第39話 0番目かもしれない
湊寿也は、思っている。
俺は少々、調子に乗りすぎていたようだ――と。
つい先日見た悪夢は、自分を
このままいけば、多くのものを失うと無意識に自分で自分に警告していたのではないかと。
あの夜、玄関ドアの前で寝ていた朝日奈ひかり――ひぃなを家の中に入れてしまった。
ガラにもなくお姫様抱っこなどして、ひぃなを自分のベッドへと運び込んだ。
いや、ひぃなはなにも悪くないし、もちろん彼女にはなんの悪意もなかった。
そのことを湊はよくわかっている。
ただ、自分がやりすぎていたというだけだと。
そして、もう一つわかっていることがある。
今の自分の状況は、決して夢ではないということも。
「トシヤ」
「……梓」
放課後、教室を出て昇降口に向かっていると。
後ろから声をかけられ、振り向くとそこには――
「なんか、話すの久しぶりだよね?」
「そうだったかな」
梓は早足で湊の隣まで来て、並んで歩いて行く。
セミロングの茶髪、ベージュのセーター。
ミニスカートの下には黒のニーソックス。
すらりとしていて、悪くないスタイルだ。
胸はおそらくGでもHでもなく、Dにすら届いていないだろうが。
「2年も同じクラスになったのにね。元気……じゃなかったっけ」
「いや、元気は元気だろ」
「まだ包帯取れてないのに?」
「……もう痛くないのに、医者がまだ取るなっつってるんだよ」
梓が指差した、包帯が巻かれた左手首を持ち上げて湊は苦笑する。
「お医者さんがまだって言ったらまだでしょ。ウチのお父さんも具合悪くてもお医者さんの言うこと聞かなくてさ。出された薬は飲み切れって言われたのに、もう治ったとか言って勝手に飲むのやめたらあとでえらいことに」
「わかった、わかった。別に勝手に包帯取ったりしねぇって」
梓は、どうやら心配性らしい。
湊は彼女のそんな性格を初めて知った。
俺はそんなことも知らずに梓に告ったのか、と我ながら情けなくなる。
「特に男の子は自分の身体を過信してるからね。若いからって無茶するヤツばっか」
「おまえ、中身はおばさんなのか?」
「なんとでも言って。トシヤ、ケガのこともそうだけど、他にも無茶なことしてない? 何事もほどほどにしとくもんだよ」
「梓、本当に世話焼きだな、おまえ……」
実はつい先日まで毎日のように、二ケタ回数ヤりまくってました、なんて言ったら目を剥いて怒り出しそうだ。
もちろん、そんなことを梓に白状するはずもないが。
「つーか、梓も知ってるだろ。俺は無茶するタイプじゃないし。この前の中間テストだって、たいして勉強しなかったし」
「そこは少しは頑張りなよ」
「どっちなんだよ、無茶するなとか頑張れとか」
「少しくらいは頑張ったっていいんだよ。トシヤはやればできるタイプでしょ」
「おばさんじゃなくて、オカンか? おまえ、褒めて伸ばすタイプか?」
「だから、なんとでも言って。ママだろうと――って、ごめん……」
「ん? なにを謝って……ああ、別にどうでもいいよ」
湊は思わず苦笑する。
確か、梓には父子家庭であると話したことがあった。
梓は、母親のような口ぶりで話したことを申し訳なく思ったのだろう。
普通、そんなことまで気にしないだろうに。
「ま、俺はそこそこ勉強すりゃ、そこそこの成績取れるし、それで充分だよ」
「トシヤってけっこう余裕で生きてるよね。なんか浮世離れしてる感じ」
「初めて言われたな、そんなこと」
湊は苦笑する。
「俺なんて、全然普通のヤツだろ。良くもないけど、悪くもない――くらいのポジションだな、いつも」
「ふーん……」
梓はなにやら納得していない様子だが、それ以上突っ込んでこなかった。
二人は靴をはきかえ、並んで校門をくぐって外に出た。
こいつ、どこまでついてくるんだろう?
