約束

このは

第1話


あの青い夏の日。

あなたは私に言ったんだ。

悩みを聞くよ、と立ち寄った、あのかき氷屋で。


もういいよ。よく頑張ったね。じゃあ、いっしょに死のう。


って。

だけど、とあなたは続けたね。


僕には成し遂げたいことが一つある。それが終わったら、いっしょに死のう。

 

 約束したよね。

私はこの時、あなたに希望をもらったの。

 死という希望を。

 いつかじゃない、約束された死という希望を。

 だから私は決めたんだ。


その時まで生きよう。


って。


 まだ覚えている。あの夏の暑い日、話を聞くよ、という彼に連れられて入ったかき氷屋さん。私はイチゴ味、彼はレモン味。話を聞くよと入ったのに、彼は、溶けるから先に食べよう。といって黙々と食べていた。私はというと、頭の中を整理しながらピンクに色づいた氷を口に運んでいた。

 氷の山が見事なくなったところで、彼はまっすぐ私を見て言った。どうしたんだ、と。私は間をおいて、どうして?と返した。いつもと何ら変わりはなかったはずだった。一つを除いて。しかし彼は目ざとくその一つに気付いたようで、今日はいつもと違ったから、と心配そうなまなざしを向けてきた。

 当たりだった。私は言った。

「私、今日あなたに声をかけてもらえてなかったら、死んでいたと思うの。」

 と。彼はかすれた声で、なんで、と問うてきた。

 私は語った。ただ、生きたくないのだと。死にたい理由が明白にあるわけではない。いじめられているだとか、虐待を受けているだとか、そういうのではない。ただ、生きる理由がないのだと。誰かに必要とされているわけでもなく、何か成し遂げたいことがあるわけでもない。生きていく目的が、希望がないのだと。けれど死ぬ勇気がないのだと。途中からは泣きながら語った。

 そんな私に彼は言った。

「わかった。もういいよ。よく頑張ったね。じゃあ、いっしょに死のう。」

 私はびっくりした。流れていた涙も止まった。そんな私をおいて、彼はだけど、続けた。

「僕には一つだけ、どうしても成し遂げたいことがあるんだ。それができれば僕は何の未練もない。君が待ってくれるというなら、そのあと、いっしょに死のう。」

 私はすぐさま頷いた。待つ、と何度も繰り返した。

 この時、彼は私の人生において、希望になった。

 私が落ち着いたのを見計らってか、彼は切り出した。

「手始めに、僕と付き合ってよ。」

 私は、何の手始めなの?と笑いながら、いいよ、と返事をした。彼のことは普通に好きだったし、何より彼は今日この瞬間、私の希望になったのだ。断る理由なんてない。

え、ほんとに?と嬉しそうな彼を眺めていると、彼はふと真面目な顔でねえ、と、まっすぐ私を見た。

「一つ約束してほしいんだけどいいかな……?」

 何だろうと思いながら、なあに?と問い返す。彼は今日一番真剣な顔をしていた。

「僕と付き合ってる間は、勝手に死んだら許さないからね。」

 あまりにも真剣に言うものだから笑ってしまって、そんなこと、と言ってしまうと、彼は約束して、と迫ってくる。

 私はもちろんだよ、と、机の上にあった彼の手を握って言った。

「あなたは私の希望になったの。今日、今。だから、決めたよ。あなたが死のうって言うまで、私は生きるって。」

 彼は一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに照れたように、ありがとう、と言った。

「君の残りの人生、僕が七色にしてみせるよ。」

 彼は冗談めかしてそういった。


 あの日から、私の人生は一変したといっても過言ではなかった。

 毎日学校に行くとおはよう、と言ってくれる人がいる。お昼を一緒に食べる人がいる。私は一人なんだ、と思うこともなくなった。たとえそのとき一人でいたとしても、心の奥底には必ず彼がいる。

死にたいと思うことなんてあるわけもなかった。なんで生きているのだろうなんて思うこともなかったし、あったとしても、それは彼のためだ。私は彼のために生きている。それが心の支えだった。

 高校を卒業して、私は専門学校に進学することになった。彼もまた違う学校に進学した。私の行った学校は、全寮制で土日だけ家に帰るという仕組みだった。彼は一人暮らしを始めた。私は週末のたびに彼の家に行っていた。卒業する少し前に彼は私の両親に挨拶をしてくれていて許可が出ていたので、頻繁に彼の家に泊まっていた。


