10-2.
ヴィクターがそっと嘆息している頃、ジャネットは焦りに焦っていた。
「……ッ」
もう少しでホワイトチャペルに辿り着く辺りで、何度目かの転倒。焦燥感が駆けてばかりで足が付いていかない。
どうして待ってくれないの。どうして先に行っちゃうの。どうして頼ってくれないの。どうしてまた置いていかれるの。どうして。どうして。また。どうして。また。また。
ジャネットが地に這ったまま、頭を抱えた。うるさい、うるさい。頭の中に響く声を消したくて、自分の手で頭を叩く。うるさい、うるさい、うるさい……ッ!
「アアッ!」
ジャネットは声を断ち切るように吠えて立ち上がり、また走り出した。
ホワイトチャペルに足を踏み入れ、ジャネットは荒い息のまま立ち止まり、周囲に目を配った。ここに辿り着いたところで、やはりジョンとメアリーの居場所は分からない。
どうしよう……――どうすれば……っ! ジャネットは自分が呼吸をしているのかどうかさえ、分からなくなった。
――「父さんとジェーンを奪った癖に……、アタシから――、ジョンまで奪おうって言うの……?」アタシは最低な事を言ってしまった。ふいに思い出した言葉に、ジェーンは涙を零した。なんであんな事を言ってしまったんだろう。アタシはジョンの力になりたいとずっと願って来たのに、それなのにあの人を傷付けようだなんて。アタシは最低だ、最悪だ。
どうか、神様。あの人に謝らせて下さい。
ジェーンは聖職者だ。神への畏敬の念は抱いている。しかしそれが一番大切なモノかと問われるかと、恐らく違う。彼女にとって大切なモノは、もっと身近にあるモノだ。
「……っジェーン……!」
助けを求めるかのように、妹の名を口走った。しかしその声に答える者がここにいる筈もなくて。
教会で跪き、手を合わせ、一心に祈りを捧げるジェーンの姿を思い出す。彼女もジャネットと同じだった。彼女の祈りは、いつだって大切な誰かの――。
かつてジョンがシャーロックに教えを請うてからしばらくして、ジャネットもまた父であるワトソンに同じ申し出をした。
ジャネットもジェーンもジョンも、同じ時期に生まれた。だからお互いの存在はすぐ身近にあった。けれど幼い頃のジョンの鼻につく態度に、姉妹は彼に近付かなかった。姉は嫌悪を、妹は恐怖を理由に。
しかし彼は変わった、彼の父から受けた強烈な一撃に因って。
日々変わり続け、瞳の中に炎を焚かせるジョンの姿に、姉妹は段々と自分達から距離を縮め始めた。ジョンもそれを拒む事はなく、彼女達の前では常に寄せていた眉間の皺を和らげるようになった。
そんな頃だった。ジョンが魔人に襲われたのは。
ホームズの息子が父に鍛錬を申し込んだ。それは悪魔達にとって、第二のシャーロック・ホームズの誕生を危惧させるに足るものだった。
シャーロックの隙を突き、育ち始めた芽を摘む為に魔人はジョンと対峙した。
ジョンは懸命に応戦した。けれど大人の体格をした魔人に適う筈もなかった。
追い詰めた標的をまさに仕留めんと振るわれる魔人の一撃からジョンを救ったのは――、類稀な霊視能力で彼の危機を察知したジェーンだった。
そして結果として、駆け付けたシャーロックとワトソンによって魔人は撃退された。しかし命を救われたジョンには大きな傷を残した、それは体ではなく心に。
ジョンは庇われた、ジェーンに身を挺して守られたのだ。魔人が振るった一刀により、彼女は右肩から左脇腹へと、背中を斜めに縦断するような大きな裂傷を負った。この傷は一生残るだろうと、医者は言った。
ジェーンは涙を流さなかった。自分の傷よりも、ジョンの容態を心配していた。病室のベッドで「良かった――」と呟き、息をつく彼女の姿にジャネットは深い感動を覚えた。
ジョンは――、憤った。自分のあまりの無力さに。歯を食い縛り、拳を震わせて涙を流すその姿に、ジャネットは何も言えなかった。
「……親父……ッ」ジョンは嗚咽を堪えながら、父と向き合った。「誰かを、守れるように、なりたい……ッ!」
父から受けた一撃に因り力を欲し、そして幼馴染が受けた傷に因りその力の方向性を見出した。……恐らくはジョンの新たな出発点。
シャーロックはジョンの言葉を受け、何も言わずに拳を息子の胸に押し付けた。ジョンはその大きな拳を小さな手で握り締め、涙を流し続けた。
