5-4.

 ジョンは譫言うわごとを絶えず口から発しながら、街の中を闇雲に走り続けた。

 彼の頭の中を巡るのは、ジャネットの涙、言葉、表情――。繰り返し繰り返し、彼を責め立てるように、彼女の姿が浮かび続ける。

「糞ッ、糞ッ、糞ッ、糞……ッ」

 口をつく罵倒は全て自分に向けられていた。ジャネットを泣かせてしまう、不甲斐ない自分に向けられた言葉だった。彼女にあんな言葉を吐かせてしまった、情けない自分に向けられた罪悪感から零れる言葉。


 ジャネットはあんなことを言う人間じゃない。例え頭の中にそんな言葉が浮かんでも、口には出さない。言葉には――、形にはしない。自分の中で馬鹿げた考えだと打ち消してしまう。彼女は利口で、酷く真面目だ。正しいモノとそうでないモノの違いくらい、誰に言われるまでもなく彼女自身が判断出来る。


 足が疲労で動かなくなるまで走り続けたジョンは空を見上げ、人気のない路地の真ん中で立ち尽くした。

「嗚呼――、糞ッ、糞ッ、糞ッ、糞……ッ」

 息が出来ない。いや、お前なんていっそこのまま窒息して死ねばいい――。ジョンがそう自分を呪い始めた頃、ヴィクターが彼に追い付いた。汗だくのまま地面に倒れ伏し、死体のように転がった。

「キ、キミ……ッ。いい加減にしろよ……! なんだってボクが、こんな汗塗れになるまで走らなければならないんだ……!」

 ジョンを呪っているのは、彼自身だけではなく、ヴィクターも同じだった。かなり利己的な理由ではあるが。

「お前……、なんでいるんだよ」

「キミを、追いかけた、からに、決まって、いるだろう……!」


 しばらくの間、二人は互いに息を整えることに専念した。やがてジョンは汗で冷えた体に、ヴィクターから受け取ったコートを羽織った。

「……僕は、最低な奴だな」

 ボソッと、ジョンは宙空を見上げてそう呟いた。ヴィクターは彼の背中を見詰めながら、いつも通りの軽口を叩いて見せる。

「今頃気付いたのかい? 全くキミは自己認識が甘いなあ――」

 しかし、ジョンからの返答は乾いた笑い声だけだった。肩透かしを喰らったヴィクターは「これは相当だぞ……」と、口の中で呟いた。

 あのジョンがボクの軽口に食ってかからないだなんて……、前代未聞もいいところだ。ジェーンのあの言葉が、彼にそれほどまでに深く突き刺さったのか。


 ――「父さんとジェーンを奪った癖に……」。思い返すだけで胸が苦しくなる。その言葉を吐いたジャネットと、それを受けたジョン。二人が互いに苦しむだけの、禁忌に近い言葉だった。

 それは言ってはいけないよ、ジャネット。ヴィクターは重く息を吐いた。しかしジェーン、ワトソン、シャーロックを襲った悲劇は、ジョンの所為ではないとは言い切れない。あの三人はジョンを庇い、そして命を奪われた。そしてその時の出来事を、当の本人であるジョン自身が良く覚えていないと言う。ジャネットの気持ちを考えれば、「ふざけるな」と憤ったとしても、誰もが「仕方ない」と頷くだろう。

 けれど、ジャネットはそうしなかった。だから、彼女だって分かっている筈だ、ジョンを憎むべきではないのだと。でも、それでも――、溢れてしまったあの言葉。

 ボクは甘かったんだ。ヴィクターは今更になって悔やむ。ジョンとジャネットの姿を長い間見ていた癖に――、いや見てきたからこそ、二人なら家族の死からでもすぐに立ち直ると信じ込んでいた。しかし、実際はどうだ。二人とも泥沼のような悔恨と悲壮に打ちひしがれているじゃないか。ボクは医者であり、何より二人の友人を名乗りたいのなら、手を取り、肩を取り、隣に立つべきだったのに。


