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晴曇空

或る日の回想

 数年ぶりに俺はこの街に帰ってきた。特に交流のある友人がいるわけでもなければ、親戚とかがいるわけでもないけれども、一つの目的を果たすためだけに、この街に帰ってきた。

 この街には嫌な思い出が殆どだ。色々な苦痛を強いられてきたし、ずっと続くと思っていた、ごくありふれた幸福が終わったこともあった。思い出せば思い出すほど嫌な思い出で思考が埋め尽くされていく。

 それじゃダメだと頭を振って、俺はまだ雪が残る空港のロータリーでタクシーを拾って、街中まで移動する。未だに空港周辺は住宅地が広がっていて、観光地までのアクセスが異常に悪い事に内心で笑った。

 空港から一時間ほどでJRの中心駅に到着した。相変わらず少しずつ順調に寂びてきている風景に、少し懐かしさを覚えながらも、とりあえず昔の記憶を上書きする為に、宛てなく歩き回ることにした。

 思えば昔はそれ程街中に来た記憶があまりない。理由は親父が家から出たがらなかったからが大体だが、まあ俺自身も街中に出掛けたところで、何を買うわけでもなかったし、大した用もなかったから進んで行こうともしなかった。

 それでも、断片的な記憶は残っているもんで、一つ裏路地に入れば、「あぁ、そういえばこんな場所あったな」とか、「この店まだやってるんだ」とか、そう言う小さな思い出がちらつく。だが、それと反対に、記憶の中の店と違う店になって居たり、シャッターが閉まって不動産屋のチラシが貼ってあるのを見つけると、どこか寂しくなる。テレビや雑誌で度々取り上げられるこの街だが、やはり順調に寂れてきているようだ。


 昼過ぎ、俺はJRの中心駅から二駅先の、郊外の駅まで向かった。些か観光客が来るような場所ではないが、俺にとっては切っても切り離せない場所だ。

 新しい家々が増えた印象がある赤松は生えた街道を南下すると、幼い頃散々ごね倒して買って貰った全国チェーンのドーナツ屋がある。大分前からある店だった気がするのだが、綺麗に塗り替えられており、未だに客が来る店だということを、無言で示していた。

 さらに南下すれば、そこには俺が通っていた小学校がある。俺が卒業する頃には、児童が増えすぎて教室が足りるか、という話も出ていた程の学校だから、廃校になる心配は全くしていなかったが、どうやら今もその心配はいらなさそうだった。

 さて、そこからは記憶を頼りに小学校の時の通学路を歩く。結構色々家々が建っていた気がするのだが、案外そうでもなく、かといって廃屋が増えたわけでもなく、純粋に俺の記憶違いだったようだ。見覚えのある新聞販売店の前の信号は相変わらず古く、そこを渡って更にまっすぐ行くと、開発された住宅地と、変わらない古いマンションが俺を出迎えてくれた。そこは特に変化という変化もなく、ただただ見覚えのある、懐かしい景色が広がっていた。

 突き当りの歪な交差点を左に曲がると、俺が幼いころにそれなりに遊びに行った三角形の公園の前に出る。だたっ広い砂利の部分と、その端っこに申し訳程度に設置された新しくなった遊具はそのままだった。

 その先の、もう話すこともなくなった幼馴染がバイトしていた居酒屋の前を通り、そのもう少し先に進んだある一軒家の前で、俺は立ち止まった。赤い屋根に、黄色く塗り替えられた洋風な一軒家。これこそが、俺がもう二度と手にすることが出来ない幸せの跡地であり、今回帰ってきた唯一の目的の場所だ。

 別に入るわけでもないし、そもそも今はもう他人様の家となってしまってはいるが、大事にしてくれているようで、死んだ祖母ちゃんの為に作った畑には、まだ青いナスや、花の苗が綺麗に植わっていた。今はどういう使われ方をされているかは分からないが、昔の俺の部屋だった場所の、柱の一本にペンで俺の名前が書かれていることは、きっとこの家の今の主は知らないだろう。機会があれば買い戻したいところだが、その機会はきっと一生めぐっては来ない。そもそも、こうして過去の思い出に縋っているこの行為自体がおかしいのだろうし。

 一抹の感傷を旧家の軒先に置いて、そこから真っすぐ進めば、俺が小さい頃よく家族と通っていたラーメン屋がある。何の下調べもせず来て、やっているか心配だったが、どうやらやっているようだった。


