4.
「おかえり、菊……と、牡丹も一緒なんて」
「珍しいな」と、飄々と後を続けさせる藤助に、牡丹は小さく頷いて見せる。
藤助は、視線を鍋に戻しながら、
「もう少しで夕食の支度ができるからね」
と告げる。
けれど、牡丹はばつの悪い顔をして、
「あの。俺、今日はいらないです」
そう返した。
「えっ!? いらないって、食べないってこと? どこか具合でも悪いの?」
「いえ、そんなことは。ただ、その、ちょっと、えっと……。あ、実は帰りに買い食いしちゃって。それで、あまりお腹が空いてなくて……」
「済みません」と後を続けさせると、牡丹は顔を下に向けたまま階段を上がって行く。自室に入ると、そのままベッドの上に突っ伏した。
枕に顔を強く押し当て。
「……かめないと……、確かめないと。アイツの言ってたことが正しいかどうか、確かめないと……」
まるで自身に言い聞かせるよう、牡丹は何度も何度も唱えると目を瞑る。自然と襲って来る眠気に抗うことなく、素直にそれに従った。
✳︎
キーンコーンと校内中に、終業を告げる甲高い鐘の音が鳴り響く。それに続き、ひょいと扉の隙間から雨蓮が顔を出し、
「牡丹、支度できたか?」
そう問いかけるが、牡丹はバタバタと教科書やらノートを鞄の中に押し込みながら、
「雨蓮、悪い! 俺、今日は用があるから」
それだけ言うと、牡丹は雨蓮の脇を通り過ぎ、教室から飛び出す。
そんな牡丹に、雨蓮はきょとんと目を丸くさせる。
「牡丹のやつ、どうしたんだ? あんなに慌てて」
「さあ。朝から様子が変だったんだよな」
竹郎と雨蓮は互いに不審げな面を突き合わせながらも、慌ただしい様の牡丹を見送る。
一方の牡丹は、ちらほらと廊下に散らばっている生徒達を器用に避け、昇降口を目指して行く。靴を履き替え、今度は校門に向かって小走りで駆けて行く。
が。その最中、ばったりと紅葉と出くわした。
「牡丹さん、帰る所ですか? 珍しいですね、今日は部活お休みなんですか」
「いや、今日はちょっと用があって。それで」
一言、二言、言葉を交わすと、二人はそこで別れる。
――が、牡丹はすぐに立ち止まり。
「あのさ、紅葉。もし良かったで、いいんだけどさ。その、ちょっと付き合って欲しい所があるんだけど……」
暗転。
牡丹と紅葉はそのまま連れ立ち、歩いて行くと、とある施設の前に辿り着く。立ち止まったままの牡丹の隣で、紅葉はぱちぱちと何度も瞬きを繰り返させた。
紅葉は首を傾げさせたまま、口を開かせる。
「えっと、役所ですか?」
「うん。俺一人だと、いつまでも入る勇気が出なそうだから」
じっと建物を見つめていた牡丹だが、生唾を呑み込ませ。意を決すると、やっと中に入って行く。
数十分後――……。
牡丹は役所から出て来るが、数歩進んだ所で膝から崩れ落ちる。
「牡丹さん!? 大丈夫ですか? 牡丹さん、牡丹さん!」
紅葉が何度も声をかけるが、その声は遠くの方で聞こえ。薄らと表面だけを撫でるよう、簡単に流れ去ってしまう。
牡丹は上手く焦点の定まらない瞳を揺らし、一枚の紙切れを前に、拳を強く握り締める。
(本当だった……。朱雀……、ううん、鳳凰定光の言っていたことは、本当だった。
天正桐実――。
それが、ずっとずっと知りたくて、知りたくて堪らなかった男の名前。
母さんが、最期まで教えてくれなかった男の名前。
憎くて、恨めしくて。絶対に復讐してやるんだと、心に誓った男の名前。
そして、一度たりとも会ったことのない、俺の父親の――……。)
感情の赴くまま、力任せに、牡丹は何度も拳を地面に打ち付ける。
じんじんと、鈍い痛みが触れ合った箇所から伝わっていき。薄らと血が滲み出るが、それにも構わずもう一発、牡丹はここ一番の力で叩き付けた。
(……こんな簡単な方法で分かるなんて。アイツに教えられるまで、どうしてもっと早く気付けなかったんだろう)
「なんで……」
「牡丹さん……?」
「なんで初めて会った従兄弟に、親父の名前を教えられないとならないんだよ……!
なんでだよ。なんで、なんで、どうしてこんな形で知らないとならないんだよ――っ!!」
(こんな薄っぺらい紙切れ一枚で、親父の名前が知れたなんて)
あまりの呆気なさに、情けなさに。口先から吐き出されるのは、やり場のない怒りばかりた。牡丹は痛みを感じることも忘れ、ただただ拳を叩き続ける。
けれど、突如柔らかな感触に包まれ。その心地良さに、無意識に動き続けていた手は自然と止まる。ゆっくりと頭を上げさせていくと、不安げな色を帯びた瞳と絡み合った。
「……ごめん、紅葉。もう、大丈夫だから……」
「ごめん」と、もう一度。牡丹は繰り返させると、紅葉は小さく頷いて見せる。けれど、それでもまだ不安の色が拭い切れていない紅葉の手に、牡丹は自身のそれをそっと添えた。
冷やかな風が紅潮していた頬を撫で、興奮状態から冷めていく最中。薄ぼんやりとした瞳で紙切れを眺め続けていた牡丹だが、ふと光を取り戻させると、食い入るようにしてそれを見つめ直す。
「そう言えば、天羽さんは……? 親父の苗字が天正だったなら、そしたら、天羽さんは……」
(あの人は、親父の知人だって。そう言ってたけど……)
うんうんと、小さく唸りながら。牡丹は奥底に埋もれていた記憶を無理矢理ひっくり返し、ゆっくりと脳内に再生させていく。
すると、至極穏やかな声が流れ出す。
『父親のことを、知りたくはないか? 残りの人生を、彼とともに過ごす気はないか――……?』
(……ああ、そうだ。確かに天羽さんはそう言って、天正家に来ることを誘われて。だから俺は、親父に会えるんだって。一緒に暮らすことになるって。てっきりそう思っていた。
なのに、実際に行ったら親父はいない所か、代わりに腹違いの兄弟が待っていて。そして、天羽さんが父親代わりで――。
そうだ。それで俺は、てっきり自分が早とちりして勘違いしたんだと。天羽さんが養父になることだったんだと、思い直したけど。だけど、やっぱり天羽さんは養父じゃなくて。
だったら、)
「だったら、天羽さんは一体何者なんだ――……?」
どういうことなんだと繰り返させるが、その疑問に答えてくれる者は誰もいない。
日が沈み、空の色が灰色に染まっていく。だが、それはいつまでも蟠りとなって牡丹の中で残り続けた。
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