屋に入ってカバンを投げ出すように机に置くとそのままベッドに横になって自分の心臓の音と呼吸だけが耳に入る。将司は自分がマスクをしたままだということに気が付くまでしばらく時間がかかった。

 白いマスクは何日か使いまわしたせいで真ん中が少しけば立っている。いつもであればうがいをするついでにマスクを水で洗ってそのまま明日も使いまわすのだが、それでは満足できなかった。母親に言っても箱買いした白いマスクしかないという。それでは意味がないので、ネットでマスクを検索することにした。値段としてはそんなに高くないので好きなのを注文していいと言ってくれた。

 食事の時にそのことで姉に文句を言われたが、両親が二人ともそれを取り合うことはなかったし、姉もただ何かを言ってみたかっただけでそれ以上どうのこうの言うことはなかった。ただ、何か言いたそうなその目を見ると将司は下を向いて席を立ってすぐに部屋に戻った。


 新しいマスクが届いた時、将司はそれをつけて鏡の前で表情を作ってみた。短髪にいつもの見慣れた目があるだけでこれといって何かがあるわけではない。黒に白のラインが入ったマスクは家の洗面所のライトでは映えるわけがない。それでも一通りいろんな角度から自分の姿を眺めて、ようやく納得した将司はそれをつける明日を楽しみに眠りに着くのだった。

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