5-1.

 気が付けば、ジョンは石畳の道路の上に立っていた。空に輝く太陽を仰ぎ、「なんだこれ」と呟いた。


 そんな彼の横を、少女と、彼女に腕を掴まれて引っ張られている少年の二人組が通り過ぎた。視線を彼らに移すと、どうにも見覚えのある二人だった。と言うか、幼い頃のジョンとジャネットだった。

 幼いジョンはブツブツと文句を言いながら、ジャネットに引かれるままに歩き続ける。


「さあ、今日こそは一緒に教会へ行くわよ」

 Tシャツに短パンと、活動的な格好をするジャネットは、妙に張り切っていた。

「なんでそんな無意味なことをしなくちゃいけないんだ」

 幼年ジョンはシャツにチノパンツと、歳を取っても取らなくても、今と同じような格好をしていた。

「無意味じゃありません。神に祈りを捧げ、聖書を拝読する――。その行為には確かに意味があるわ」

 だから、それになんの意味があるのか分からないんだよ。幼年ジョンは口の中でそう呟き、しかし諦めたように大きく溜め息をついた。


 ああ――、夢か。ジョンは独り言ち、納得した。幼い自分の姿に辟易へきえきしながら、することもないのでジョンは彼らに付いて行く。


 まだ彼が幼い頃の、暖かな陽が降り注ぐ日曜日の朝だった。かたくなに洗礼を受けずにいたジョンに痺れを切らし、ジャネットが彼を連れ出したのだ。

「ところで、そのほっぺたの大っきな絆創膏はどうしたの?」

 ジャネットが振り返り、首を傾げながらそう言った。幼年ジョンはバツが悪そうに顔を歪め、

「……なんでもねえよ」

「ふうん――、あっ。シャーロックにやられたのね」

 ズバリ言い当てられ、幼年ジョンは嫌そうにジャネットから目を逸した。それを見た彼女は面白そうに、

「まーた、手も足も出なかったみたいね。そりゃそうよ、シャーロックは強いもん」  まるで自分のことを自慢するかのような口調で、ジャネットが続ける。「あのシャーロックに勝つだなんて、無理に決まってるじゃない」


「無理じゃない」


 幼年ジョンは反射的にそう言っていた。しかし、尚もジャネットとは目を合わせなかった。だから余計に彼女は面白そうにして、

「だいじょーぶよ、ジョンがシャーロックより弱くったって、アタシがジョンを守ってあげるから」

 繋ぐ手を引き寄せ、ジャネットは幼年ジョンを強く抱き締めた。途端、全身を固くしたジョンの顔がみるみる赤く染まっていく。

「お、まっ、そ――、だ、だからこういうことはやめろ……!」

 幼年ジョンがジャネットを無理矢理引き剥がして、早足で先を急ぐ。ジャネットは笑いながら、逃げる彼を追い掛けた。

 ……自分を客観視する機会は滅多にないだろうが、胃が痛くなるだけで、何もいいことはないなあと、ジョンはちょうど胃の辺りを擦りながらそう思った。


 坂を登った先に、ジョン達が住む地域の教会堂はあった。尖塔アーチに交差リブ・ヴォールトといったゴシック様式を用いられて造られた、小さいながらも静謐な雰囲気を纏うその建物に、ジャネットよりも一足先に着いた少年ジョンが、木製の扉を開いて中に入る。

 教会は伽藍がらんとしていて、重量を感じるような沈黙が漂っていた。身廊の脇を木製のベンチが幾つも並んでいる。つまらない景色だと幼年ジョンが鼻を鳴らそうとした時、祭壇に誰かがいることに遅れて気が付いた。


 そこには少女がいた。

 頭を垂れ、手を組み、バラ窓に嵌め込まれたステンドグラスから降り注ぐ色様々な陽光に照らされながら、十字架の前にひざまずく少女。


 幼年ジョンはその姿に、その光景に、息を忘れた。彷徨さまようかのようにフラフラと、少女の下へと静かに歩を進めた。身廊を進み、祭壇に差し掛かる所で、彼は足を止めた。

 幼年ジョンと同じように、ジョンも彼の横で立ち止まり、目を閉じた。間違いなくこの日のこの瞬間だったと、自分がこの少女に心惹かれるようになったのは、この瞬間からだったと実感していた。