「いらっしゃい……――あっ」

「どうも、お久しぶりです」

 どうやらラーメン屋のおばちゃんは、図体もでかくなった俺の事を覚えてくれていた。会釈一つして、窓際の席に座る。お品書きは相変わらず変わっていなかった。

「久しぶりじゃない、元気だった?」

「えぇ、お陰様で」

「それは良かった。注文は決まってる?」

「はい、いつもので」

 こってりの醤油ラーメンとにんにくががっつり効いた餃子。それがいつも注文していたメニューだった。この街を離れてもう長くなるが、未だにここ程美味いと思えるラーメンと餃子に巡り合えたことはない。

「それにしても久しぶりだねぇ、最後に来たのは大学入る前だったっけ?」

「えぇ、婆ちゃんの墓参りで母さんと帰った時以来ですね」

「それで今日は母さんは?」

「置いてきました。まあ、忙しそうだったので」

「あらまあ」

 そんな世間話をしていると、待望のラーメンと餃子がやってきた。うん、香りは相変わらずだ。

「ごゆっくり」

 おばちゃんが厨房に戻っていくのを見届けて、俺はラーメンにあらびき胡椒をこれでもかというほどつぎ込む。もちろん胡椒なしで美味いのは言うまでもないが、それが俺の“いつもの”食べ方だった。

――美味い。

 やはりここのラーメンが一番俺に合っている。こってりとしたラーメンスープに、小さい背油がめちゃくちゃ入って、それに自家製チャーシューに黄色い中太縮れ麺。麺とスープが絡み合って、もうそれはよく食べに来ていたあの頃にタイムスリップしたような気分になった。よくある『懐かしのラーメン』っていう味ではないが、これこそが俺の大好きなこってり系のラーメンだ。引っ越していなければ、間違いなく未だに通っていたと言い張れる味。

 餃子の方はパリパリと焼き色のついた皮をかぶりつけば、中からそれはもう洪水と形容してもし足りない程の肉汁があふれてくる。本来は五個で一皿なのに、皿には六個乗っけてくれていた。

「美味しかったです」

 あまりの懐かしさと美味さに、我を忘れてがっついて、気付けば完食、俺にしては珍しくラーメンはスープも残さずに食べた。それくらい美味かった。

「そりゃあ良かった。あそこまでがっついてたもんねえ」

 そう言いながら会計して、終わるとおばちゃんが舌をぺろっと出した姿が特徴の女の子が印刷されたキャンディーを渡してくれた。

「またお待ちしてます」

「はい、絶対。今度はいつ来れるか分からないですけど」

 そう会釈して、俺は店を出た。

 そのラーメン屋からそのまま更に北上すると、俺の母校の中学校の横のT字路に出る。このまま入っていこうかとも思ったが、大した思い出もないし、きっと俺を知る先生ももういないだろうから、それはやめておいた。公立中学校の悲しい性だ。

 さて、そろそろ良い感じに日も暮れてきて、土地勘はまあ残っているとは言え、暗くなっては身動き取れなくなる可能性もあるので、足早に戻って、旧家の前に戻る。旧家からはカレーの良い匂いがして、暖かな白熱灯の光がブラインドの隙間から漏れていて、遣る瀬無い寂しさを感じた。それを振り切るように左に曲がって、小さいころよく来た、コンビニチェーンの前に出て、国道五号線をひたすら街に向かって歩く。どこかでタクシーを拾っても良かったが、せめてこの周辺だけは、歩きたかった。そして、ホテルに戻った俺は、夕飯も食わず、そのまま眠ってしまった。その夜の夢は、幸せだったあの頃の残像だった。


 こうして一泊二日の俺の最後だろう里帰りは終わった。きっと明日からはまた理不尽な社会に揉まれて、辟易しながら生きていくのだ。ここに住んでいる時も、まあ苦労の連発だったが、それ以上の苦労と、心労を背負わなければならない。

 それを考えると帰りたくないが、今の俺にはあの頃いなかった隣人がいる。その隣人の為にも、帰らなければならない。

 今が幸せじゃないかと言われれば違う、と言い張れる自信はあるが、でも本当の意味での幸せだったのは、あの旧家で好き勝手遊んで怒られていたあの日々だったのではないか――帰りの飛行機の中、窓の外の青空を見ながらそう回想した。

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