リンゴと洋梨

高月

第1話 春

 彩菜が上を見上げると桜の花が咲いていた。すっかり満開になったその枝からは白い重みに耐えかねるように地面の方へと垂れ下がっている。下を見ると点々とその花びらが落ちている。歩道の真ん中は誰かに踏まれて黒くくすんでいるが、運よく溝のほうへと舞い散った花びらはうっすらとした赤みを残して佇んでいる。新学期に併せてクリーニングに出した制服は登校中には少しだけ暑く感じる。洗いたての服を汗で汚さないようにゆっくりと歩いていく。遠くの方で電車が走っていく音が聞こえ、周りの人もそちらのほうへと向かって歩いていく。

 ふと彩菜が髪にふれると花びらが一枚手についてきた。花の根元の方だけわずかに赤が強くなって、細い筋のような線が縦に走っている。瑞々しく水分を含みそのまま口に含みたくなるような艶があった。押し花にしてしおりにしたら綺麗かもと思い、静かに手を閉じようとしたがあざ笑うかのように宙へと飛んでいった。

「桜の季節ってのはね、出会いと別れの季節なのよ」

 テレビの方を向きながらも、どこか画面の奥のほうをみながら言った母の言葉を思い出した。しかし、ただ学年が変わっただけの彩菜にはそれは実感できない。そんなドラマティックな出来事はドラマや映画の中でしか起きないことは知っている。一つ大きな息を吐いて登校に戻った。


「今年もよろしくね」

 席についた彩菜に話しかけてきたのはショートカットの藤香だった。

「よろしくね。髪型変えたの? 似合ってるよ」

「春だからさ。ちょっと心機一転ってやつ」

 藤香は軽くパーマのかかった髪を見せるように揺らした。すいて軽くなった藤香の髪がふわふわと鈴を鳴らすように揺らめいている。彩菜は藤香の髪をほめながらどこかほっっとした。教室の中がどこかよそゆきでクラスメイトの顔色をうかがいつつある中で、友人がいることは心強かった。あからさまに顔見知りを探すような不安は出したくなかったし、誰も話す人がいなくて手持ち無沙汰であることを見られるのは耐えられなかった。

「あ、よっちゃんだ」

藤香は同じ部活の友人を見つけると、彩菜に手を振ってそちらのほうへと駆けていった。彩菜はまた一人になって話し相手がいなくなったが、さっきより気持ちが大きくなっている。足をつっぱるようにして身体を伸ばすと窓の外を見た。二階から少し高くなった目線で遠くのほうまで住宅街の屋根が見える。日差しの強い光とともに土から生命力が横溢する匂いが彩菜のほうまで届いてくる。下の方では新入生が先に体育館のほうへと向かっていく。後で自分たちも移動しなければならないと思うと少し億劫になる。机の上に肩ひじをついて視線を戻すと、藤香がよっちゃんと呼ばれた子たちと楽しそうに話をしていた。藤香は小柄な身体を動かして大げさに笑いながら話題の中心になっている。彩菜は後で紹介してもらおうと思いながらも今は動く気にはなれなかった。高校二年生になった教室は一年生のような初々しさもなければ三年生のような受験にせっつかれているわけでもないどことなくマンネリとしたものがあった。一人手持ち無沙汰になった彩菜は帰って家で用意されている昼食のことを考えていた。


 駅を出て家に帰るとき、スマホがなってホットケーキの元を買ってくるように母親から連絡があった。彩菜は近くにあるスーパーに立ち寄ってそれを買うと、横においてあった少しだけ高そうなメイプルシロップも一緒に買うことにした。家にもはちみつは常備されているのだが、せっかくだからいつもと違う風味を味わってみたかった。

買ったものをカバンに入れて朝通った桜の枝の下を通り過ぎていく。去年古文の授業で桜は日本人にとって特別な存在だが、平安貴族が詠んだ桜とは種類が違うのだと言っていたことが思い出された。普段は冗談も言わず、年配の教師と言うことで聞いていない生徒も多く、彩菜も集中していないことが多かったが、何故か印象的で頭に残っていた。前を歩いている親子連れが桜の下を散歩していて、親が何とか子供に桜を見てもらおうと声をかけていたが、子供のほうは交差点の横道奥のほうが気になるらしく全然言うことを聞いていない。子供が立ち止まって、お母さんに声をかけると二人は立ち止まって地面の方を見ている。彩菜は二人を追い越すときに二人の見ている先に視線を向けると、誰か家の前にピンクの絨毯が広がっていた。

 風のあまり吹かない小さな路地で、桜の花が折り重なってピンクの水たまりのようになっていた。彩菜も思わず立ち止まって、枝から舞い降りたかのような色彩を見ていると子供が声を出して駆け出して落ちている花びらをすくって宙へと投げた。ひらひらと一枚一枚の花びらが広がって、子供を包むように飛んでいる。それが面白かったのか子供は親の方に声をかけてお母さんに見せるようにまた投げた。母親は彩菜と一瞬だけ目があって、軽く会釈をしてすぐに子供を追いかけた。

 彩菜は軽く頭を下げてから、あまり見ていては失礼と思ってまた歩き始めた。遠くに見える山の方でところどころピンクになっている木が見える。あれも全部桜なのかな。誰も人が入らないところは居間みたいに枝から地面に花が降りているところがあるのかもしれない。週末には家族で花見に誘われていたが、どうせなら誰もこないような静かな場所で花見がしたいとメイプルシロップのかかったホットケーキを食べながら母親に相談しようと考えた。

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