10-1.

「何よこれ……」

 抱えていた書類と鞄を床に落とし、唖然とした様子のジュネが、ヴィクターの部屋の戸の前で立ち尽くした。


 部屋の中で嵐が暴れ回ったように思えるほど物が引っ繰り返り、荒れ果てていた。その中で苦しそうにソファーにうずくまっているヴィクターを見付け、ジュネは思わず走り寄った。

「ヴィクター、どうしたの! 何があったの!」

「ちょっと、悪魔がね、悪さをしていっただけだよ……」

 ジュネは彼がバストバンドを巻いているのを見、肋骨が骨折しているのだと見抜いた。処置はキチンと出来ているから、一先ず安心だが……。部屋の中に彼以外がいないのなら、脅威は去った後なのだろう。普段と変わらない様子で嘯くヴィクターの様子に、却ってジュネは落ち着きを取り戻していった。

「悪魔の仕業だって言うなら、ジョンは? ジャネットはどこ?」

「ジョンは……――」

 ヴィクターは少し顔を上げて空を仰ぐようにして、口を開いた。しかし全てを言い切る前に、大きな音を立てて部屋の戸が開いた。


「あれ……、ジョン! ジョンはっ!?」

 ジャネットだった。部屋の中にいる筈のジョンの姿が見えない事に、酷く狼狽していた。

「ジャネット、遅かったね。どうしたんだい」

 ヴィクターはどこか自嘲気味に笑いながら、言った。

「『教会』の電話交換手の手際が悪かっただけよ。それよりもジョンはどこ!」

 いっそ怒鳴るようなジャネットの声に、ヴィクターは「嗚呼」と溜め息をついた。

「ごめん、ジャネット。……もう、行ってしまったよ」

「――――ッ!」

 ジャネットがヴィクターの言葉に息を呑み、踵を返して部屋を飛び出、す――直前に立ち止まり、ヴィクターに振り返った。

「ヴィクター、帰ったら、一発殴るからね!」

 乱暴な捨て台詞を残し、ジャネットは今度こそ部屋を後にした。


「いやあ、おっかないなあ」ヴィクターは頭を抱え、天井を見上げた。「いやあ……、殴られたくは、ないけどなあ……」

「……ヴィクター?」

 ジュネは頭を抱えるヴィクターの背中を見詰める。心なしか、彼の背中が小さく震えているような気がした。

「……ボクはジョンを見放してしまったのかな、ジュネ」

「…………」

 ヴィクターらしくない言葉だと、ジュネは思った。彼は頭がいい、だから自分のメンタルだって完璧に捉えられていると信じている。それなのにそんな質問をするなんて、彼らしくない。

 そう確かに、彼は頭が良かった。その頭脳の優秀さは確かなものであって、それ故に常人には理解出来ない領域にまで踏み込んでしまう事もあった。ジュネは彼が後ろ指を差されている姿を何度も目にして来た。「変人」、「変態」と呼ばれる事ばかりだった。しかし彼は自分が世間からどう見られているか、完璧に理解していながらも、それを正そうとは考えなかった。

 ――「お前、ソレ、つまんねえからやめろよ」。それは敢えて奇言奇行を繰り返し、わざと疎まれる事で周囲の人間と距離を取ろうとしていたヴィクターに、ほぼ初対面のジョンが放った言葉だった。その言葉は、彼の胸を深く貫いた。

 けれど、それ以来だ。生まれてからずっと兄のような存在だったヴィクターを見ていたジュネは、ジョンに出会ってからヴィクターはようやく「人間」になれたと感じていた。


 ジョンとヴィクター。彼らの組み合わせが世間にどう見られているのか、ジュネは知らないし、知ろうとも思わない。彼らは出会うべくして出会い、そしてお互いを本当の意味で信頼し合っている。それは疑いようのない事実だと、彼女は信じている。


「ヴィクターは自分が人間嫌いだと思っているかも知れないけど、本当は人間を嫌いになりたいだけのお人好しよ」溜め息交じりにジュネは続ける。「いつも他人の事ばかり考えているようなあんたが、ジョンを見放せる訳ないでしょ」

「……そうかなあ。本当に、そうかなあ……」

「私はずっとあんたの事を見ていたのよ? あんたの事ならあんた以上に知っているわよ、『お兄ちゃん』」

「…………」

 鳩が豆鉄砲を食ったようとは、この事だろうか。目を丸くして、ジュネに振り返ったヴィクターの顔は涙で濡れていた。それを見て、ジュネは「やっぱり」とまた溜息をついた。

「ホラ、みっともないから涙を拭きなさいよ。何があったか分からないけど、あんたはジョンを裏切らないし、ジョンだってそれはあり得ない」


 ヴィクターは力が抜けたように俯いて、大きく息を吐いた。

「ああ――、でも、待っているだけと言うのは、辛いものだよ」

「そんなの、いつもの事じゃない」

 ジュネは笑う。しかし、彼女も同じ気持ちだった。

「ジェーンも、こんな気持ちだったんだろうか」

「……そう、ね。そうだと思うわ。ジェーンはいつもニコニコしていたけど、あの笑顔が痛そうに見える時もあった」

 誰よりもジョンを、そしてジャネットを信じていたのはジェーンだった。けれど傷付いて帰って来る二人を迎える彼女の瞳はいつだって――――。

 彼女は祈っていた、二人の無事を。献身的に、誠実に、愚直なまでに、必死に。彼女のその姿は美しかったが、心が掻き毟られるような感覚も覚えた。嗚呼――と、思い出したジュネは今も胸を押さえる。

「だけど、あんたは違うでしょ、ヴィクター」ジュネは涙が溢れそうになるのを堪えながら、強い瞳でヴィクターを見る。「あんたは医者でしょ。あの二人が怪我をして帰って来たら、治してあげればいいだけじゃない」

「そう――か……、……そうだね……」

 ヴィクターはようやく顔を上げた。その頬には赤みが戻っていた。

「不安だって言うなら、わたしも一緒に待つ。あんたは一人でいるのが好きだけど、孤独なのは嫌いでしょ。全く、面倒臭い兄貴ね」

「……そこは『お兄ちゃん』じゃないのかい」

 戻って来たいつもの減らず口に、ジュネは「調子に乗るな」とヴィクターの頭を叩いた。


「ジャネットは間に合うかな」

「間に合うわよ」

 ジュネはそう即答した。ヴィクターはまた少し笑い、彼女を見る。


「ジャネットはいつもジョンを追い掛けてる。それなのに、こんな時ばかりジョンに追い付けないなんて、そんなの嘘よ」


 鼻息荒くそう言うジュネの様子に、ヴィクターは何故かホッとした。なんの根拠もないのに、その通りになるのではないかと思ってしまう力が、彼女の言葉の中にはあった。

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