謙介21
ホテルの部屋に戻ると、謙介は「頼みがあるのだけど」と言って、旅行鞄からポッキーを出した。
真維は吹き出した。
「やだあ、バイヤーさんみたいなことしないでよ。ヒロ君のツィッターを見たのですね」
大翔はヒロ君と呼ばれているのかと思った。そして、気になっていたことを尋ねた。
「ファンの人は名前とか住所とか電話番号とか書類に書いて、登録したりするの?」
「いいえ、一切ないです。通称というのですか、自分がこれこれです、と名乗ったら、それが呼び名になるのです。名字の人もいるし、名前だけの人もいます。あだ名の人もいます」
「それなら、偽名でもいいのか」
「そうですね。偽名の人もいるかもしれません。が、誰も詮索もしなければ、気にしさえもしません。日常の嫌なことや辛いことなんかすべて忘れて、夢中になって思い切り楽しむ、それがライブの楽しみだと思いませんか?」
「うん、確かに。それがライブの醍醐味だな」
「私、アイドルは夢を売る商売だと思っているんです」
「そうなんだ。なんかファンの人が羨ましくなってくるなあ。あ、そういえば運営やファンのブログやツィッターの写真を見てて思ったのだけど、ファンのブサイク率は高いよね?」
「そんなことないですよ。さっきのヒロ君も可愛いですよ。話していると、なぜか小林さんを思い出すのです。関西人だからかなあ」
大翔は家内似なので、顔はあまり謙介に似ていない。しかし、やはり親子なので、他人が見たら、話し方とか醸し出す雰囲気とか似ているところがあるのだろう。
息子だから似ていて当然だと一瞬告げようかと思ったが、その事実を明らかにすると、自分と彼女だけでなく、自分と大翔、大翔と彼女の関係もすべて軋み始めるような気がした。
今はすべてが上手くいっている。内緒にし、自分の胸の内に仕舞っているのが正解だと思われた。
「でもね。ドルオタと言うのかな?アイドルオタクのツィッターのアイコンの写真とかはキモいのが多い」
「ツィッターのアカウントはいくつも持てるの。だから、あれはテンカラ用で、別の時には別のを使っているのです。さっきのヒロ君も彼女がいると言っていましたよ」
あいつが?
嘘つけ。
彼女なんているはずがない。見栄を張りやがって。
しかし、真維はそれを疑いもせずに信じている。三十を過ぎ、こういう芸能の仕事をしていて、入院費のためとはいえ交際倶楽部にも登録しているので、酸も甘いも噛み分けている女性だと思っていた。が、意外に素直で人を疑わない純粋なところがあるのだと知って、彼女の新たな面を見たような感じがした。
「では、そろそろしょうか?」
謙介はポッキーを口に咥えた。
「あれは特別なロングのもので、普通のではないのだけどな」
ぶつぶつ呟きながら、彼女は片端を咥える。謙介の目の前に彼女の顔が来た。
「やだあ、やっぱり近過ぎます」
彼女は顔を離した。
「大丈夫、大丈夫。もう一度だけ、お願い」
手を合わせる。
「もう。では、行きますよ」
もう一度、目の前に瞳が来た。
彼は衝動的に、ポッキーをパクパクと食べ進み、彼女に口づけをし、そのまま、ベッドに押し倒した。
行為の後、真維は言った。
「もう、バイヤーさんなら、キスなんかしたら出禁、永久追放ですからね」
「いいよ。別に出禁でも。どうせライブに行かないから」
「そうね。小林さんが来たら、すごく目立つわ」
どういう感じで目立つのか気になったが、大翔がいるので、ライブに行けるわけがない。
「さっき話していて、思い出したのだけど、ガロさんというバイヤーさんがいるのです」
「ガロ?……学生街の喫茶店?」
「えっ?なに?」
「いやいや、何でもない」
そんな昔のフォークグループなど、彼女が知っているわけないか。
「で、そのガロがどうしたの?」
