第11話


「もういやだああああああああああああああああああ────っっ!」


 眞己は心の底から叫んだ。目には涙まで浮いていたかもしれない。


「やってられるかぁっ! こんなんっっ!」


 特訓だか修行だとか銘打っている拷問に音を上げた。

 それはそうだろう。時刻は夜中、午前三時だ。コンビニでの夜勤がない日は、午後八時時から特訓である。射撃訓練──三時間。各種戦略、戦術論、技術、各種銃器の取り扱いの講義──三時間。格闘技の修練──三時間。これだけで時刻はすでに、午前五時。七時には朝食とお弁当の準備をしなければならない。睡眠時間なんて、二時間もないのだ。特訓を休んだのは、リンが生理なのに無理をして寝込んだときと、前回の肝だめしのときだけである。

 こんなのをすでに、一ヶ月続けている。

 はっきりと死ねる。


 鳴海は眞己を冷ややかに見下ろし、鼻を鳴らした。


「なにを言っている。こんなのまだまだだぞ。私なんて十代の頃は睡眠時間なんて、三十分もなかったぞ」


「よく生きてるな、あんた……」


 いま思えば、鳴海は朝昼は学校でリンの身辺に気を使い、夜はずっとこの特訓に付き合っている。眞己が知らないこともいろいろやっているんだろう。

 それに十代の頃といえばリンを護るために、医師免許やら、薬剤師の免許やら、銃器の扱い方やらを学んでいるときだ。それは寝る暇もないだろう。


「ふん、当たり前だ。燐のためなら、火の中水の中、二十四時間年中無休ノンストップで戦えるぞ」


「それをオレに求めるのは無理だから。っていうか、護衛が他にもいるのにオレを鍛える意味があるのか?」


「なにを言っている。絶えず燐のそばにいるのは貴様だろう。この前のようにいざとなったときに、即対応できるのは貴様だけなんだからな」


 それはそうだが。


「お願いです。本気で休みをください。オレは貴女みたいな超人じゃないんです。このままでは壊れてしまいます」


 眞己は土下座をした。しかも泣きながら。

 それを、見下ろしながら鳴海は一言。


「情けない」


 その声は北極の氷よりなお冷たかった。


「そんな情けないヤツには、睡眠時間二時間なんてもったいないな。──十五分ぐらいでいいか?」


「いいわけあるかあああああああああああああああああ! ──って、ほんとにお願いします。一回でいいんです。休みをください」


 鳴海がため息を吐くのが聞こえる。何かを思案するようにあごに手をやる。


「まあ、いいだろう」


「ほんとにっ?」


 まさか本当に受け入れられるとは思わなかった。


「ただし──」


 獰猛な笑みでこう続けた。


「──組み手で私から一本とれたらな」


「それ人類には無理だから」


 即答だった。


 眞己は彼女から一本もとったことがなかった。

 無茶苦茶強いのだこの人は。握力は百五十を越えているし、各種格闘術はもちろん暗殺術や銃器の扱い、車から戦闘ヘリまで操ることができる運転技術、さらには毒や薬の知識まで、これぞ本当のワンマンアーミーである。


 こんな超人に人類が敵うはずがないのだ。初っ端の組み手から、一切の抵抗もできず、殴られ、蹴られ、投げられ、絞められ、関節を極められた。そして初日から五度ほど気絶させられ、そのたびに水を浴びせかけられ起こされたのだ。喧嘩には多少の自信があるつもりだったが、その自信も男としての矜持も木っ端微塵だった。


「そうか残念だな。勝てたら映画のペアチケットもつけてやるのに。確か──かれんが観たがってたな、この映画」


 その言葉を聞いた瞬間、眞己は立ち上がり構えをとっていた。


「覚悟しろ! この乱暴教師! 今日こそは床に這い蹲ってもらうぞっ!」


 眞己は受けたった。

 愛は全てを越えるのだ。


 そして──

 眞己は鏡の前で身嗜みを整えていた。


「ん、眞己どっか行くの……?」


 リンが寝室から出てきた。少しだぼっとしたパジャマを着ていて、袖で隠れた手で目をこすっている。というか半分夢の中にいるのでは、と思えるぐらいふわふわした歩き方だ。


「ああ、ちょっと出かけてくる。朝食は用意しといたから、食い終わったら食器を流しにいれて水を張っといてくれ」


「ん~。わかった……。ボクも一緒に行くから食べ終わるまで待ってて……」


「いや、わかってないだろ、お前。人と約束してるから、おとなしく留守番してろって言ってるんだ」


「え? 留守番?」


 ここで頭が回転し始めたのか、目に理解の光が宿った。


「ボクを放って、どこに行くって言うんだい? キミはボクの護衛だろう?」


「鳴海先生から許可はもらった。リンも四六時中オレと一緒だと息が詰まるだろう?」


「そんなことな──」


 ここでリンは口をつぐんで首を振り、


「いや、さっき人と約束って行ってたけど……」


「ああ、かれんちゃんとね。映画を見に行く約束をしたんだ」


 頬が緩むのを抑えることができない。まさか本当に鳴海から一本取れるとは思わなかった。さらに言えば、かれんちゃんが誘いをオーケーしてくれるとは思わなかった。これこそ愛の奇跡だろう。