湊は内心で首を傾げつつも、まさか「ついて来るな」とは言えない。
梓琴音は、一年生の夏まではクラスで一番仲が良いクラスメイトだったのだから。
「そうそう、トシヤ。手が使えないなら不便だったんじゃない?」
「その話題に戻んのか。軽くひねっただけだったが、最初の何日かは全然すげー痛かったからなあ」
「階段から落っこちて、手をついちゃったんだっけ。つーか、階段から落ちるってねえ」
「悪かったな、絵の描いたようなドジで」
階段から落ちたのは、本当のことだ。
別に誰かに突き落とされたわけではなく、急ぎすぎたせいで足を踏み外しただけ。
事件性は皆無だ。
「利き手じゃなかったからまだマシだったが、顔を洗うのも一苦労だったな。頭を洗うのなんてもっとだった」
「あはは、言ってくれたら、私が洗ってあげたのに」
「顔洗いプレイとか、マニアックだな」
「頭だよ、頭! 人の顔ってどうやって洗うの? 洗面所じゃ不可能じゃない?」
「確かに、地味に難しそうだな……」
人間、意外に日常生活で両手を使っているものだ。
湊はこの数日でそのことを実感している。
「スマホも片手じゃけっこう使いにくかったしな。でかいスマホは見やすくていいけど、こういう場合は考え物だな」
「リングつけたら? けっこう片手でなんとかなるよ?」
「あれ、邪魔くさくて嫌いなんだよな」
「わがままだなあ、トシヤ。つーか、さっき私が頭洗ってあげるっていうのスルーしやがったね」
「ちっ、見逃さないな。なんだ、梓がウチに来てお世話してくれんのか?」
「お風呂はともかく、軽い手伝いくらいはしてあげたのに。基本、一人暮らしみたいなもんとか昔言ってたよね?」
「よく覚えてんな、そんなの。明日、病院に行って、そこで包帯取れるらしいからな。しまった、梓に世話してもらえるチャンスを逃したか」
「ねえ、トシヤ。友達を変なことに利用しようとしてない?」
「……とんでもないですよ、梓さん」
友達――
そうか、梓のほうは俺のことを友達だと思ってくれているのか。
嬉しいような、そうでもないような複雑な気持ちだった。
湊のほうは最初から梓を友達ではなく、気になる女子として見ていた。
今でも自分が梓を友達と思っているか、確信はない。
「つーかさ、梓」
「なに?」
「なんでいきなり俺に話しかけてきたんだ?」
「……いきなり話さなくなったのは、トシヤだと思うけど?」
「ああ、そのとおりだな……」
梓を“五番手扱い”した上に、告って玉砕した直後。
梓のほうは普通に接してくれたのに、湊は彼女とまともに顔を合わせることもできなかった。
そうこうしているうちに――
『ごめん、湊くん。今日、ちょっと時間ある?』
ミルクティー色の髪をした、陽キャの女王が湊に話しかけてきて。
そこから湊の周辺は大きく変わっていき――
湊が梓を意識したのは、文化祭でのコスプレ喫茶のときくらいだった。
「まー、私なんて葉月さんとか瀬里奈さんとかに比べれば凡人ですから。陽キャのリーダーでもないし、お嬢様でもないし……可愛くもないし?」
「まあな」
「おい、フォローしろや」
ごすっ、と梓が湊の肩をグーで殴ってくる。
意外に重たい一撃だった。
もちろん、梓も湊が冗談を言ったことは承知しているだろう。
「これでも、お祖父ちゃんお祖母ちゃんには可愛い可愛いって言われてきたのに」
「一番甘い人たちの評価を引っ張り出すな」
とはいうものの、梓は一般的には充分可愛いだろう。
クラスで五番手――失礼極まる評価だが、1年生時のクラスの1、2位があまりに強すぎた。
あの二人は、アイドルの総選挙でも1、2位を争えるレベルなのだから。