「ねえ……、父さん」
ジャネットはジョンの姿を見詰めながら、同じようにシャーロックとジョンを見詰めていたワトソンの服の裾を引っ張った。
「どうした?」
「ジョンが誰かを守ろうとするなら、アイツの事は誰が守るの?」
「…………」
ワトソンは答えなかった。シャーロック達から目を離し、ジャネットの頭に手を置いた。
ジャネットは父を見、彼が返答に困っている――、躊躇っている事に気付いた。父は正直で、誠実な人だった。彼の瞳は嘘をつけない。
ジャネットは決意を込めて目を吊り上げた。答えない父に、そして自分自身に力強い声で宣言した。
「それなら、私がジョンを守る。私がジェーンを守る。だから父さん、私にも戦い方を教えて」
「……そうか」
ワトソンはやはり困ったように、しかしどこか誇らしげに小さく笑い、ジャネットの頭をくしゃくしゃと撫でた。
――それはジャネットの原点。
忘れもしない、彼女の「魂」の在り方が決まった日。
「――……そうだよ、私が、ジョンを……! ジョンが助けたいって言うなら、私がそれを叶えるんだ……!」
ジャネットは追憶を振り切り、涙を袖で拭った。そして、いつかのようにキッと目を吊り上げて歩き出し、やがて目に付いた浮浪者に声を掛けた。
「すみません、この辺りで小さな女の子を連れた黒いコートの男を見ませんでしたか」
「ふむ――」男は振り返らないまま、何かを思い出そうとするかのように顔を上げ、「そうだな……。つい十分前くらいかな、あちらの方でそんな二人を見た気がするよ」
男は相変わらずジャネットに背を向けたまま、自分の左側にある路地の先を指差した。
「ありがとうございます……!」
やや早口でそう言い、ジャネットはそちらに向けて駆け出、す――、
「お嬢さん」男が口を開いた。「恐らくだが、助けは要らないと思うよ」
「え――っ?」
ジャネットは男の言葉に思わず振り返った。しかし視線の先に、男の姿はもうなかった。
しばらくその空間を見詰め、ジャネットは呆然としたが、やがて踵を返して走り出した。そう言えば……。ジャネットはふいに眉をひそめた。あの浮浪者……、本当に浮浪者だとして、その外套はどこか上等なものにも見えたような……?
ジャネットは頭を振った。確かに不審な人物であったかも知れないが、今はそれどころではない。
ジャネットが路地を走る中、やがて「――ジャック・ザ・リッパーァアアア!」という鬼気迫る絶叫を耳にした。何事かと立ち止まり、声のした方に振り返る。その先にはどこか白い光が透けているような……。再び走り出し、彼女が路地の角を曲がった。
そして目にしたのは、どこから取り出したのか、巨大な十字架を左肩に受けるジョンの背中だった。
「ジョ、ン……?」
どこか違った。何かが違った。少し前のジョンの姿とは何一つ変わらないのに、何かが決定的に違っていた。ジャネットは思わず戸惑った声を出した。
「あァ……?」ジョンが声を上げて背後に振り返り、ジャネットを見た。「なんだ、ジャネット、遅かったじゃねえか」
そう言って、ジョンは歯を見せて笑った。
その笑みを見て、ジャネットは呆然とし、やがて息を呑んで口元を手で覆った。
他人を小馬鹿にするような、煽るような。悪戯を企てているかのような。嫌味たっぷりにニヤけるような、そんな無邪気な、クソガキみたいな笑顔――――。
それはジョンの、ジョンらしい笑顔だった。そうだ、コイツはこんな風に笑うんだ。こんな風に人をムカつかせるような、でもどこか憎めないような。そんなくすぐったい笑みを浮かべるんだった。
ジョンが帰って来た――。ジャネットは溢れ出る涙を止められなかった。
「何泣いてんだよ、意味分かんねえなあ……」
ジョンは片眉を上げて頭を掻くとそうぼやき、視線を正面に戻した。釣られてジャネットが前を見る。
相対するは魔人。その奥には何か巨大な黒い闇を抱えるメアリーと、地に埋まる泥の塊。
ジャネットは一目で状況を理解した。
「まだ仕事は終わってねえんだよ……!」
ジョンはそう言って、正面へと跳び出した。
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