10-4.

「お前には関係のない話だ」

 ベルゼブブは、ジョンを睨みながら地に右手を付けた。するとそのまま腕が地中に潜り、再び持ち上げた時には、白い杖を手にしていた。


 何の変哲もない杖に思えたが、その柄頭は頭蓋骨を模した禍々しい物だった。ベルゼブブは1メートル超の長さのそれを器用に回し続けながら、ジョンを睥睨する。


 あの杖が武器である事は間違いない、この状況下で『地獄』から取り出したのだ。ジョンは『十字架』を中段に構え、敵の出方を伺った。

 互いに動かない――、動けない。互いを警戒し合うのは、そのチカラが強大であると認め合っているから。

 敵意、意思。ジョンは瞬きを忘れ、ベルゼブブの内面に潜む機微に集中する。

 脚――、動く――。ベルゼブブの踵が浮き、足を踏み出すその刹那に、ジョンが飛び出した。

 跳び、頭上から、重力と体重全てを乗せて。ジョンが両手で掴む『十字架』を渾身の力を込め、ベルゼブブの頭部に向けて振り下ろした。

 敵の「先の先」を行くのが、ジョンの戦法。敵の手を読み、常に敵を後手に回すのが彼の戦い方だ。

 ベルゼブブが腕を回し、杖を振り上げる。しかし遅い。杖が加速し、最大の威力を持つ前に、その杖ごと『十字架』が彼を撃ち潰、す――、筈だった。


 貫く暗緑色の閃光と共に、風が吹き荒れた。『十字架』と杖がぶつかり合った瞬間、どこからともなく強大な風圧が吹き荒れ、先手を取ったジョンを弾き飛ばした。

「ッ!?」

 何が起こったのかを理解しようとした、してしまった。一瞬ではあったが、目の前の敵ではなく、今起きた現象について思考を回してしまった。浮遊という隙の上に更なる隙を上乗せてしまった。――それを見逃す相手ではないと、何度自分に言い聞かせたのか。ジョンは自身の右胸を杖の石突に突かれ、その衝撃が肋骨を砕き、肺を潰す感触と自身の迂闊さを呪った。


「ジョンッ!」

 ジャネットが悲鳴を上げた。しかし、次に彼女が見たのは、肋骨を砕かれ壁にまで吹っ飛ばされたジョンが『十字架』を杖代わりに立ち上がる姿だった。

「糞が……、痛ってえなァ……ッ!」

 肋骨を砕かれ、石突は肺にまで達した。そんな衝撃を受ければ、息をする事すら苦しい筈だ。しかしジョンは『十字架』を振り回して肩に担いで見せた。その様子には、どこにも体の損傷など見当たらない。

「……嗚呼、忌々しいッ」

 むしろベルゼブブの方が苦しそうだった。歯を強く噛み締め、苛立ちに任せて杖の柄頭を地に叩き付ける。割れた石畳の破片が、どこか虚しく飛び散った。


 地上に於いて最も「神聖」な『聖十字架』。それがもたらす極大の「拒絶」。持ち主の「損傷」という「悪性」を即座に拒絶――回復させる程の規格外の代物。

 ジョン自身もその「神聖性」に驚いていたが、それを平然に、さも当たり前だと言いたげに見える様、努めていた。それが敵へのプレッシャーになる筈だと睨んでいたからだ。


 格闘は心理戦でもある。苛立ち、憎しみ、怒り――。無限の力をも引き出すであろう「感情」というチカラは、一転して選択肢の過ちを誘い込む。

 ジョンはさも自分が優位であるように見せていたが、内心では強い焦燥感を抱いていた。敵と撃ち合いになった際に発生した、人一人を吹き飛ばす程の強い風圧。アレの正体が掴めないと、再び撃ち合いになった時、確実に負ける。しかし、彼には風圧の正体が見当もついていなかった。


 さて、どうするか――と、思考する時間は与えられなかった。今度はベルゼブブからジョンに向かって飛び出した。

 杖をグルグルと威嚇するように回しながら詰め寄って来るベルゼブブに、ジョンは再び中段構えを取った。攻撃にも防御にも対応出来る万能の基点。

 頭上から振り落とされる髑髏を模した柄頭。ジョンはそれを受ける為に『十字架』を両手で押さえた。が、柄頭は激突する事なく寸でで転じた。それでも尚、先と同じように強力な風圧がジョンを襲った。圧力に押され、思わず膝を折った彼の顎を、返って来た杖の石突が打ち上げる。体が数十センチも跳ね上がる程の衝撃だった。

