スケッチ
やっぱりピンク
スケッチ
素晴らしい光景だと思う。グラウンドには太陽でさえも蒸発させることができない汗があり、廊下にはまだいい香りのする恋がある。まるで青春映画の撮影をしているようだ。メガネをかけていると、それが写真か絵のように見えて、より一層美しく映し出される。でも、伸びた前髪がその景色を遮ってくれる。必ずしも光景の美しさと自分がリンクするわけではない。黄色がかった白色をしている校舎に背を向けて、僕は早足で校門を通過した。
昼の電車内はあたたかく、くすんで見える日光が窓から差し込み、空気中のほこりが照らされている。僕は直接日に当たるのが好きではない。むしろ嫌いだ。理由は分からないが、おそらく、まぶしい、ということだろう。
家の最寄り駅までは十分で着く。十五分あれば小説を読む気になるが、十分は少し短い。JPOPを三、四曲聴けるくらいの時間だが、僕は同じ曲をリピートする。音楽アプリのミックスリストには、鼻声の女性シンガーソングライターの歌が多く組み込まれている。
車内はまだ人が少ない。クロスシートの電車の中では個人が自分の欲求を満たしている。スカートを膝の上まで上げてはいている歳の近い女子高生は眉間にしわを作って薄いスマホを無表情で眺めている。中年の男は険しそうな顔をして黒いカバーの手帳を見返している。白髪を束ねている老人は赤いフレームの老眼鏡をかけて、女子高生とは違う表情をしてスマホを持っている。
それぞれの人が何をしていて、何を思っているのかが、自分の目に映すと見えてくる。
僕は癖なのか、人のことを観察し、都合のいい場所から干渉してしまう。でも、こういう孤立できる空間が好きだ。
この欲求を満たすには選ぶ車両が大切だ。現に、前の車両は最悪の状況にある。近くの高校生だろうか、男女六人が群がっている。そんな車両は都合が悪い。観察していることを気付かれてしまうし、学生のクラスターならその被害も大きくなる。あの人たちはどうせこれから、大きい駅で降りて、店内で洋楽が流れるオシャレなカフェに入って、一杯五百円もするドリンクを飲むのだろう。買ったとはいえ、それに集中せずにライブ配信を始める。時間と空間に飽きたら店を出る。六人の中にカップルが一組はいて、男が女の家まで行く。
たかだか十分の間に、これだけのことを考えていても苦にならない。リピートする曲もこの行為を邪魔しないことに長けたものに絞られていくのだろう。観察した人に過剰な興味を抱いて声をかけるわけでもない。全てが自分の中で生み出され、それはその範囲内でしか動き回らないし、結局は自分に帰ってくる。この行為は何も生まないし、何も奪わない。本人も納得しているから時間も無駄にはならない。
今日もそうだ。都合のいい場所に今日も座れた。
あと一駅で最寄り駅、というところで、同じ制服を着た高校生がドア付近の手すりにもたれかかって参考書を見ていた。それだけなはずなのに、僕にはなぜかおもしろく感じた。食べたことをもみ消すのが難しい上に、心地よく食べることも想像しにくいチョコチップメロンパンをかじっていることは、なんとなく理由ではないと思う。
アナウンスが鳴った。今日は少し、後味が悪い。
彼はまだ降りそうになかった。塾にでも行くのだろう。チョコチップメロンパンはもう食べ終えていて、カバンに雑に押し込まれたゴミははみ出ていた。
後悔に似た感情を抱えて駅のホームに出ると、季節よりもあたたかい風が吹いていて、髪が揺れた。その瞬間だけ、世界は少し明るくなった。
いつものように三時を過ぎていて、改札を通って左にあるセブンイレブンが憎いくらいに存在を主張してくる。そして、赤に負ける。いつもはグミを買うが、今日はアーモンドチョコを買った。わざわざ財布を鞄から取り出すのが面倒だったから、持っていたイコカを使った。
