9-7.

 訪れたのは白色の静寂。

 広がるのは白色の沈黙。

 いや――違うと、ジョンは気付く。ここは自分が生まれ変わった場所。初めて父親に殴られた、あの小汚い路地裏だ。あの袋小路で、いつも自分は父親から手解きを受けていた。


 視界が白く染まる程に晴れ渡ったある夏の日だった。顔を伝う汗を片袖で拭いながら、幼い自分がシャーロックと対峙している場面を、ジョンは目の当たりにした。

 あれは……いつだっただろう。ジョンは幼い自分と父の姿から、何かを思い出しそうになっていた。


 地に、一点の赤い血が垂れる。幼いジョンが鼻から血を流していた。その感触に苛立ったのだろう、彼の眉間に深い皺が寄った。しかし瞳は動く事なく、真っ直ぐ父親を睨んでいた。

 それにフッと、シャーロックは口の端を曲げ、構えを解いた。その姿勢に、幼いジョンは更に苛立つように歯を剥き出した。シャーロックは幼いジョンに歩み寄り、視線を合わせるようにしゃがみ込んだ。


「おい、坊主」

 シャーロックは口を開いた。何かを意を決したように、けれどどこか気紛れのような。いや、緊張している事を悟られまいと気安い風を演じているのか。幼い頃には気付かなかった父親の違和感に、ジョンは胸の内で首を傾げた。

「もしも、もしもだ。俺やワトソンやジェーン、ジャネット――誰でもいい、誰かお前にとって大事な人が人質に取られたとしよう。しかも、一人じゃない。同時に多数、全員だっていい。もしも、その中からたった一人しか助けられない、けれどそれで残りの全員が助かるとしよう。お前は、その選択を迫られた時、お前は、選べるか……?」

 父の目はとても静かだった。見た事のない静けさを湛えていた。風に揺れる木々のような、潮騒が揺蕩う波のような。その瞳の中にどんな感情を抱いていたのか、ジョンには分からない。


 幼いジョンは父にそう問われ、しかし彼は「こいつは人をブン殴っておきながらいきなり何を言っているんだ糞っ垂れそんな事より詫びの言葉一つでも吐いたらどうなんだ畜生めああダメだこいつはそんな事すら言えない糞みたいな脳味噌を持っているんだったもうどうしようもねえな糞が」と、胸の内で散々悪態をついて、そして。

 ジョンは幼い頃、自分が父のこの問いにどう答えたのか思い出した。その途端、全身に鳥肌が走った。

 思わず前に出て、父に駆け寄った。手を伸ばした。涙が零れた。その口は、いつかと同じ言葉を繰り返して。


「何言ってやがる」

 垂れる鼻血を拭いながら、

 息子は父を睨み付けたまま、

 その瞳は揺れる事なく、

 不遜で、不敵で、あまりにふてぶてしいその姿は、

 けれど、どこにも虚栄心などなくて、

 自分に不手際などないと信じて貫くその姿は、

 けれど、今の自分にはあり得なくて、

 忘れていた。忘れてしまったんだ。

 忘れてはいけない筈だったのに。

 ジョンは口ずさむ。幼い自分と同じ言葉をカタチにする。

 どうして忘れていたんだろう。

 どうして忘れてしまったんだろう。


 これは、これは――――、『魂』だ。

 自分自身の核となる、たった一つの大切なモノ。


「考えるまでもない。

 皆、助けるに決まってるだろうが」


「――――」

 シャーロックは呆けたような顔をして。

 幼いジョンは挑むように父を睨み続けて。

 やがて、父は子の頭に、その大きな手をポンと置いた。

「――良く言った。それでこそ俺の息子だ、ジョン」

 そして、大きく歯を見せて豪快に笑った。

 ジョンは両手で顔を覆った。溢れ出る涙は、それでも止まろうとしなかった。


 僕を褒めてくれたのは、それが初めてで、そして最後だった。だから、覚えている――思い出した。頭に置かれたその手の感触も。その手が震えていた事も。自分の名を、友と重ねる事なく呼んでくれた事も。

