『色彩』

 絵を描く時のリンドウは、この世で一番静かだった。

 あんなに朗らかに笑い、大きな声で話しかけてくる陽気な男は、筆を持つと途端に姿を消し、何よりもまっすぐに被写体である俺とメリアに向き合った。

 いくら本気とはいえ、知り合い二人とじっと目が合えば表情の一つくらい変わりそうなものだ。むしろ俺は、初めはリンドウと数秒目が合う度に妙な緊張を感じた。隣で上品に腰掛けているメリアも同じなのだろう、時たま微かに口角を上げている。


 ただ、リンドウだけは一度も表情が動くことは無かった。睨みつけるような、透かして見るような感覚。彼が見ているのは、目の前の俺たちでありながら、もっと違う何かを捉えようとしているように思えた。

 動かないようにしている時に限って、顔の周りが痒くなったり鼻がむずむずしたりしてしまうのは何故なのだろうか。俺もメリアも、幾度となく手を動かしたりしてしまうが、リンドウは一度も動くなとは言わない。ただ、何度もキャンバスと俺たちの間を、その視線が行き来した。


「…………よし」

 リンドウが呟いた。そして、また茂みの中から何か引きずり出した。

 ひとつは、長方形の箱。茶色い上品な皮で加工された箱は、片手で持ちやすいよう上の方に、漆が塗られた黒い小さな取っ手が付いていた。それを開けると、中から無数の絵具が顔を出す。そよ風に乗って香る匂いからして、油絵具だろうか。鼻の奥をツンと差すような香りがした。

 そして、もう一つは木製のパレットだ。元々の色が何色だったか推測するのは不可能なくらい、使い込まれて色鮮やかになっていた。いくつもの絵具が混ざった色が、パレットの上に水面を描くように歪んだ模様を現している。パレットは凹みのある丸い形をしており、一か所だけ親指用の小さな穴が空いていた。凹みの部分に腕を当て支えるらしい。

 画材を構える姿は、有名な画廊の一人だと紹介されたら信じてしまうくらいに完成された立ち居振る舞いだった。リンドウの人生のうち、どれほど長い時間を芸術に注いできたのか、想像が追い付くことはないのだろう。


 リンドウはそのパレットの淵側に、白黒から始まり様々な色を並べ始めた。適当に並べるのではなく、寒色である藍色から始まり、徐々に明るみを帯びた色を並べ、最後に赤の原色を出した。色の種類にしてざっと十五種類。色相環に準ずる並べ方は、意識的なのだろうか。


「沢山の色を使うんだな」

 キャンバスに筆を構えて寸法を測っているリンドウに、つい話しかけてしまった。

 彼の芸術家たる行動の全てが、俺にはあまりに興味深過ぎた。隣でメリアが注意するような表情を浮かべている。

「あぁ」

 リンドウは、口元だけを動かして答えてくれた。

「全ての色を使うわけではない。でも、使うかもしれないからね」

「でも、それだと勿体なくないか?」

「色を制限して絵を貧しくする方が、僕にとっては勿体ないんだ」

 筆が絵具をからめとり、パレットの上で色を作っていく。色と色が混ざり、パレットの上の色彩はいよいよ際限なくなっていくのだ。

「まぁ、色をわざと制限して表現する絵もあるんだけどね」

 

 淡い青色の絵具を纏った筆が、真っ白なキャンバスに降り立った。俺の方からは裏になっていて何も見えない。それでも、筆がキャンバスの上を踊る様だけは腕の動きから見ることができた。

 波間のように、点を打つように、叩きつけるように。

 様々な技法を駆使したペイントが始まった。

 キャンバスに描き出すまでに二十分はかかったと思う。しかし、描き出してからのスピードは目を見張るほどに迷いのないものだった。まるで、何度も練習してきた絵を模写しているのかと思うくらいに、こちらを見なくなった。

「そうだ、もうポーズは変えていいよ。ありがとう」

 筆を動かしながらリンドウが言った。そこでやっと、肩が凝りかけた体を脱力してリラックスできた。メリアも、腕を伸ばして深呼吸していた。


「凄いわね、彼」

 メリアも呟く。同じことを感じていて、嬉しかった。

「正直、一時間で絵を描くなんて無理だと思ってたんだけど、彼なら出来そう」

 メリアが椅子に腰かけたまま足を組み、前のめりになる。

「しかも素敵な作品をね」

「そりゃモデルが素敵だからな」

「あら、お世辞が言えるようになったのね」

「すまん。俺のことだ。まぁ、メリアも比較的に素敵なモデルだと思うぞ」

「サンにお願いして廃棄してもらおうかしら」

 さっきまで綺麗に微笑んでいた笑顔のまま、瞳にだけ炎のような怒りを浮かべていた。器用なもんだ。


 それから十五分。

 遠くで鳴く鳥の声と、大通りから零れた人々の声、そしてキャンバスに筆が擦れる音だけが響いていた。いくら動いていいと言われたからといってやることもないし、話しかけるのも気が引ける。メリアも少し気まずそうに空を見上げたり、暇になったのか俺に小さな石を指で弾いたりしていた。