 ベルゼブブは石突付近に手を滑らせて握り、ジョンの体目掛けて杖を右から袈裟懸けに続け様に振り下ろした。

 視界は上空。敵の攻撃が見えないジョンはしかし、「敵意」の接近を敏感に感じ取った。『十字架』で自身の左半身を覆うようにして、ベルゼブブの攻撃を防いだ。しかし、宙に浮くジョンがその衝撃全てを受け止められる筈がなく、勢い良く地面に体を叩き付けられた。体が跳ね返り、再び宙に浮くその中で、ジョンは『十字架』を振り回して器用に体勢を立て直し、地に降り立つと、ベルゼブブを真っ直ぐに見据えながら顎へ手で触れた。砕かれた筈のそこは、一連の動作の中で既に治っていた。驚異的な回復力に、ジョンは少し背筋が寒くなった。


 さて――と、ジョンはベルゼブブと睨み合いながら、再び思考する。

 敵の攻撃は強力。しかしその攻撃を受けても、今の自分ならすぐに回復出来る。それでも耐えられるダメージの最大値は未知数だ。さすがに頭を潰されたり、首を飛ばされたりすれば死んでしまうだろうが……。それ以外の攻撃は、体で受けてもなんとかなる、のか?

 ジョンは体で敵の攻撃を受け止めて反撃に出るプランを考えたが、やはり一抹の不安が残る。それを拭い切れない限り、その択は取れないと首を振る。

 それにあの謎の風圧。敵の一撃目に必ず吹き荒れるアレの正体、対策が取れないと話にならない。攻撃を受けても躱しても、その風圧に体の動きが阻まれて、敵の二撃目を許してしまう。


 グルグルと杖を回しながら警戒するベルゼブブを睨みながら、ジョンは再び『十字架』を宙に放ると、鎖を掴んで『十字架』を振り回した。目一杯の遠心力と速度を乗せると、鎖を手繰って敵の右から迫るように『十字架』を投げ飛ばした。

 凄まじい速度ではあったが、単調な動きだった。迫り来る『十字架』を、ベルゼブブは易々と杖で弾くと、更に風圧を放ってより遠くまで跳ね返した。

 武器は手元から遠く離れ、それを自らの下に手繰り寄せる前に一撃を決める――。ジョン自身が作り出した隙を叩く為に、ベルゼブブが『十字架』から視線をジョンの方へと戻した。


 しかしその視線の先に、ジョンはいなかった。


「――!?」

 ジョンの姿を見失ったベルゼブブは露骨に狼狽えた。

 ジョンと『十字架』を繋ぐ鎖は、彼のシルバーコード。魂の形を決めるのは彼自身。「強度」も「長さ」も全てジョンの意思――精神の強さで決まる。子供達の中にいる悪魔だけを祓う為に、物質法則を捻じ曲げる事だって出来る。

 ベルゼブブは『十字架』に触れられない。故に手で受け止める事など出来ず、杖で弾き返すしかないだろう。避けられたとしたら、更に攻撃を繰り返すだけだった。ジョンはベルゼブブが『十字架』を弾く動きを誘ったのだ。そして吹き飛んだ『十字架』との間に伸びるコードを「縮めて」自分を引き寄せる――。上手く行けば敵の背後を取れるだろう。


 その目論見通り、左右上下に視線を巡らせるベルゼブブは完全にジョンの姿を見失っていた。そんな彼の背後に立つジョンは『十字架』をしっかと握り、がら空きの敵の背中に向けて跳び出した。

 地を蹴る音を察知したベルゼブブが、素早く背後へ振り返る。目の前に迫るジョンの姿に、彼は驚愕に顔を強張らせた。振り落とされる『十字架』に、遅れて杖を振り上げる。

 遅い――! ジョンはベルゼブブの杖ごと『十字架』を彼の肩に叩き込んだ。「ぐッ!」と呻き、よろめく敵の姿を視認しながら、発生しなかった風圧を思う。恐らくは一度放った後は何かしろの準備が必要なのだ。そう言えば、ベルゼブブは攻撃の前に必ず杖を振り回していた。あの行動はその為だったのか?


 ならば今が勝機――! と、ジョンは全身に筋肉を躍動させ、ベルゼブブを『十字架』で乱打する。

 ベルゼブブは顔を苦し気に歪めながらも、巧みに杖を操り、ジョンの攻撃を捌いていく。

 先に手を止めた者が最後――。それを理解した二人は、奮い立つ魂に突き動かされるように咆哮を上げた。


「「あああああッ!」」


 攻撃と防御の速度は掛け合わさるように上昇する。杖と『十字架』がぶつかり合う度に鳴り響く音と火花は、命の削り合い、魂の衝動、感情の瀑布、決意の強さと硬度、光を乱反射する万華鏡、光を散発する宝石。

 息を呑むジャネットを、鳥肌が襲う。目の前で遣り取りされる、光と音に支配され、満たされた世界。自身を飲み込んで押し潰すような命の奔流に、ただただ圧倒された。

 息を忘れ、音を失くし、声を消して、感触さえ残っていない。瞬間瞬間が命の潰し合い。振るう速度、方向、角度、位置。得物のどこを握るか、足の配置は、重心の位置は、視線の先、敵の目線、手、足――。ありとあらゆる情報の取捨選択、一択の間違いが文字通り死を招く。