 何より、その笑顔が嬉しそうで、楽しそうで、何より、誇らしげに輝いていた事を。


「誓え。その言葉、忘れるなよ」

「当たり前だ」

 そう――、嗚呼、『誓約』だ。僕とあいつとの間で交わされた、ただ一つの誓い。たった一つの約束。

 父と子の、当たり前の絆。


 過去のシャーロックが今のジョンを見た。ジョンは涙を流したまま、父を見詰め返した。

 もう彼はいない。あの笑顔を見る事は、二度と出来ない。それでもあの父が、あのシャーロックが、自分を誇って笑ってくれた。


 自らに価値を見出せなかった。自らに意味を付けられなかった。自らに利点を見付けられなかった。自らに矜持を持てなかった。ジョンの人生は、常に自分の理想との戦いだった。自分が描く理想形、完成図へ辿り着くまでの果てしない旅路。その中で、何度も何度も打ちのめされて来た。ジョンは自分自身に自信なんて持てた事はない。彼は自分自身を疑い続けて生きて来た。そして、それはこの先も同じなのだろう。

 それでも、父は自分に胸を張れと言ってくれた。お前は俺の子供だと、笑顔と共に認めてくれた。その事実さえあれば、他に何が要るのだろう。


 ――父は、僕に「お前は黒い羊だ」と語った。

 信者達はあまねく神に導かれる子羊だと言う。

 哀れ、贄と捧げられる力なき羊達。信仰心だけを胸に置き、羊飼いの後に群れる羊達。

 ……その中で一際目立ち、「悪」や「死」、「災厄」に染まった黒羊であれと、父は語った。

 僕が在る所に悪魔が現れ、狙われ、奪われる為に在れと、父はそう言ったのだ。

 ……そう、僕が迎え撃てばいい。立ちはだかる悪魔達を、僕が倒せばいい。僕が最初の壁として奴らに立ち塞がればいい。皆を守る為、僕が強く在ればいい。


 嗚呼、父がニヤニヤと笑っている。何を泣いているんだと笑っている。人を馬鹿にして煽るような、あのクソガキみたいな笑顔を浮かべてやがる。

 お前になんか負けるかよ。ジョンはだから、無理矢理に歯を見せる。涙で濡れた顔をくしゃくしゃに歪めて笑って見せる。

 シャーロックがジョンに向けて拳を突き出した。「来いよ、坊主」と、彼の口が動く。

「糞っ垂れが――」

 ジョンは父の拳に自身の拳を打ち合わせ、いつも通りの答えを返した。

 悪魔が黒い羊に目を光らせる。それは願ったり叶ったりだ。こっちから出張る事なく、あっちから来てくれるんだろう? だったら、全部返り討ちにするだけだ。


「――!」

 悪魔が背後で立ち昇る違和感に目を見張り、思わずバッと振り返った。

 そこにはジョンが立っていた。折れた左腕を垂れ下げながらも、確かな意思を燃やし、俯きがちに悪魔を睨んでいた。

 やがて彼の周囲が、白い光で照らされ始めた。その光はジョンの背部より発されていた。

 悪魔はその光を見、更に目を見張った。思わず歯を食い縛るその張り詰めた顔に、一筋の汗が流れる。


「あンの糞親父……」ジョンが口を開き、顔を上げた。その目から涙を、赤い血の涙を頬に流しながら、彼は懺悔するように言葉を紡ぐ。「っつーか、普通信じるかよ、あんなの。お前に負けたくないからって粋がったクソガキの言葉だろうが。そんなモン、なんで信じられんだよ……」

 いつか見たあの笑顔、いつか聞いたあの言葉。それらを零した父に対し、子はいつまでも刃向かってばかりで。その胸に溢れんばかりの誇りと喜びをひた隠して。そうして――、どこに隠したのかも分からなくなって。