家の最寄り駅に着いたが、家にはまだ帰らない。大通りを抜け、角を曲がり、坂を登る。両側に家が立ち並ぶ住宅街の道を歩く。色は赤、黄、とカラフルだが、どの家も外壁はくすんでいる。時折飼い犬が鳴き、時折野良猫を見つける。一人で行動する野良猫にはなぜか興味がわいて、とうとう後を追って距離を詰めようとする。だが、最後は逃げられる。彼らは僕が追いつけないスピードで走るし、僕が知らないルートを知っている。僕たち人間よりも豊かに生きる術を知っていると思う。それ以前に生きることに対する価値観が人間とは違うと思う。猫は人間よりも視力がかなり悪いらしい。見えている世界がどんなものか気になるし、他に何を補って生きているかも気になる。他人からは笑われるだろうが、僕は彼らを尊敬している。
イヤフォンから音楽を十五分流し終えるといつもの公園に着いた。僕は学校帰り、決まってこの公園に流れ着く。住宅街の一番端にある、ひっそりとした公園だ。まっすぐに伸びた草が砂場にまで広がっている。この草たちが誰かに踏まれ、寝ているのをほとんど見たことがない。鉄棒、ブランコ、ジャングルジム、見慣れた景色に今もいる。ところどころ錆びているが、寂しそうには見えない。
枯葉も座っているベンチで、残っていたアーモンドチョコを食べた。僕はチョコが歯に残ることが嫌いだから、自販機で水を買って、甘い味を感じなくなるまで飲んだ。
街よりも高い場所にあるここからは、フェンスの外に生えている木の間から街を見下ろすことができる。立ち並ぶ建物、真っ黒の道路、動き続ける電車。その全てに人間が存在している。ここにいると、そんな世界から離れることができ、見下ろせる。世界よりも自分の方が上にいる、という優越感に浸ることができる。
おそらくこの時間で、自分、いや、世界と向き合っているのだろう。
僕は又吉直樹の小説を読んだ。又吉のインタビューを聞いていると、たいていはネガティブなものに聞こえる。声のトーン、オーラも、それを際立たせている。日本の首都、東京。又吉はそこでいくつかの作品を創り出した。そして、多くの作品が世間的な評価を受けている。きっと東京という世界は、僕らが思っているよりも、大きくて小さい。これは想像だが、又吉は東京という世界に美しさを感じていると思う。作品からもそれが見える。僕はその生き方とか感じ方が好きだ。読んでいるだけで、少しでも大人になれた気がするのだ。
五十ページほど残していたのを読み終えて、あとがきに触れ始めた時だ。昼間、電車で見た高校生が公園に入ってきた。ポケットに両手を入れていた。薄暗くなる時間だったが僕はその人が彼だと確信した。
僕は鋭すぎる視線を向けてしまっていたかもしれない。彼は目が合うと、遠慮して、引き返そうとした。さっきの野良猫みたいだ、と思って心の中で笑ったが、すぐにどうでもいいことだと気付いた。
「あの!ちょっと話しませんか。」
やってしまった。他人に干渉してしまった。不意に言葉が先に出た。戦の模様を崖の上から見ていたのに、飛び降りてど真ん中に立ったような気分。
「俺と?いいよ」
間がどれだけあったかなんて、認識できない。振り向いた彼は、整った顔をしていた。話しかけたのは自分だが、次の言葉が見つからない。
「名前は?」
彼から話しかけてきた。人付き合いの第一歩としては干からびた質問だが、彼が発すると、重くなく、自然な耳触りだ。
「水野冷。君は?」
自分の名前なんて、中学三年の自己紹介から言ったことがなかった。僕が聞き返したことも、なぜか自然な流れだった。
「冷って、珍しいな。俺は森山朝陽。でー、一年二組。冷は何組?」
「僕は四組。」
「違うクラスだよなぁ。あんまり見たことなかったからさ。部活でもやってないと顔も見ないよな、うちのこーこー」
僕と朝陽が通う高校は県内でも屈指の進学校。それなりに勉強はできたし、頭が良ければ教室も静かだろうと思って受験した。入学してから、かなりハイレベルなところだと分かった。
その中でも、部活をやっているような人達は、遊びたい、という理由が多いだろう。どの部も強豪なんていうほどでもない。サッカー部なんかは、マネージャーとか他の運動部の女子を口説いて部室に連れ込むというのがゴールらしい。朝陽によると、バレー部が一番人気らしい。