 繰り返される剣戟は十を超え、五十を飛んで百。撃ち合いが二百に差し掛かろうとした時、その「戦闘」から先に抜け出したのは――、ベルゼブブだった。


 ジョンの見立て通り、ベルゼブブの杖が風圧を発する為には、その柄頭を回して内部に風を蓄える必要がある。髑髏を象る柄頭は、無数の小さな髑髏の集合体だった。その小さな穴に様々な方向から取り込まれた空気が、柄頭の中で乱気流を蓄え、それを一気に放出する事で風圧を成す。ベルゼブブが握る杖はそういった機構を持つ、彼だけの得物だった。

 様々な方向に柄頭を回す――。その段取りは、ジョンの猛攻をしのぐ中で出来ていた。

 唐突に発生した風圧に、ジョンの手から『十字架』が弾け飛んだ。驚愕に目を見開く彼を見、ベルゼブブはせせら笑うように歯を見せた。勝った――彼は疲労と痛みが走る体に鞭打って、杖を振り上げ、た……、


 ――――しかし、敵に向けて先に足を踏み込んだのは、ジョンだった。


 手から飛んでいった『十字架』になど目もくれず、ジョンはベルゼブブが体勢を立て直す前に、足を前方へと踏み出していた。


 ――――父からまず初めに教わったのは、拳の作り方だった。


 小指、薬指、中指、人差し指を曲げ、それを上から親指で押さえ込む。そうして作った「拳」をありったけの力を込めて振り回し、敵に叩き込む。

 体はおろか、魂にまで染み付いた父の言葉は、彼にとって掛け替えのない宝。それこそが彼の得物。それ以外は、彼にとってただの付属物。

 例え自身の魂が地上に於いて最も悪魔に効果的な武器だったとしても、彼にとっての最強の武器は、いつだって自分自身の――――、


「 ――Fuckin’ Die, Motherfucker!」


 敵を射抜く、大振りのスイング・ブロー。ジョンは咆哮と共に、ベルゼブブの頬に拳を叩き込み、大きく吹き飛ばした。

 ベルゼブブは地に倒れ伏すと、そのまま動かなくなった。敵をしっかりと視界に収めつつ、ジョンは肩で大きく息をする。『十字架』での乱打の中、ほぼ無呼吸だったのだ。体が必死に酸素を求めていた。しかし走り回る激痛で、上手く呼吸が出来なかった。ベルゼブブの杖は、確かにジョンの体に届いていた。


 やがて咳き込みながら、ベルゼブブがむくりと立ち上がった。顔は汗に濡れ、口の端からは血を零していた。体中に刻まれた焼け爛れたような傷は、『十字架』がぶつかった痕だ。

 互いに満身創痍。休む時間が必要だったが、それを取らせる事は出来ない。ジョンは顔を上げ、ベルゼブブに一歩迫った。

 しかしベルゼブブは踵を返し、ジョンに背中を向けた。彼の先にあるものに、ジョンは「しまった」と歯を噛んだ。


 ベルゼブブが向かう先、そこにはジャネットとメアリー、そして子供達がいた。彼はメアリーだけに視線を注ぎ、彼女に向かって手を伸ばした。

 狙いはメアリーのみ――。しかしそれを許すジャネットではない。手に取っていた拳銃の銃口をベルゼブブに向け、引き金を引いた。

 発される弾丸が吸い込まれるようにベルゼブブの体に突き刺さる。彼は杖を手にしながらも、弾丸から身を守ろうとしなかった。

「邪魔だ、あいつだけは頂いていく――!」

 立ち塞がるジャネットに対し、ベルゼブブが低い声でそう言った。


 ジャネットが前に出、る――直後、ジョンが叫んだ。

「ジャネット! ダメだッ!」

 しかしジャネットに彼の声が届いた頃には、手遅れだった。

「なニ……ッ!?」


 ベルゼブブと相対していないジャネットが、杖の魔術を知る筈もない。抵抗する事も出来ぬまま、杖から発生した風圧がジャネットを文字通り吹き飛ばした。

 メアリーは自身に迫り来るベルゼブブを正面から見、顔を強張らせた。それでも恐怖に臆さず小さな体を動かし、背後にいる家族を守ろうと腕を広げた。

 出遅れた、間に合わない――ッ。ジョンが足を踏み出してベルゼブブを追うが、その距離と今の疲労した体で出せる速度を瞬時に計算し、思わず顔を歪ませた。


 嗚呼ッ、クソ! 懸命に家族の前に立つメアリーの姿に、ジョンは歯を食い縛った。その時、ボチャッと、彼の足が何かを踏んだ。

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