「お互い卒業したら一緒に暮らそう。」

 彼は一人暮らしを始めてすぐそう言った。私はうん、と即答した。彼が私との将来を考えていることが正直に嬉しかった。


「結婚しよう。」

 付き合い始めて四年、一緒に暮らし始めて二年たった記念の日、彼は夕飯にケーキを買ってきてくれた。それだけでも嬉しかったのに、さらにサプライズのプロポーズ。驚きと溢れるほどの嬉しさで、私はしゃべれないほど泣いてしまった。彼にはとても心配された。落ち着くまで背中を撫でてくれて、頭を撫でてくれて、落ち着いたら今度は返事にそわそわしていた。そんな忙しなくも優しい彼に、私が断るとでも思っているのかなといたずら心が湧いた私は、じっと見つめたあと、彼に飛びついた。驚いている彼に、結婚しよう!と叫んだ。そして私たちは籍を入れた。


「遅れてごめん!大丈夫か?」

 一人目の子供を産んだ日。彼は仕事が思うように抜けられなかったようで、生まれてしばらくしてから、それでも、息を切らしてきてくれた。

「大丈夫だよ。ほら見て?あなたに似た、かわいい女の子だよ。」

 僕に似てってどういうこと?と不可解そうに言いながらも、子供を見る彼の眼は幸せそうだった。


「ほら!おじいちゃんとおばあちゃんだよー。」

 三人いる子供の中で、一番に結婚して子供が生まれたのは三番目の女の子だった。姉よりも兄よりも先だったものだから、上二人は危機感を覚えていたようだった。そんな彼女らに私たちは、自分のペースでいいんだからね、と言い聞かしていた。


「おじいちゃん、おばあちゃん!こーんにーちはー!」

 孫は総勢八人。女の子五人に男の子三人。お正月やお盆には全員集まって宴会やお墓参りをしていた。おばあちゃん遊ぼ!と寄ってくる孫たちは自分たちの子供たちとはまた違うかわいさで、甘やかしそうになっては子供に怒られていた。それは彼も一緒だったようで、彼もまたよく子供たちに怒られていた。



「なんて言っていた?」

「余命半年ぐらいだろうって……」

 彼はひ孫の顔を見たくらいの時、病気にかかった。もうこの年齢では当然ながくない。彼は病院のベッドに横たわり、何かに思いをはせるように窓の外を眺める。

 しばらく一緒に外を眺めていた。窓からは少し遠くに海が見えた。今日は快晴だ。

 ふと、彼と約束したあの日が脳裏をよぎった。

 あれはいつだったかと無意識に思い出そうとしたその時、彼は言った。

「なあ。君は今、幸せか?」

 と。昔と変わらない、まっすぐな瞳で彼は私を見ている。

「もちろん。孫だけじゃなくてひ孫の顔も見られるなんて思ってもなかったもの。」

 どうして?と聞き返すと、彼はほっとしたような顔でじゃあ、と懐かしいセリフを言った。

「じゃあ、一緒に死ぬか?」

 聞こえた声を頭が理解したとたん、静かに涙が流れた。

 ずっとこの瞬間を待って生きてきた。そうだった。

 彼がくれた毎日はあまりにも幸せで、思い返せばあっという間だった。

「やめとくか?」

 返事をしない私に、彼はゆっくりと聞いてくれる。でもそうではない。

「いいえ。やっと約束をかなえてくれるのね。」

 ふわっと笑う彼に、年を取ったなあと思いながら、ねえ、と私は続ける。

「あなたが成し遂げたかったことって何なの?」

 彼はまた外を眺めて少し考えるそぶりを見せた後、内緒だ。といたずらっ子のような笑顔を向けてきた。


 私たちは二人で散歩をするといって病院を抜け出し、海に向かった。

 今日は真夏日だという。照りつける太陽光が夏を体感させる。

 岬に着くころには夕方になっていた。

 夕日が沈む水平線を目の前に私たちは抱き合った。

「ありがとう。私に幸せな人生をくれて、ありがとう。」

 ああ。と彼はもう力も入らないだろう腕で、私を抱き寄せる。

「じゃあ行くか。」

「ええ。」


 私たちは約束を果たすことができた。

高校生の時の約束は、果たされるまでに六十年の月日がかかったのだった。


あの青い夏の日。

あなたは私に言ったんだ。

悩みを聞くよ、と立ち寄った、あのかき氷屋で。


もういいよ。よく頑張ったね。じゃあ、いっしょに死のう。


って。

だけど、とあなたは続けたね。


僕には成し遂げたいことが一つある。それが終わったら、いっしょに死のう。

 

 約束したよね。

私はこの時、あなたに希望をもらったの。

 死という希望を。

 いつかじゃない、約束された死という希望を。

 だから私は決めたんだ。


その時まで生きよう。


って。


でも、こんなに長い約束になるなんて思ってもなかったよ。


ありがとう。

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