「ヴィクター」ジョンが宙を見上げたまま、色のない声を落とす。「僕は、決めたよ」

「……何をだい?」

 猛烈に嫌な予感を沸き立たせるその声音に、背筋を震わせながら、ヴィクターが問う。


「探偵を、辞めようと思う」


「――――」

 ジョンの言葉に、ヴィクターの顔が思わず引き攣った。


 それは全ての否定、全ての崩壊。ジョン・シャーロック・ホームズが積み上げてきた全てを終わらせることを意味する。

 彼は今までずっと探偵に――、シャーロックに勝つ為に生きて来たのに……。


 だが、ヴィクターはそれを口に出せなかった。ジョンを否定するような言葉を自分が吐いてしまっては、彼の居場所がなくなってしまうと危惧したからだ。弱音を吐ける場所があるというそれだけで、人間は精神を保つことが出来る。


「……本当に、それでいいのかい」

 ヴィクターがジョンに本音を言えないのは、他にも理由はあった。歯を噛みながら、本質から迂回するような問いで、彼は自分を誤魔化していた。

「しょうがないだろ。僕の親父はあのシャーロック・ホームズだ。その息子だって言うなら、どうしたって悪魔に目を付けられる。探偵なんて職に就いているのなら、尚更だ。僕は悪魔に関わるべきじゃない。僕はともかく、周りの人間が巻き込まれる。そんなこと、分かり切っていたのに」

 僕はその道を選べなかった――いや、選ばなかった。ジョンはそう言って、自分の顔を両手で覆った。


「僕は親父に負けたくないが一心で、周りのことなんて考えなかった……! どうしようもなく自分勝手で、呆れるくらいに頭の悪い出来損ないだ……!」


 偉大な父親から何も受け継がなかった劣等。偉大な父親の下で尊大に吠えるだけの雑魚。偉大な父親から学び、しかしその父親を殺めた人でなし。偉大な父親の損失を埋めるには到底力不足の役立たず。

 嗚呼――、聞こえてくるようだ。ヴィクターが顔を歪ませ、胸を掻き抱く。ボクは愚かだった。ジョンの心がこんなに悲鳴を上げていたのに、何一つ気付けず、なぜ時間なんかに解決を委ねていたのか。


「ジョン、それは違う。キミは強い。ボクは、それを知っている」

「でも、親父ほどじゃない――だろ」

「…………」


 シャーロック・ホームズは偉大だった。偉大過ぎたのだ。本来なら憧れるだけで、比較対象になどしない程に。しかしジョンにとっては、幼い頃から目の前にある明確な目標であり、世間にとってはその位置を彼が継ぐのは、当たり前の認識だった。

「役立たずで無力な奴が、親父に追い付こうだなんて、土台無理な話だったんだ……。身の程を知るには、余りにも遅すぎた。親父が死んでから、それに気付くだなんて、僕の、僕の――」


 僕の今までは、一体なんだったんだろうなあ――ッ! 激しい怒りを吐き出し、ジョンはレンガで出来た壁に、自分の拳を叩き付けた。遠慮のないその一撃は、彼の皮膚を裂き、血が飛び散らせた。


「ジョン! ……自分の体を傷付けるのだけは、やめてくれ」

「悪魔に狙われるであろう僕は無力で、それを哀れんだ親父とワトソンに託されたチカラで、結局あの二人を殺してしまった。とんでもない道化だ。ハッ、糞野郎にも程があるッ!」


 ジョンは泣かない。ヴィクターは彼のそんな姿を見たことがない。全ての感情の昂りはやがて怒りに繋がって、彼は闇雲にそれを暴力や暴言に還元してぶつけるのだ。今やその怒りは自分に向けられていて、爆発したそれが拳に宿り、ただ壁を殴り付けている。


「ジョン、やめてくれ! 頼むから!」

 ヴィクターが背後からジョンの腕を取り、無理矢理押し止めようと試みる。だが彼に比べて、明らかに筋肉質なジョンを止めることは叶わず、羽虫のようにあしらわれてしまった。

