10-5.

「――――」

 まるで時間が止まったような感覚。ジョンは自分の足元を見て、どこか安堵したかのように表情を和らげた。

 確かな確信があった。絶対に答えてくれると、そう胸を張って言うだけの。勿論、そこには明確な根拠はなかった。だがそれでも、そこには、確かに。あの氷の瞳を受け止めたジョンだからこそ持ち得たその確信。


「――オイ、糞ガキ。メアリーが泣いてるぞ」


 無言。無声。意思は沈み、想いは潰れ、決意は流れる涙に融けた。

 自身の魂とは何だ。その想いの原点、願いの原初、望んだのは何の為だったのか。

 家族、家族、家族。笑顔、笑顔、笑顔。

 沸々と泥が沸き立つ。泡が泥を弾き、その飛沫の量と強さはどんどん加速する。


 ――オレ達が何をしたと言うのか。

 生きる為に、物を盗んだ。けれどそれは、お前達だってやっている事だ。

 生きる為に、体を売った。けれどそれは、お前達だってやっている事だ。

 生きる為に、金を稼いだ。けれどそれは、お前達だってやっている事だ。

 何が違う。何が違った。何が悪かったのか。

 何が良くなかったのか、何を間違えたのか、俺には分からない。

 目の前で家族が殺される。

 豚や牛と同じように吊るされ、解体機に呑まれた彼。

 集団に犯され、男の欲望を喉に咥えたまま、窒息死した彼女。

 男達に代わる代わる一昼夜、骨格が歪むまで殴られ続けた彼。

 四肢を切断され、玩具にされた後に、川の中へ投げ込まれた彼女。

 全身の骨を一本ずつ折られ、泣き叫びながら死んだ彼。

 尻の穴まで犯され、内臓を掻き出されて野晒しになった彼女。

 ――皆の声が聞こえる。怨嗟の声、憤怒、憎悪、泣き声、悲鳴。

 オレは見ているしかなかった。オレは見ているしかなかった。オレは見ている事しか出来なかった……!

 亡骸を抱いて、「済まない」と詫びる事しか出来なかったんだ……!


 幾ら祈っても、神がオレに答えてくれた事はない。

 何度身が裂ける程に叫ぼうが、それこそ貴方はお構いなしなのだろう?

 ならば、最早貴方に捧げる言葉はない。

 地に堕ちる。悪意には悪意を。暗闇に沈み、掴んだ刃を振るう。

 差し伸べられた手が、黒い泥に塗れていたとしても。

 それを誰もが間違いだと指差すけれど、

 オレにとってすれば、「何も出来なかった」自分自身こそが最も罪深い悪だった。

 ……嗚呼、だから、そう――、

 ようやく手に入れた「力」で、家族を守れるのなら、自身がどうなろうと構わなかった。

 力があれば、護れたんだ。

 力があれば、救えたんだ。

 力があれば、助けられた。

 力があれば、家族は、皆は、誰も泣かないで良かったんだ。


 沸々と泥が沸き立つ。泡が泥を弾き、その飛沫の量と強さはどんどん加速する。

 家族、家族、家族。笑顔、笑顔、笑顔。

 自身の魂とは何だ。その想いの原点、願いの原初、望んだのは何の為だったのか。

 返答。解答。意思は浮かび、想いは溢れ、決意はこの身に解けた。


 ――――オレが、家族を、守るんだ。


 黒い泥の中から四本の腕が飛び出し、ベルゼブブへ目掛けて疾走した。

「な……ン、だと……ッ!」

 怪腕がベルゼブブの体を掴み、彼の動きを縫い止めた。彼の伸ばした手は、メアリーの顔のすぐ目の前で止まっていた。

「メアリーに、オレの家族に……! 手ェ出してんじゃねえよ……ッ!」

 泥の中から這い出るようにして姿を現したジャックが、その瞳と声に強い意志を宿して吠えた。

「このッ、役立たずの分際で! 俺の支配から逃れるだと……ッ!」

 ジャックの怪腕に体を掴まれながらも、ベルゼブブは忌々しそうに呻き声を上げつつ、メアリーに向けて腕を伸ばし続けた。しかし、更に二本の腕に体を掴まれると、必死の抵抗も空しくメアリーの傍から引き剥がされた。


 怪腕に振り回され、建物の壁面に激突するベルゼブブの姿を目で追いながら、ジョンは鎖を手繰って『十字架』を手元に引き寄せた。肩にそれを担ぎ、ジャックと並んで敵を睨む。


 土埃の中から、ベルゼブブが杖で地を突いて立ち上がる。体は泥と血で汚れ、表情は恥辱にまみれていた。憎悪の限りを瞳に燃やしながら、ジョン、ジャック、ジャネットへと視線を動かした。

「……何故だ。何故、俺が負ける。一人は言葉すらまともに喋れないガキ。一人は師の下から離れたばかりの新米の祓魔師。一人は自分のチカラを操れない所為で大事な人間を殺した阿呆。……何故、そんな奴らに俺が負けるのか」