 

 そろそろ時間の潰し方もネタが尽きてきた頃、遠くから小さな足音が近づいてくるのに気付いた。何もやることが無かったので、集中してその音を辿ることにした。メリアには聞こえていないであろう小さな足音は、不自然なリズムをとりながらこの空き地に近づいてくる。


 そして、辿り着いた。

「あら、今日はリンドウさんの個展の日だと思ったんだけど、珍しく先客がいる~」

 足音の主は、小柄な女性だった。

 一言でいえば、ほんわかとした女性。桃色に近い淡い赤色のフード付きローブを身に纏い、風で揺らしていた。フードは外しており、耳が出るボブカットな茶髪が鮮やかに輝いている。右の耳にだけ着いた真珠のピアスが一瞬太陽光を反射した。


 一見、どこにでもいそうな人だが、一か所だけ異質な部分があった。

 女性は、真っ白な杖をついていた。足音のリズムが不自然なのはこれが原因らしい。

 足に不自由は見受けられないし、あの杖の色。彼女は視覚障害者のようだ。


 こちらに用があるようだし、エスコートでもしようかと思った矢先、物凄い勢いでメリアが女性に向かって駆け出した。

「デュランタ!」

「あら、その声はメリアじゃない!」

 女性に抱き着いたメリアを、大きなローブで包み込むように抱き留めた。身長はメリアの方が高いため、女性が背伸びをする形になる。

「なんだ、知り合いなのか?」

「うん。今朝言ってた、小説をくれた友達よ」

「どうも~」

 メリアを抱きしめながら、俺の方へ小さく手を振った。見た目の通り、性格もおっとりとした女性らしい。

 メリアの手をとって空き地に入り、さっきまでメリアが座っていた椅子に腰かけた。

「こんなところでメリアと会うなんて初めてじゃない?」

「えぇ、私もここで絵を見るのは初めてだから。今日はちょっと、縁があってね」

「そうなんだ~。私は逆によく来るよ。リンドウさんの絵が好きなんだ」

 にこやかに首を揺らしながら答えたデュランタは、まるで見えているかのように、俺の方に体を向けた。


「あなたは、初めて聞く声ですね」

「あぁ、最近メリアの所で世話になっている、プロトだ。よろしく」

「プロトさんですね。宜しくお願いします~。最近引っ越してきたのですか?」

「いや、最近完成したアンドロイドだ。今はメリアの家に住んでいる」

「え……」

 いきなり言葉を失ったデュランタは、そのままメリアに向き合った。

「メリア……あなたにも素敵な人が出来たのね……!」

「ごめんデュランタ、あなたが考えているのは、きっと的外れだと思うから」

 額に手を当てて答えるメリアを他所に、デュランタはニヤッと笑った。

「うんうん、そうなんだね~。大変そうだね、二人とも」

 何か自己完結した勘違いをしているデュランタは、何度も噛みしめるように頷いた。まぁ、アンドロイドとはいえ男女が一つ屋根の下に住んでるとなれば、そんな風にも見えなくはないだろう。そう思われるのにも慣れてきた。

「忘れちゃいかんが、あの家にはカリメロっていう喧しいメイドも住んでるからな」

「なるほど、三角関係か……」

 さすが小説を書くだけはある。想像力の豊かな頭をお持ちだ。

「ねぇメリア、次に書く小説の題材にしてもいい?」

「私は絶対に読まないからね」

 完全に振り回されているメリアは、少し疲れたように肩を竦めた。

「私達のことよりも、自分のことを書けばいいじゃない。デュランタと彼氏さんとの馴れ初めなんて、凄くドラマっぽいと思うけど」

「それは……恥ずかしいから……ダメ、かな」

 デュランタは自分のローブのように頬を赤らめ、それを隠すようにフードを被ってしまった。初々しいな。


「そ、そんなことより、私の自己紹介をまだプロトさんにしてなかったよね。私は、デュランタ。今は趣味の一環だけど、いつか小説家だって名乗れるように頑張ってる卵です。自信作をメリアにプレゼントしてるから、良かったら読んで見てください」

「あ、あぁ、あれね」

 なんというか、不思議な世界観を持っている作品だなとは思っていた。まさか著者の目が不自由だとは思わなかったが、あの尋常じゃない色相感覚はむしろ納得させられる。数行だけ読んで断念したが、一通り読むのも時間があればしてみようか。