「私、その人のこと、大嫌いなのです」
「君がファンの悪口を言うのは珍しいな」
「ええ、私、他のバイヤーさんに嫌いな人はいないのだけど、あの人だけは苦手なの。「まいは俺の女だ。お前ら手を出すんじゃないぞ」という感じで、他のバイヤーさんを威圧して私から推し変させようとするの。
さっきのヒロ君は、さっきの陸橋でビラ配りをしてた時にビラを受け取って、バイヤーさんになってくれたのだけど。
テンカラにはデートが出来るイベントがあるのです。デートと言ってもスタッフが一緒だし、手も触れられないのだけど。
それで、デートをしたいバイヤーさんが複数人いた場合は、ジャンケンをして買った人がデート出来るのだけど、初めて参加した人にはデートの権利を譲るという暗黙の約束事があるのです。でも、ガロさんは騙して、ヒロ君からその権利を取り上げたのです」
「どんな方法で」
「仕事でしばらく来れないからと嘘をついて、ジャンケンで決めようとか言ったらしいの。それで二人でジャンケンして、ガロさんが勝ったみたい。いつもやり方がずるいというか、卑怯で汚いのです」
そうなんだ。相変わらず勝負弱いなと、謙介は大翔に同情し、ため息をついた。
しかし、あいつは人付き合いが苦手で、争いごとは避ける性格なのに、譲らなかったのには驚いた。
幼い頃、デパートのおもちゃ売り場に行った時、体験で遊べるテレビゲームみたいなものがあって、遊びたい幼児達が並んでいた。大翔も並んで、やっと自分の番になった時、他の子供が突然横から割り込んできた。しかし、大翔は怒ることも文句を言うこともなく、その子が遊ぶのを、照れ笑いのような笑みを浮かべて眺めていた。そんなことを思い出した。
「そういえば、みんながいじめるからライブに行けませんという、メンヘラの人がいたけど、本当にいじめられたのかな?」
「メンヘラ……」
真維は吹き出した。
「もう。いつもめっちゃくちゃ口が悪いですね。でも、確かに被害妄想なところがある人です。スタッフが何人もいるので、いじめられることはなかった筈です。だけど、誰かに何か嫌味なことを言われたんだとは思います」
「ファンのことで思い出したのだけど。悪口言うなとか、上から目線で言うなと、怒られるかもしれないけど、五十くらいの貧乏そうなファンがいるでしょ?」
彼女は悪戯っぽい目をして、クスクス笑った。
「そんな人いっぱいいますよー。どなたかしら?」
「いや、名前は覚えていないんだけど。……とにかく、その人のツイートを読んだら、テンカラットだけでなく、色々なグループのライブに行っているみたいだよ。貧乏そうなと言ったのは、サマフェスとか大感謝祭は入場料が高いから行かない、今日は別のグループの安いライブに行きますとか書いていたから」
「そうなんですね。私の推しのバイヤーさんや他のメンバーの推しでもよくライブに来てくれて顔馴染みの人のツイートやブログは読むんですが、あまり来ない人のツイートは分からないですね」
「うん、まあ、それでね。僕が言いたいのは、その人は毎週末に君達のようなアイドルと会って、話をしたり握手をしたりチェキを撮ったりすることを楽しみにして、日々の仕事や生活を頑張っているのだなと思ったんだよ。
その人だけでない。特別辛いことや嫌なことがない平時でさえ、毎日生きぬくには多大なエネルギーを必要とする。その原動力を君達はファンに与えている。
さっき、アイドルは夢を売る商売って言ったでしょ。アイドルは夢だけでなく、人に生き甲斐や希望や元気を与える素晴らしい仕事だなと思ったんだよ」
そう言いながら、君は自分にも息子にも生き甲斐と生きる活力を与えてくれていると心の中で呟いていた。
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