レーズンとオウムとミイラのワルツ

柴田彼女

なかよしのルール

 まるで化け物にでも出くわしたかのような表情で私を凝視する先生に気づき、その視線に従って私は尻すぼみに作文の音読をやめた。私の言葉が完全に止まると、教室全体は少しずつざわめき立っていく。しばらく私は教室内に蔓延る違和感の正体を探っていたが、不意に隣の席のいおり君が、

「茜ちゃん、早く先生に謝りなよ。嘘を言ったらだめなんだよ」

 私の右袖を二回軽く引っ張りながら小さく耳打ちし、それから黒板の横に貼ってある『なかよしのルール』と名付けられた紙をずいと指差した。なかよしのルールとは、去年の春入学式の朝に先生がそこに掲示し、強制的に導入されたこのクラス特有の約束ごとだった。彼に促されるまま上から順に黙読する。

 ひとつ、ありがとうをつたえよう。

 ふたつ、楽しいを分け合おう。

 みっつ、うそを言ってはいけません。

 この日、私はどのルールも破っておらず、批難される覚えはなかった。それでもいおり君は執拗に、ほら早く、ねえ茜ちゃんってば、早くごめんなさいって言ってよ、先生怒っちゃうから、ねえ、と私を急かす。どうしていおり君は私を嘘吐きだと決めつけるのだろう。気づけば左隣の席のまりちゃんも、後ろの席のみいなちゃんも、前の席のはやと君も、いおり君に倣って「嘘はだめだ」と代わる代わる私に向かって「先生へ謝罪の言葉を伝えろ」と叱責してくる。私がどうしたらいいものかと口を噤んでいると先生は、

「……少しのあいだ、自習の時間にします。みんな、教科書の××ページに載っているお話を声に出さずに読んでいてください。あとで感想を訊きますから、先生がいなくてもしっかり読んでおくこと――では、森下さんは先生についてきてください。自習、始め」

 私は言われるがまま先生に続いて教室を出る。いおり君はまるで私へとどめを刺すかのように、

「すぐごめんなさいって言うんだよ」

 と私の背に言葉をぶつけてきたが、私は返事をしなかった。



 てっきり私はこのまま職員室へ連行されるものだと思っていたが、なぜか担任教師は私の背中をそっとさすりながら保健室へと向かった。不審そうにこちらを見る保健室の先生に、担任が小声で何かを伝える。担任の顔が保健室の先生の耳元から離れると同時、保健室の先生は血相を変え保健室を出て行った。保健室の先生がばたばたと廊下を走っていく音が聞こえる。廊下は走っちゃだめなんだよ。私は心の中で指摘する。

 足音が聞こえなくなったころ、先生は私へ「ねえ森下さん、ここに座って」そう言って折りたたみ椅子を置いた。私は言われるがままそこに座る。私はクラスでも二番目に身長が小さかったので、足裏は地面と接することなくふらふらと揺れる。私は少し楽しくなった。

 先生はもう一つ折りたたみ椅子を出し、私と向かい合ってそこに座ってみせた。先生はしっかりと足の裏が床とくっついている。先生は大人の女の人だったけれど、その中でも特に背が高かった。私はいつも、背の高い先生のことを恰好いい人だと思っていた。

 先生はぐーっと背中を丸めて、私の目線に合わせる。それから彼女は、どこかが激しく痛んでいるような顔つきで、

「森下さん。さっき、教室で森下さんが読み上げてくれた作文は、全部、本当のことなの?」

 と言った。

 その瞬間、私は悲しい気持ちでいっぱいになった。

 先生も私のことを嘘吐きだと思っていたのか。私は先生のことを恰好いいと思っていて、だからこそ私は先生が決めた『なかよしのルール』を、クラスの誰よりも従順に守っていたのだ。それなのにも関わらず、先生までもが私のことを大嘘吐きだと考えている。なんという仕打ちだろうか。こんなこと、あまりにも理不尽だと思った。

 私はぐずぐずと泣きだしながら、

「嘘なんか、言ってない。嘘なんか大嫌いだもん、言わないもん」

 最後の勇気を振り絞り先生へ訴える。先生は大慌てで、そうだよね、ごめんね、森下さんは嘘なんか言わないよね、本当にごめんね、先生、今までなんにも気づけなくてごめんね、辛かったね、怖かったね、だけどもう大丈夫だからね、森下さんのことは、先生たちが、ちゃんとした大人たちが、ずーっと守ってあげるからね。そう言って、先生は私以上にわんわん声をあげて泣いていた。

 しばらく私達は競うように泣き喚いていたのだけれど、気がつけば保健室には教頭先生がいて、校長先生もいて、顔面が真っ青のままの保健室の先生がいて、もう一人、知らない女の人もいた。

 彼女は何度も鼻をすすりあげる私に近づいてきて、ゆっくりとしゃがみ込むと、

「こんにちは」

 私にティシューの箱を渡してきた。私は『なかよしのルール』に従い、涙声のままではあったがきちんとその人に礼を言ったのち、思い切り鼻をかむ。彼女は私の様子を窺いながら、あなたは茜ちゃんっていうのよね、そう、茜ちゃんはいい子なのね、とっても偉い子ね、たくさんたくさん頑張ったのね、と闇雲に私を褒める。私が頭の上に疑問符を並べながら、それでも再び、ありがとうございます、と言うと、彼女は、

「でも、もう大丈夫よ」

 やはり先ほどの先生のように、どこかが痛くてたまらないといった表情で私の目を見据え、強く言い切った。

 先生も、この女の人も、他の人たちも、大人は皆今の私を見、痛そうな顔をする。私は皆のどこかに傷を作ってしまったのだろうか。私はなにか、恐ろしいことをしてしまったんだろうか。そのときの私はそう結論づけ、一人怯えていた。

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