 それでも、口にしたあの言葉を、あの誓いを、あの約束を、忘れてはいけなかったのだ。

 アレが――、あの言葉がトリガーだった。あの『約束』が僕の魂を強くする引き金になると、親父は信じてくれていた。


「――ジャック・ザ・リッパーァアアア! あいつを殺せッッッ!」

 悪魔が叫ぶ。それは最早絶叫だった。彼の体を襲う震えは、恐怖だった。彼はジョンに戦慄していた。

 ジョンへの攻撃を命じられた配下はしかし、泥に沈んだまま動かなかった。悪魔は業を煮やしたように歯を剥き出し、しかしジョンへ近づく事を拒むように一歩、後退った。

 ジョンは右裾で涙を拭った。その瞳に、もう迷いはなかった。憂いも、躊躇いも、悲しみも、何も。彼の中にはもう、彼を責める声は聞こえない。


「嗚呼――、そうだ、『約束』だ」

 神々しく焚かれた炎が、ジョンの瞳に宿っていた。確かな誇りと、固い意志を薪にして、彼は猛っている。


 ――「彼の人」は荊の冠を被って十字架を背負いながら丘を登り、そして手足を十字架に打ち付けられて磔刑に処された。やがて右の脇腹に槍を受け、それを生死の判別とした。


 磔にされた「彼の人」と同じ位置に浮かぶ傷を「聖痕」と呼び、崇拝の対象ともなった。手足首の「聖釘」、額の「荊冠」、脇腹の「聖槍」、流れる「血涙」や「血汗」などがある。また「彼の人」を傷付けたそれらの物品は「聖遺物」として、これもまた崇拝の対象になった。

 ジョンの体に刻まれた手足首、額、脇腹の傷は、全て本物の「聖遺物」によってシャーロックとワトソンの手に因って刻まれたものだった。


「彼の人」と同じ物で、同じ場所に傷を受けた者が、そして背負うモノとは――?


 シャーロックとワトソンが導き出した答えは、息子の魂を変質させる代物だった。

 ジョンは俯いたまま左右の手を伸ばし、肩よりも高い位置まで掲げた。その姿勢を取った途端、背部の発光がより一層力を増した。

 悪魔は言葉もなく、ジョンのその姿を見入る。その姿勢、そして彼が――、その「傷」を持つ者が、その姿勢を取る意味を。


 光が――集束する。その形、その形状。縦長で構成され、横木が軸のやや上方で伸びる。イコンとして世界中で崇拝される聖なるシンボル。


 光輝く十字架を背に、ジョンは顔を上げる。まるで悪魔を見下すかのように顎を上げ、口元は憎らしいまでに薄く笑みを浮かべていた。やがて掲げていた両手を、悪魔へゆっくりと差し出した。

 手の甲を相手に向け、中指だけを突き上げた「ファック・サイン」。侮蔑、挑発、反抗などのあらゆる意味で最大級の侮蔑表現。


「――――『Amen』」

 呟き、そしてジョンはサインを掲げたまま、赤い舌を悪魔に向かって突き出した。


 祈りの結び、祈りの終わり。

 ジョンは祈らない。彼は神に祈らない、願わない、望まない。そんな事をしても無駄なのだ。何故なら、全ての願いは自らの手で勝ち取るものなのだと、彼は知っているからだ。


 言葉を最後に光は止み、ジョンの手には人をはりつけるに足る大きな十字架が握られていた。彼はそれを見、どこか「こんなモンか」と言う風に鼻を鳴らした。やがてその十字架を不躾にも振り回し、肩に受け止めた。


「僕の名前を聞いたよな?」

 ジョンが口を開く。父とその友、そして恩人を失くし、それ以来陰っていた瞳に煌々と炎を焚いて。

 頭の中にあれだけ響いていた「声」は消えた。まるで暗雲を裂き、光が差し込まれたように。

 父からの笑顔と言葉は、ジョンに強烈な自負心を生じさせていた。彼の心は芯を得た、彼の魂は糧を得た。彼の意思を曲げる事の出来る存在なんて、もうどこにも存在しないのだ。

 問われた悪魔は答えずに歯を食い縛り、強くジョンを睨み付けた。

 ジョンは悪魔のその瞳を、またも見下すように顎を上げて受け止めた。


「僕の名はジョン。

 ジョン・シャーロック・ホームズだよ――――、糞っ垂れ」

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る