「リンドウさんの声が聞こえないってことは、今何か描いてるの?」

「そうなの。私達を描いてくれてるんだよ。楽しみ!」

「リンドウさんの絵、私も好きなんだ~。見えないけど、素敵な絵なんだろうなって感じるの」

 自分の指先を慈しむように見つめるデュランタ。

「作品に触れながら、どんなものを描いたのか、何を考えて描いたのかを聞くのが好きなの。その世界に触れるのがね」


 絵を視覚以外で味わう方法を俺は知らない。それを可能にしているのは、類い稀なる微細な感性を持ち合わせているデュランタならではの感覚なのだろう。元から持っているものなのか、目が見えないことによる後天的な感覚なのか。どちらにせよ、俺には到底及べない高みである。


「デュランタは、目が見えるようになりたいとは思わないのか? 昔なら露知らず、現代の科学なら義眼もそう手の届かないものではないだろう。副作用の心配もなく、視力を手に入れる手術だってある。そういうのはしないのか?」

「しないよ」

 即答だった。

「これが私だもん。不便に思うこともあるけど、おかげで良い方向に転がることもあるんだから。見えない景色が見えている私は、この私を結構誇りに思ってるのよ」

「てか、目が見えないことが彼氏さんとの出会いの一つだったもんね」

「そういうのは黙っててくれないかな、メリア?」

 横からヤジを飛ばしたメリアの頬を詰まんで、餅のように横に縦にと引っ張る。

「ご、ごめんなひゃい……」

「うん、よろしい」

 デュランタから解放されたメリアは、頬をさすりながら俺の後ろへと非難した。

「うぅ……鼻を摘ままれたり、頬を摘ままれたり、今日は災難な日だわ……」

「あっはっは、どんまい」

「鼻はプロトがしたんでしょうが。何を他人事のように!」

 軽く耳を引っ張られた。また鼻をつまんでやろうかな。


「よし、出来た!!」


 突然リンドウが声を張り上げた。あまりにいきなりの事で、俺たちは三人とも一瞬体をこわばらせてる。

「あれ? デュランタさんも来てたんだ! ごめんね、全然気づかなくて」

 絵を描き終えて集中から解放されたリンドウは、普段の満面の笑みでデュランタに握手しようと近づいた。それに気付いたデュランタも立ち上がった。

「おっと、そうだった」

 リンドウは手に付いた絵具を服で擦り、可能な限り落とした。そして匂いを確かめて、苦笑いした。

「ちょっと絵具の臭いが強いな。申し訳ないけど、今日の挨拶の握手は省略しよう」

「いえ、その手が私は好きなんです」

 デュランタは、半ば強引にリンドウの手を掴み、力強く握った。もう動作が完全に目が見えている人のそれである。

「何かを生み出す人は素晴らしい。その手が汚いなんて思いませんよ。むしろ美しいです」

 ぶんぶんと振られる手をされるがままにしながら、リンドウは恥ずかしそうに微笑んだ。

「あはは、今日は彼氏くんの何とも言えない視線が無いから良いけど、それでもまだ慣れないなぁ」

「良かったじゃねぇか。リンドウの絵のファンってことよ」

「僕の絵も喜んでるよ」

 ニコニコと手を離したリンドウは、立てかけられたままのキャンバスを指さし、これでもかと胸を張った。

「この、たった今誕生した力作がね!」

「もう見ていいのか?」

「勿論!」


 誰よりも先に、メリアが俺の腕を引きながらキャンバスの前に向かった。遅れて、デュランタがリンドウに先導されながら絵の前に来た。


 キャンバスに描かれていたのは、紛れもなく俺とメリアだった。

 二人とも座っていたはずだが、描かれた俺は正面で右足を前にして立っていた。そして後ろにメリアがいて、俺の左手を後ろから両手で掴んでる。しかも背景は空き地ではなく、まるで暗い室内を蝋燭だけで照らしたような、そんな場所だ。なんとも不思議な構図である。身に着けている服装は今のままだが、それ以外は何もかもが違っていた。


「君たちを見ていると、二人で支え合っている姿が見えたんだ。プロトくんがお嬢さんを守りながらも、しっかりお嬢さんに守られている姿がね。まぁ、あくまで僕が感じた姿だから、もし違ったりしていても御愛嬌ってことで。そして、闇を照らすのは君たち自身だ。君たちには、明るい未来より、明るく照らした未来の方が鮮明に見えたんだよね」


 絵の説明を聞きながら、俺はただ頷くことしか出来なかった。

 ただの絵のはずなのに、引き込まれていく感覚。自分がモデルだからという理由ではない。もっと深い所にある引力がそうさせる。

 この感覚は、レストランの三階に飾られてある巨大な女の絵を見た時と似ていた。

 あの絵の作者がリンドウだったとしても驚かないだろう。それどころか、納得してしまうまである。だが、年代的にそれはありえない。


「凄い! これ、買っても良い?」

「いやいや、お礼なんだからプレゼントするよ! ただ、乾かしたり処理したりしないといけないから、今すぐには渡せないけどね」


 メリアとリンドウが話をしていた。

 俺は一先ず、興奮冷めやらぬメリアの頭に手を置き、落ち着かせることにする。今は、目の前の素晴らしい絵画に集中しようじゃないか。

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