「葉月と瀬里奈がいなけりゃ、梓はクラスのトップ3に入ってただろ」
「な、なに急に?」
「すまん」
「こ、今度は謝ってきた? なにがなにが?」
「ちょっと失礼なんだが……梓に言っておきたい。俺がスッキリするために」
「……まあ、なんでもいいけど。言ってみ?」
「梓のこと、クラスで――五番目に可愛いって思ってた」
「えっ!」
梓が、ぴょんと跳び上がりそうな勢いで驚いている。
彼女が足を止めたので、湊も立ち止まる。
「えっ、私って……そんな可愛いわけ?」
年収の低さに驚く女性のようなポーズで、きょとんとしている。
「……今の、怒るところじゃねぇの?」
「は? なんで?」
「い、いや、五番目とか勝手に評価するとか失礼にもほどがあるだろ?」
「女子だって男子のランク付けくらい、普通にするよ?」
「へぇ……」
「そりゃ、『十二位』とかあだ名つけられたらブチ切れるだろうけど、知らないとこでランク決められるくらいで怒るわけないって」
「……そういうもんか」
「まあ、こんだけ仲良くしてる私を五番にランク付けした野郎には言いたいことあるけど」
「怒ってるんじゃねぇか!?」
「冗談。私だって、自分がクラスでトップ5とかそんな図々しいことは思ってなかったし」
「…………」
湊から見れば、別にトップ5以内と思うくらいなら図々しくないと思える。
以前、梓は中学時代にしょっちゅう告られていたという話も聞いている。
「でも、トシヤ。何番目だろうが、可愛いとは思ってたんだ?」
「……口が滑った。やっぱ、今のは忘れてくれ」
「えー、もうちょっと聞きたいな」
「あのなあ。だいたい、可愛いと思ってなけりゃ――」
また口を滑らせそうになって、湊は黙り込んだ。
いくら向こうが友達と思ってくれていても、言えることと言えないことがある。
「ねえ、トシヤ」
「…………」
梓は、道沿いのフェンスにもたれて意味ありげな視線を向けてくる。
「……あのときのこと、気にしてるの?」
「繊細なんだよ、こう見えてもな」
もちろん、湊の告白のことを言っているのだろう。
それくらい、瞬時に察しがつく。
「トシヤが繊細なのはわかってるよ。だから、いつもどおりに接したほうがいいかと思ったけど……逆効果だった?」
「俺が繊細すぎただけだろうな、梓が思ってた以上に」
または、打たれ弱かったとも言う。
いや、告白をなかったことにしてくれた梓の気遣いに応えられないくらい、無神経だったと言うべきか。
「梓、一つだけ変なことを頼んでいいか?」
「私は凡人だから、変なことを頼まれても上手くボケられないな」
「フリじゃねぇんだよ。それで、いいか?」
「ま、話を聞くだけならね」
「頼んでも怒らないか?」
「頼まれたくらいでキレないよ。あんまりしつこく念押しされると、そっちでキレそう」
「……パンツ見せてもらえるか?」
「頭おかしいの、トシヤ?」
梓はフェンスにもたれたまま、軽く足を上げて湊の太ももを蹴ってきた。
スカートの裾が乱れて、白い太ももが一瞬見えてしまった。
「あのねえ、なんで友達がパンツ見せるんだよ?」
「……だよな」
至極まっとうなことを言われて、湊は苦笑する。
湊の神経は麻痺したまま、未だに治っていないようだ。
「だいたい、私に頼まなくてもいいでしょ」
「……なんだ、梓も知ってんのか」
「そりゃあね。トシヤ、気づいてないの? けっこう話題になってるよ」
梓はスカートの裾を直しながら、うつむいて――
「トシヤ、付き合ってるんでしょ――瀬里奈さんと」
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