「……かれんと?」


「ああ、外出届けは寮長に出してあるし、抜かりはないぞ」


「へえ」


 どこか不機嫌そうにリンが時計に目を移した。


「って、まだ七時前じゃないか。何時に待ち合わせしてるんだい?」


「十時だ。約束の三時間前行動はデートの基本だろう」


「いや、絶対に違うと思うけど……」


「そうか?」


 まあ、いい。


「映画を見てから、昼食を一緒に食べて、ぶらぶらとウインドウショッピングと洒落込もうと思っているんだがどう思う?」


 リンは鼻を鳴らして、そっぽを向いた。


「……知らないね。十五年間も男として育ってきたんだ。ボクは異性と付き合ったことなんて一度もないんだからね」


 あ、なんか冷たい。視線もどこか冷ややかな気がする──が、いまの眞己にはそんなこと気にならない。


「よし、キマった。じゃあ、行ってくる」


「…………」


 リンは何も言わずにまさみの背中を睨んでいた。



 そして待ち合わせ場所。


 一時間待った。約束の時間まであと二時間。なんで待つだけなのにこんなに愉しいのだろう。


 二時間待った。約束の時間まであと一時間。天にものぼる気分である。


 三時間待った。約束の時間だ。ここでやっと不安がもたげた。


 彼女が来ていないのだ。

 どうしたのだろう、かれんちゃんは約束の十分前には必ず来るような子なのに。もしかして事故に、いや病気に、いやいや、ただ時間を間違っているだけかもしれない。

 こんなときは携帯電話を持っていないことが悔やまれる。どうするべきか、公衆電話──いや、その間にかれんちゃんが来たら。いやでも──

 眞己は煩悶としていた。


 そして、四時間待った。でも眞己は動けなかった。


 五時間、六時間。


 時間は無情にも過ぎていいた。

 太陽が中天に上がり、そしてとうとう沈んでいこうとしている。

 そして──


 待ち人は来た。

 ただ彼女は一人ではなく。


 ──リンと共にいた。




 寮に戻った眞己は、リンに詰め寄った。


「どういうことだよ!」


「なにが?」


 リンは玲瓏な瞳でこちらを見上げてきた。


「なんでお前が、かれんちゃんと一緒にいたんだよッ!」


 リンは答えなかった。


「オレとかれんちゃんが約束をしていたこと知ってただろ。なのに、なんで!」


「やめなよ」


「あ?」


「かれんはやめときなよ、眞己。望みないよ」


「なんだよ、それ」


「ボクが誘ったら彼女、簡単についてきたよ。眞己との約束なんてないとばかりにね」


「……なんだよ、それ……」


 呆然としたのは一瞬だった。それが過ぎ去った後にはただ怒りしかなかった。


「ふざけるなよ……ッ」


 眞己はリンの襟首を掴み引き寄せた。リンに対してここまで激昂したのは初めてかもしれない。


「なんで、そんなことをした……ッ」


「なんで……?」


 冷然とした目でリンが眞己を見上げた。その目は真冬のように凍てついているのに、その奥には激情のような炎を宿しているようにも見えた。


「本気で、そんなことを訊いているの?」


 その眼差しの強さに気圧された。それでも目はそらさなかった。


「ああ、そうだよ。オレは本気でかれんちゃんのことが好きだったんだ。それをお前は……ッ。友達だと、思ってたのに……」


 友達、という言葉を聞いた瞬間、リンの顔が歪んだ。まるで泣くことを我慢する子供のように──


 それに彼女の襟首を掴む手が緩んだ。逆にリンが眞己の襟首を掴んできた。彼女の顔が近づく。


 ──唇にやわらかい感触が押しつけられた。


「…………っ!」


 反射的にリンの身体を突き飛ばしていた。彼女が踏鞴を踏む。


 今の出来事が信じられなくて、無意識のうちに口唇を手の甲で拭っていた。

 それにリンが傷ついたような顔をする。


「あ──」


 思わずリンに向かって手が伸びた。

 それを乱暴に払われ、返す手で──頬をうたれた。

 鼓膜が破れなかったのが奇跡と思えるほどの威力だった。眞己は吹き飛ばされるように倒れた。


「バカ……っ。大っっ嫌い──」


 揺れる視界の端に、リンが走り去るのが見えた。錯覚でなければ彼女は、──泣いていた。


「まっ──」


 眞己はリンの背中に向かって手を伸ばした。

 だが、その手がは届くはずもなく、リンの背中は扉の向こうに消えてしまった。


 眞己はそれを呆然と見つめながら、動くことができずにいた。

 心のどこかでは追わなければいけないと、わかっていたのに。

 だがそれでも、それと感情は別だった。

 なぜ人の恋路を邪魔されて、逆ギレされなければならないのだ。しかもアレだ──


 ──ファーストキスを奪われたというやつだ。

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