黄昏の世界の神々

柊 悠里

第1話 娘に化粧をしてあげてください

「娘に化粧をしてあげてください」


 通夜の受付を担当するためにずっと早く葬祭場に着いていた私たち同期三人を、故人のご両親が棺の安置された葬祭室に招き入れた。そこでお願いされた言葉に激しく心を揺さぶられる。


 お父様が棺の蓋を開けると、そこには見覚えのある白いワンピース姿の生きている時と少しも変わらない眠っているような麻里亜の姿があった。


私の右隣りの香菜が口元を押さえるようにして嗚咽しはじめる。

私の心にも、抑えきれない気持ちが湧きおこった。

〝こんなに綺麗なのに、こんなに若いのに……どうして……どうして〟


「装束はこちらで指定したものを着せてもらいました。でも今風のお化粧の仕方が判らなくて……一番きれいな姿で皆様に……お別れさせてあげたくて……」

お母さまは目頭を押さえながら、途切れ途切れに私たちに話しかける。


傍らの沙織の表情がぐしゃぐしゃに崩れていく。両目から堰を切ったように涙が溢れ出す。

「……無理です。私には……できません……」

沙織は泣きじゃくりながら、絞り出すようにそう答えた。

香菜も口元に当てた手で泣き声をこらえながら首を横に振るばかり。

お母さまが私に向き直り、覚悟をきめたように語り掛ける。

「由紀さん、あなたが一番仲良くしていただいたと聞いています。お願いできないでしょうか」


 お母様の言葉を聞きながら、麻里亜と過ごした日々の記憶を思い浮かべていた。

麻里亜との付き合いは入社以来、10年に及ぶ。負けず嫌いで理詰めな私と落ち着いた性格の彼女は、何故かとても馬が合った。

彼女の前では、いつもは押さえている感情を出すことができた。彼女の前で何度泣いたことか。そういう時はいつも笑いながら慰めてくれた。

最後のお見舞いに行った時、ステージ4で長くはないことを淡々と告げられて、彼女の前で涙を止められなかった。

〝由紀は泣き虫だね〟と弱々しく微笑みながら話かけた彼女の顔を思いだす。

〝だって、あなたがいなくなるんだよ! 泣かないなんて……無理だよ〟

そう言って泣いた時に、今日を迎える覚悟ができていたのかもしれない。

傍らの二人の気持ちは手に取るように判った。私も最初に顔を見た時に踏みとどまっていなければ、感情に押し流されていただろう。


 今は不思議と心が落ち着いている。ここには私しかできる者がいないことも判っていた。

「私でよろしければ、お化粧させていただきます」

 そう答えた時、記憶に残っている一番楽しそうに微笑んだ時の彼女の顔が心にうかんだ。

〝そうだ、あの時の顔にしてあげよう〟

 ハンドバッグの中の手持ちの化粧品を心に思い浮かべて、化粧のプランを考え始める。


 手持ちのウエットティッシュで肌を拭き、汚れと皮脂を落としていく。

化粧水は持ち歩いていないのでクリームを塗り保湿してから、ファンデーションで、青ざめた肌を明るい色に変えていく。

 肌に直接指が触れるたびに、その冷たさが彼女の命がここにないことを思い起させ、感情の波が押し寄せてくる。

〝泣いてはダメ、綺麗にしておくってあげないと〟

手を止めてそうつぶやき、しばし心が静まるのを待つ。

 太く、大胆に眉を引くことで弛緩した表情に生きているかのような勢いを与えよう。

睫毛の化粧はカールさせようとしても、少し引くだけで抜けてしまうのであきらめた。

アイシャドーは、暖色系のものをごく薄くいれてみた。今にも目を開けそうな風情に仕上がり、涙で視界がにじむ。

淡いオレンジのチークで、自然な感じの血色を頬に与える。

ルージュはあえて濃い彩りのものを使ってみた。生前、地味なリップの色を好んだ彼女を、濃い色ならもっと綺麗に見えるのに、惜しいなと思っていた気持ちを込める。


 最後にもう一度、細かい部分を見直した時、白い服を着た黒髪の麻里亜の姿、モノトーンに近いその姿の中で唯一濃い紅色の色彩を放つ唇が、かすかに動いたように思えた。

不思議な感覚に驚き、首を振り、目元をこすってもう一度、麻里亜の顔を見つめる。化粧が終わった時とどこも変わりがないようだ。


深く呼吸をしてから、お母様に声をかける。

「麻里亜さんのお化粧が終わりました」

「あ……ありがとう……ございます。こんなに……こんなに綺麗に……していただいて」

これ以上一滴の涙もでないように思われた泣きはらしたお母様の双眸から、再び涙が溢れだす。

嗚咽するお母様の姿が、もう一刻も抗うことのできない感情の波を呼び起こした。

「失礼します」

そう言い残して、逃げるように葬祭室を後にして化粧室に駆け込む。

溢れだした涙はいつ果てるとも知れずに流れ続けた。

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