 簡素な白いワンピース。かしただけの長い金髪を背中に流し、少女は身動ぎ一つせずに膝を付いて座り、胸の前で両手を組んでいた。閉じた瞼の睫毛すらも震えていない。

 ――美しいと感じるモノを、ジョンはこの時初めて見た。美しく、尊く、近寄り難く、そして余りにも気高い。

 時間が止まったような錯覚。幼年ジョンは祈る少女を正面から見下ろしながら、呼吸すら出来ずに口を小さく開けたまま、立ち尽くしていた。

 何を彼女は祈っているのか。その祈りは誰に捧げるものなのか。

 その祈りは感謝、賛美、嘆願、敬愛、告白、悔改――。果たして如何なる意味を持って、彼女は祈りを捧げているのか。


「何を……、諦めたの?」


 諦観――。しかしジョンは、少女の祈りにそんな印象を抱いた。それは一体なぜなのか、その理由を知ることは叶わなかった。

 幼年ジョンからふいに声を掛けられても、少女は驚いた様子を示さなかった。ゆっくりと瞼が開き、顔を上げた少女が彼を見詰めると、首を振った。


「いいえ、何も諦めたりしていないわ。祈りは――、願いは、きっといつか叶えるから」

 そう言って、少女――ジェーン・ワトソンははにかむように微笑んだ。


 教会の扉が開いて、遅れたジェネットがようやく現れた。ジェーンは立ち上がり、そちらに振り返った。

「ジェーン、先に来てたのね。どうして一緒にジョンを連れて行かないのよ」

 責めるようにジャネットはジェーンに詰め寄る。しかしジェーンは小さく笑いながら、

「だって、ジョンに洗礼なんて必要ないから」

「そんな訳ないじゃない。どうしてそう思うの?」

「ジョンはもう――、知っているから」ジェーンはジョンをチラリと見て、「願いも祈りも、ジョンには必要ないのよ」

「はァ? どういうこと? ――ちょっとジョン。アタシの妹に何を吹き込んだのよ!」

 剣呑な目付きで、ジャネットが幼年ジョンを睨んだ。ジェーンを自分に抱き寄せ、まるで彼から守るようにしながら。

「おい、待てよ」幼年ジョンのこめかみが震える。「なんでそうなるんだよ、えッ?」

「二人きりで何を話してたのよ、いやらしいったらありゃしないわ!」

「なんでジェーンと二人で話してるだけで、そんなことを言われなきゃならねえんだよ!」

「アタシを置いていったのは、そういうことをする為だったんでしょ!」

「はァ? お前、何言ってんだよ」

「ジェーン、落ち着いて。ね?」

「な――何よ、もう! アタシだけ除け者にしてッ」

 悔しそうに地団駄を踏むジャネットを、ジェーンが優しく抱き締める。

「もう、ジャネットは置いてきぼりにされて寂しかったのね」

「な、え、ちょ! ち、違うわよ!」

 先程までの怒気はどこに行ったのか。ジェーンにそう言われた途端、慌てふためいてオロオロし出すジャネットを見て、「もうなんなんだよ」と少年ジョンは呆れ顔になった。


「他人の言葉の意味を上手く汲み取れないような奴が、果たして探偵になんてなれるのか?」


 ジョンの背後、祭壇脇の扉が開き、聞き馴染みのある声がした。草食動物が肉食動物の気配を察知したかのような素早さで、幼年ジョンがそちらに振り返った。

 ジョンも同じだった。過去の自分がいるのなら、この男が夢に登場してもおかしくない。


 口に咥えたパイプから煙を燻らす壮年の男性。インパネス・コートを身に着け、紳士然としたその男こそ、世界で最も高名な探偵にして、「最強」、「無敵」、「英雄」、果ては「対悪性特攻兵器」とも称されるジョンの父、シャーロック・ホームズその人である。

 オールバックに固めた黒髪、息子と同じ碧の瞳。コートの裏に隠した強靭な肉体は、しかし聡明な頭脳があってこそ力を発揮する。数多の敵を退け、積み重ねて来た勝利はもはや数え切れない。口元に湛える余裕気な笑みは、見る者全てに「只者ではない」といった印象を与えていた。