「ジャック・ザ・リッパーはどうするんだ! それにメアリーは! キミが今、直面している事件は一体どうする気だ!」

 ヴィクターの声に、ジョンは動きを止めた。拳を握り締めたまま、俯いて体を震わせる。


「ああ、分かっている。メアリーを助けて、切り裂きジャックを止める。この事件が、僕が関わる最初で最後の事件だ」

 ジョンは静かな、感情の篭もらない声は死んだ海のようだった。


「……ここがどこだか、知っているか?」

 不意のジョンの言葉に、ヴィクターは首を傾げ、周囲を見渡した。


 大通りから一本外れた路地。少し進むと袋小路にぶつかる、何の変哲もない場所だった。


「ここがどうかしたのかい」


「ここは、僕が生まれて初めて親父にブン殴られた場所なんだ」


「――――」

 ヴィクターは驚いて息を呑む。ジョンは、そんな彼に自嘲気味な笑みを向けた。

「あの日、今以上に糞ガキの僕の顔を親父は思いっきり殴り飛ばした。いつか話したろう、顔も腕も折れて、肩まで外れたって。それがここなんだ」

 ジョンは目を路地の入口付近から流すように動かして、やがて袋小路に行き着いた。

「あの日、僕はある意味死んだ。親父に殺された――殺してくれたんだ。それまでずっと胸の中に燻っていた何かを吹っ飛ばしてくれたんだ、あの拳が」ジョンは父の動きを真似るように、空間に拳を振るった。「そして生まれ変わった僕の中に、一番最初に湧いた衝動は、糞親父を『ブッ殺してやる』っていう怒りだったよ」


 今まで自分を放りっぱなしだった癖に。自分のことなど見て見ぬフリをしてきた癖に。お前と比較され続ける気持ちが分かるか。お前のようになると勝手に思い込まれる重みが分かるか。同世代の子供達から受ける羨望と嫉妬と忌避の視線の気持ち悪さが分かるか。そのウサを晴らす為にお前の名を使うしかない、無力な僕の気持ちが、お前に分かるのか。

 燻っていたのは当たり前だ。彼の中には、ずっと炎があったのだ。


「親父が僕に火を点けた。僕はその炎の中で燃え尽きて、そしてその灰の中から立ち上がった。――新しい炎を抱えて」

 彼の口から昔話を聞くなんて、いつぶりだろう。ヴィクターはそんなことを考えながら、ジョンを見詰めていた。

「ココが僕の原点だ。こんな何もない、つまらない場所が僕の始まりなんだ」

 語るジョンの顔は無表情だった。ヴィクターがそのあまりの淡白さに手を伸ばした時、「ハッ」とジョンが笑って、俯いた。自嘲、侮蔑、軽蔑、軽侮、痛罵、嘲罵、慢罵、嘲謔、凌辱、侮辱、嘲弄――。自分自身を切り捨て、諦めたかのような一笑だった。


 嗚呼――、どうしてだ。どうしてこんなにも惨い仕打ちを、世界はジョンに与えるんだ。


 フラフラと力なく立ち去っていくジョンを見詰めながら、ヴィクターは神を呪った。自分を「親友だ」と言ってくれた大切な人の力になれない己の無力さと一緒に。

 何も言えない。何を言えばいいのか分からない。ヴィクターの頭の中に、ジョンに掛ける言葉が何一つ浮かばなかった。擦れ違う瞬間に、手を伸ばすことすら出来なくて。

 幾ら知識を頭に詰め込んでも、それが誰かの為にならないのなら、そんなのただの能無しだ。その歯痒さは、ヴィクター自身が驚くくらいの激しい怒りとなって彼の内を燃やす。


「ジャネットを頼むだなんて、ジュネに言っておきながら、ボクはこのザマか」

 自嘲し、まるでジョンを真似るように、ヴィクターは壁に拳を叩き付けた。

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