 ベルゼブブは――、歯を噛んだ。心底分からない、不可解だと顔を歪ませた。


「そんなの、決まっているだろう」ジョンが首を傾け、ベルゼブブを睥睨する。「単にテメエが僕らをナメ腐ってただけだ」

 侮る、蔑む、見下す。自分は相手より優れているという慢心。敗北の理由はそれで、そうでなければ今の立ち位置は全く違うものになっていただろう。ジョンは真実、そのように現状を判断していた。


「ハッ」ベルゼブブは笑った。怒気を呼気に込め、侮蔑の笑みを自分に向けた。「……馬鹿馬鹿しい。今更お前らニンゲンを、侮るも嘲るもあるか」

 言葉の後に咳き込み、彼は口元を手で押さえる。離した後に見たそこは血で濡れていた。

 失敗、敗北、逃走。ベルゼブブの頭の中には、その選択肢を取る以外の気力はなかった。だがそれでも、彼は目の前に立つジョンを睨み、射抜く。


「忌々しい。いつまでもお前らは俺達の邪魔をする、ホームズ」

「それはこっちのセリフだ、糞っ垂れ。お前らは地獄から出ずに大人しくしてりゃあいいんだよ」

「そうは行くか。『特異点』が生まれ始めたんだ」

 ジョンは眉をひそめる。執拗にベルゼブブが呼ぶ『特異点』――メアリーの存在が、地獄から彼のような大悪魔を呼び寄せた。

「『特異点』ってのは、一体なんなんだ」

 ベルゼブブはジョンの言葉に、表情を消した。その発言の真意を問うような、真贋を見極めようとするかのような。そんな不自然な間に、ジョンが再び眉をひそめた時だった。

「……何も知らない、か」

「あン?」

「ジョン・シャーロック・ホームズ。お前は本当に、何も知らないんだな」

 ボソリと呟かれたその言葉に秘められた感情は、なんだろう。憎悪も、憤怒も、軽蔑も、憐憫すらも懐疑の内に含んだ淡水を飲み干そうと四苦八苦して胸を焼かれる痛苦とは。


 痛苦は、痛打に。苦しみを痛みに還元し、それを発露する。掲げられた杖が、ベルゼブブの背後にあった家屋を撃った。

 ――轟音と共に、衝撃を受けた家屋がみるみる崩壊していく。

 まだそんな力を振るえるのか……! ジョンは目を見開き、絶望にも似た感情を零しそうになるのを歯を食い縛って堪えた。

 土埃と崩れ落ちる瓦礫の中、ベルゼブブはジョンを睨む。その瞳の中にあるのは、純なる烈火。その憤懣ふんまんは彼自身を燃やし尽くす。やがてゆっくりと、ベルゼブブはジョンを指差した。

「貴様は今、その手に握っているモノがどういう意味を持つのかすら知らないんだろう! 憎らしいまでに憐れだよ、貴様は! 何も知らない、何も知らない、何も知らない……ッ! 『無知』――掲げられた『大罪』よりも大いなる罪だろうよ! お前は自分が『何を知らない』のかすら知らないんだろうなァ!」

 ジョンはベルゼブブの怒気に圧倒されていた。その姿が、陽炎に歪んでいるようにすら見える激しい激憤。


「忌々しい! シャーロックやワトソンならともかく、何も知らないお前のような糞餓鬼が、俺達の前に立つんじゃない……ッッッ!」


 溶岩のように流れ込んで来る言葉は、ジョンの心を酷く揺さぶった。

 ベルゼブブが強くジョンを睨み続けるが、やがて足元から発生した泥がベルゼブブの全身を覆い、頭からドロリと崩れた。その泥は地に吸い込まれるようにして消え、後に残ったのはベルゼブブが憑いていた女性型の「人形」だけだった。

 瓦礫に潰される前にジャックが怪腕を伸ばして「人形」を抱え上げて引き寄せた。眠るように目を閉じる彼女の姿を、どこか呆然と見詰める。

 ジョンはしばらく周囲を警戒して目を動かしたが、なんの動きもないのを確認すると、『十字架』を手から離した。すると、まるで花弁が散るように『十字架』と鎖が消えていき、見えなくなった。


 そのまましばらく立ち尽くすようにしていたジョンだったが、ふいにフラリとその体が揺れた。

「ジョン……!」

 背中から無防備に倒れそうになるジョンを見、起き上がったジャネットが彼の下へと駆け寄った。しかし間に合わない――地面と激突しそうになったジョンを、ジャックの怪腕がしっかと受け止めた。ホッと息を吐いたジャネットは、ジャックからジョンを受け取った。

「ちょっと、ジョン、しっかりして――」

 手にヌルリとした熱い感触。ジャネットが目を見開いて自分の手を見ると、血で真っ赤に染まっていた。

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