 しかしその微笑を、ジョンは強く睨み付けた。

「なんでお前がここにいるんだよこの糞親父!」

 あまりにも流暢な早口と共に、幼年ジョンはシャーロックとの距離をあっという間に詰め、上段構えから素早いジャブを繰り出す。

「フ――」

 吐息とも笑い声ともとれる声を口から発し、シャーロックが幼年ジョンの拳を手で受け止めるや否や体を沈ませ、空いた手で少年ジョンの体を持ち上げ、軽く吹き飛ばしてしまう。

「うぎゃあァッ!」

 背中から落下し、体を強かに床に打ち付けた幼年ジョンは悲鳴を上げた。それを見たシャーロックは心底愉快そうに笑った。

「ハッハッハ! 俺に不意打ちをかまそうだなんて、十年――いや、百年は早いな!」

 我がことながらあまりの無様さに、ジョンは目を逸らさずにいられなかった。


 腰に手を当てて高笑いを続けるシャーロックの後ろから現れたのは、ジェーンとジャネットの父、ジョン・H・ワトソンだった。目の前の状況を一目見るや、「またか」と呆れていた。

「子供を投げ飛ばす奴があるか。程々にしておけよ、君」

 黒柿色のソフトモヒカンに娘達と同じ紺碧の瞳。絶えず眉間に寄る皺は、主にシャーロックが原因で強いられる苦労から刻まれたものだった。細身の黒いモッズスーツに身を固めた彼は、三つ編みに纏めた顎鬚を擦りつつ、仕方なさそうに溜め息をついた。


「何――、この程度でへこたれる奴が、俺の息子な訳がないだろう」

「したり顔で何を言っているんだ、君は」

 やれやれと頭を振るワトソン。シャーロックはそれすらも可笑しそうに笑った。

「シャーロック!」

 ジェーンが声を上げて駆け寄り、シャーロックに抱き付いた。幼年ジョンはその光景を、床に倒れたまま見上げていた。

「ずっと中にいたの? どうして顔を見せてくれなかったの?」

「神父と話をしていたのさ」

 シャーロックはジェーンの頭に手を置いて、わしゃわしゃと乱暴に撫でた。

 鷲掴み出来そうなくらい大きなシャーロックの手に頭を撫でられ、ジェーンは恥ずかしそうに頬を朱に染めながらも、恍惚とばかりに目を閉じた。

 幼年ジョンは忌々しそうに父を睨む。更にジェーンをも睨みながら、父にそんな顔を向けないでくれと、拳で床を叩いた。


「いつまで寝てる気?」

 ふてぶてしいながらも案ずるような声。幼年ジョンがそちらに目を向けると、「んっ」とジャネットが手を突き出して来た。

 しかし幼年ジョンはその手を取らずに不機嫌そうな表情のまま、自分の力で起き上がった。

 ジャネットはそれを見て、少し傷付いたような顔をしたが、すぐに気を取り直し、

「元気出しなさいよ。しょうがないじゃない、シャーロックは強いんだから」

「…………」

 幼年ジョンは答えず、ジャネットから目を逸したまま、目元を拭う。情けなくて、悔しくて、涙を流しそうになっていた。それを目聡く見ていたジャネットがニヤリと笑うが、彼女が何かを言う前にワトソンに頭を叩かれた。

「お前は他人を追い詰めるような真似をするな。まったく、少しは淑女らしさをジェーンから学んだらどうだ」

「な、なんでそんなことを言われなきゃならないのよ! 大体、ジェーンは絶対に淑女なんかじゃないわ! アタシなんかとは比べ物にならないくらい、えげつない奴なんだから!」

 そんなものを比べるんじゃないと、ワトソンは更にジャネットの頭を叩いた。不公平だと訴える彼女を尻目に、今度はジョンの肩を叩く。

「強い奴は強い。まずはその強さを認めるところから始めるんだ」

「…………」

 ワトソンの助言にすら、幼年ジョンは悔しさから頷けない。それを察したワトソンは「しょうがない奴だ」と苦笑しながら、ジョンの肩をまた叩いた。


 ワトソンはいつだってこうだったと、ジョンは懐かしむようにそう思った。いつだって自分を鼓舞してくれたり、励ましたりしてくれたし、的確なアドヴァイスだってしてくれた。なんでも体で教え込もうとする父と違い、理屈や理論で話をしてくれた。あれは本当に助かった――と、今更ながらジョンはワトソンに感謝した。