それから朝陽とは三十分ぐらい話した気がする。あまり他人と会話をしないから基準もないが、朝陽は理想的なリズムで話を進めてくれる。朝陽はかなり陽気で、向こうは打ち解けている様子だった。この時間で知ったことは、朝陽が好きなジュースがスプライトとペプシコーラで、女のタイプがポニーテールの高身長で髪を巻いている子だということぐらいだ。ほとんど僕は話していないから、それだけで相手を飽きさせないプレゼンを展開する朝陽が話し上手なのも当然のことだ。
気付いたころには日が沈み、公園の電灯が点いていて、夜景と呼んでいいのか分からないような景色に街は色づき始めていた。
朝陽がどういう人間かはあまり関係ないが、少しは何か言っておかないとと思ったから昼間気になったことを言った。
「朝陽はチョコチップメロンパン好きなの?」
お前バカなの?というような顔をした。
「冷、バカなの?」
朝陽は単純らしい。
「さっきの話題と少なくとも同じレベル。どうなの。」
「まあー、好きっちゃ好きだけど。上がいるねー」
「ミルクフランスとか?」
「不正解!」
「チュロス?」
「違うって!」
「じゃあなに?」
「メロンパン。ふつーの」
「はい?」
朝陽は、複雑か、普通から遠いどちらからしい。
「だから、チョコチップメロンパンじゃなくて、普通のメロンパンが好きってこと!」
朝陽がどっちなのか、分かった。
「朝陽は普通じゃないな。」
「そんなことないって。チョコチップがあると、歯に付くからー、あんまり好きじゃない。とは言いつつ、メロンバン自体もぼろぼろ崩れて食べにくいから、ってなるね。」
朝陽とは少しだけ、考えることが似ているようだ。
「まぁ、分かった、ってことにしとく。」
「全部好きだけど!」
そう言って朝陽は電灯の下にある自販機に走って行って、コカコーラと三ツ矢サイダーを買ってきた。
「どっちがいい?」
「朝陽の好きな飲み物は?」
「ペプシコーラとスブライト!」。
「この二つならどっちがいい?」
「あえて三ツ矢サイダーで。」
と言うと笑いながらコカコーラを渡してきた。
「どっちでも、あえて、になるよ。」
朝陽が本当にバカなのか、芝居をしているのかはどうでもよかった。僕はコカコーラの三分の一を流し込んだ。CMみたいな飲みっぷりだと自分で思った。炭酸がきつくて喉に痛みを感じた。久々に飲んだコカコーラは、僕には甘すぎた気がする。
朝陽が飲み終わった後、LINEを交換した。
公園を出ようとした時、「逆上がりできる?」と朝陽が言った。もちろん「できない。」と言った。「俺もできなくてさー」、朝陽もできないらしい。少しの間、男子高校生二人組で逆上がりの練習をした。五回も挑戦しないうちに吐き気がしたから、「帰ろう。」といった。
朝陽は物足りない表情をしていたが諦めてくれた。
別れる時に朝陽は「じゃあ、また!」と言った。「また。」と僕も言った。
あの時間が何を生んだかは分からない。でも僕は、朝陽のことを、嫌いじゃない、と思った。
その後なんとなく公園に戻って、三ツ矢サイダーを買って、飲みながら帰った。
次の日、教室の中は異様にざわついていた。またどっかの二人が付き合ったか、どっかの誰かがやらかして退学になったかだと思って席に着いた。一番端の窓側の席だから、ガラス越しの景色が見やすい。今日は曇っていて、少し寒かった。中庭の木たちはもっと寒いだろう。季節は確かに秋から冬に進もうとしていた。
担任が教室に入ってきた。三十なのか四十なのかも分からないような女の教師だ。顔はいつも曇っているが、今日は一段と暗い。
「今日は皆さんに伝えないといけないことがあります。」。
どうせ…
「二組の森山朝陽さんが、交通事故で亡くなられました。」
僕は何とも思っていないような気がした。何人かの女と、わずかな男は泣いていたが、ほとんどの人は「そうですか。」という顔をしていた。生徒数が多いからかもしれない。僕もそうだった。昨日知り合った人間だ。泣くことはない。その後、教室の空気は混ざり合っていて、もはや異様ではなかった。
僕は変わらず一日を過ごした。
帰りにラーメン屋に行った。会社帰りのサラリーマンで席が埋まり始めていて、カウンター席の一番壁側に座った。油でベトベトしたメニューをめくってチャーハンとニンニク入り餃子を頼んだ。他にも色々あっただろうが、考えるのが面倒になってやめた。汗まみれの店長が太い腕で中華師を振る。金属が擦れる音がする。
汚れた壁に貼られた一枚の白い紙が目に入った。「このスケッチ、誰が描きましたか!」と少し声を張って店長に聞くと、「あーそれ、適当やったから分らんわぁ!」とドスの効いた声で返事が返ってきた。日本語が変だったが、とりあえず分からないということだろう。柔らかく、軽やかに描かれた風景には確かに見覚えがあって、あの公園から見下ろした街に似ていた。出てきたチャーハンと餃子は、似たような味がした。中華ってこんな感じだったかなぁと不思議に思った。「その絵!そっくりだよねぇ!」と店長が言った。記憶が曖昧だったから確かめに行こうかと思ったが、油に酔っている気がして、店長に何も言わずに紙を剥がし、持って帰った。そのスケッチは、メニューみたいにベトベトしていなかった。
数日後、朝陽を殺した人間は酒を飲んでいたことを知った。コンビニの前の交差点で事故に合ったことも知った。朝陽はビニール袋を持っていて、その中には、ペプシコーラとスプライト、アーモンドチョコが入っていたそうだ。
その辺りに、サッカー部のキャプテンが女子バレー部のエースと体育館の倉庫でセックスしていたのが見つかって、両方退学になったことの方がよっぽど学校中のニュースになった。
三週間後の放課後、あれから初めて公園に行った。
木が切り倒されたのだろうか、前よりも街の景色は鮮明に見えた。
スケッチと今見ているものを見比べる。どう見ても、僕には全体の色が明るすぎるように見えて気持ち悪くて、すぐにカバンに入れた。
スマートフォンを取り出して、朝陽とのLINEを開いた。ひとつも見返すものがない。
朝陽と別れた後、何かひとつでも言葉を送っていれば変わっただろうか。あの時、もっと長く話していれば朝陽は生きていただろうか。
他人に干渉しなければよかった。
朝陽には僕が必要ではなかった。あの日の朝、泣いていた人は朝陽のことを想っていたはずだ。そして朝陽には、その人たちを少なからず幸せにすることができた。
やめておけばよかった。やめておこう。
公園から離れた自販機に行って、ペプシコーラとスプライトを買えるだけ買った。
何本飲んでも、体には何も流れてこなかった。
それから二週間ぐらい経って、弁論大会があった。この学校では、希望者だけが発表する。今年も数人が体育館で長々と話す。毎年、つまらない内容のものばかりだ。切り取るテーマはすばらしいかもしれないが、どこか干からびていて、卒業式の校長の話を繰り返し聞いている気分になる。
発表が始まった今も、横の人は最初から寝ているし、前は参考書をでかでかと広げ勉強している。
僕は聞いているふりをして、発表者の首か、無機質な壁を見ていた。
かわいそうだ。ステージにいる彼らには、いくつもの照明が当てられている。聴衆がどんなモチベーションかさえ認識できないように演出されているようだ。
一人ひとりが頭を下げるたびに、「つまらない」、という感想を込めた拍手を浴びせる。それを繰り返す。
「…今、あなたの周りには何人の人がいますか。」
やっと結論まで来た。
「そのうちの何人があなたの味方でしょうか?今の時代は、その数え方さえも分かりません。いじめ、SNS、たくさんのことに苦しみ、命を絶つ人もいます。そんな壊れた世界で、私たちはどうやって生きればいいのでしょうか。単純です。 仲間を増やせばいいのです。私たち人間は、人生というステージを戦うための仲間を探し、関係を築かなければ、豊かな人生を送ることはできないのです。ひとりでは生きていけないのです。ありがとうございました。」
七人目の結論だけがきこえた。
女子生徒がマイクから遠ざかり、頭を下げた。
その時に僕は、彼女がポニーテールの高身長で髪を巻いていることに気付いた。
拍手がどれだけの音量だったかは分からないが、僕は彼女を好きだと思った。
スケッチ やっぱりピンク @kafjx35393
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