 五人の声が教会の中に響き渡る。ジョンはその様子を身廊の中程から、愛おしそうに眺めていた。

 もう戻って来ない人達と会うには、夢を見るしかないのか――。ジョンは知らず俯いて奥歯を噛み締め、拳を震わせていた。


「――ジョン?」

 ハッとなり、ジョンは顔を上げる。視線の先には幼いジェーンがいた。彼女は小首を傾げながら、心配するようにジョンを真っ直ぐに見上げていた。

「嗚呼……――」ジョンの膝が崩れ落ちた。震える手でジェーンの肩に両手を置き、懺悔するように言葉を堕とす。「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。約束したのに、自分に誓った筈なのに。何も出来なかった。手を伸ばすことすら出来なかった。僕は何も出来ずに、君と親父とワトソンを――」

 謝罪、謝罪、謝罪。罪の告白、罰の独白。幸福な筈の光景に、「現在」という異物が混ざる罪過。今までもこれからも、己の無力さを痛感していく呪縛。

「……そうね。貴方は、何も出来なかった」

 ジェーンがジョンの手を握る。潰すように強く、責めるように強く。

 ジョンが顔を上げたその直後、彼の顔が引き攣っていく。


 小さなジェーンが、静かに微笑む。その口の端から血が滴る。その鼻から血が落ちる。その目から血が流れる。額が、頬が、首が、胸が、腕が、腰が、脚が、まるで潰れいく果実のように血を吹き出していく。


「あ、あ、あ、あ――ッ!」

 ジョンの口から引き裂けた嗚咽が零れる。一歩、また一歩と後退あとずさりながら、やがて一目散に駆け出して教会の扉を殴るように開いて、外に出た。


 外に出た途端、ジョンを招いたのは一面の闇だった。黒一色の、何も無い暗闇。

 何もない筈なのに――、目の前にジェーンが横たわっていた。「あの日」のように、ジョンを庇って倒れた「あの日」と同じように、両手を広げ、俯せに倒れていた。

「っ、あ、ぁあ、あ……ッ」

 ジョンが言葉にならない音を口から発する。

 ジェーンの奥にはワトソンが倒れていた。更にその隣にはシャーロックが倒れていた。


 ――「あの日」と同じように。「あの日」と同じように。「あの日」と同じように。

 皆、自分の為に死んだ。自分が不甲斐ないばかりに、自分が何も出来ないが余りに。


 自分は託されたのに。この体に刻まれた「キズ」は「キズ」は「キズ」は、決して何かの過失や損失ではなく、世界に残す「アト」と「アト」と「アト」として――。


「ジョン……、どうして……?」

 背後からの声に、ジョンはバッと振り返った。――修道服を血で真っ赤に染めたジャネットが、そこにいた。

「うわああああ――ッ!」

 ジョンが今度こそ悲鳴を上げた。尻もちをつき、恐慌した顔でジャネットを見上げる。

 ジョンは、フラフラと覚束ない足取りで歩を進めて来るジャネットから逃げるように這い蹲りながら、後ろへ後ろへと下がっていく。

 やがてジョンの背中が何かにぶつかった。恐る恐る、震えながらジョンが振り返る。

 立ち上がったジェーンが、虚ろな目付きでジョンを見下ろしていた。

「…………!」

 声を上げることも出来ず、ジョンはただ地に這い蹲ったまま動かなくなった。


「約束、したのに」


 ジェーンが胡乱な声でそう言った。

「……やく、そ、く……?」

 やくそく、やくそく、やくそく……? どこかで聞いた覚えがあった。何か、大事な約束を、僕は――、

「……やく、そく……?」


 何か大事な約束を、誰かと交わしたような気がしたけれど、何も思い出せない。


 ジョンの両脇に、ジェーンとジャネットが倒れる。ドサッという音を最後に、ジョンの世界に音が無くなった。


 無音、無音、無音。無明、無明、無明。ジョンは目を見開いたまま、何も無い世界で座り込んだまま、四人の死体が腐っていく様をただ黙って見詰めていた。

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