6.
「俺はてっきり、牡丹に昨日の返事を訊きに行ったものだとばかり……」
「思ってました」と、続けるよりも先に、きょとんと目を丸くさせる紅葉を前にして、萩は、しまった――!? と、心の内で思い切り叫ぶが、時既に遅い。不穏な空気が漂う中、彼の額からは、だらだらと大量の冷や汗が流れ出す。
それを拭う暇なく、萩は口を開かせ、
「えっと、あの。済みません。その、決して覗くつもりはなくて。偶然通りかかって、それで……」
しどろもどろながらも言葉を紡ぎ、萩は懸命に弁解する。
すると、一方の紅葉は、あまりの彼の必死さに反って途惑ってしまう。
「そうですよね。萩さんの家、牡丹さんの家の近くですもんね」
納得はしたが、しかし、紅葉の顔は、 赤一色に染まっている。もじもじと、恥ずかしげに指先を弄り出す。
今度は気まずい空気が流れ始める。萩は顔を歪ませたまま、どうしたものかと悩んでいると、ふと甲高い音が耳を掠める。
「えっと、その……。牡丹さん、恋愛事が好きではないって、前にそう言っていたのを聞いてしまって。それに、私がそう言ったら、牡丹さん、酷く困っていたみたいですし、だから……。
返事を訊くつもりは全然なくて。私が勝手に思い続けていたいなって」
時間の経過とともに、彼女の声は徐々に小さくなっていく。終いには頼りなさげな、哀に満ちた笑みを添える。
そんな彼女を前にして、萩は下唇を噛み締めるが、ゆっくりと、その歯を離していく。
「……俺の親父、前に海外に転勤したと。そう言いましたが、来年には帰国します。なので俺、内部進学はしないで、東京の大学に進学するつもりです」
「えっと、それってつまり、東京に帰ってしまうということですか?」
「はい。そして、その時は……。
その時は、牡丹も一緒に連れて帰ります」
刹那、紅葉の瞳が、一層と大きく見開かされていく。彼女は息をするのも忘れ、ただただ萩の冷やかな瞳を見つめ返す。
けれど、萩は一拍置かせてから、再び唇を離していく。
「それが、あの人との約束だから――……」
「あの人って……」
紅葉は一度瞳を閉じたが、引き続き、萩のそれを見つめ続ける。
萩も紅葉の視線を受けながら、調子を整えるとすぐにも続きを語り出す。
「俺と……、いや、牡丹の母親です。彼女が死ぬ間際に俺に託したんです。これからも、牡丹のことを頼むって。
あの人には、分かっていたんだと思います。自分が死ねば、天羽とかいう男が――、今の牡丹の養父が訊ねて来ることが。そして、牡丹を連れて行ってしまうことも。
俺は散々反対しましたが、牡丹が俺の言うことを聞く訳がなく。親父も親父で、牡丹の好きにさせろと。結局あの養父の思惑通り、一度は牡丹を取られてしまいましたが、それでも、きっとまだ間に合う。
どんな理由で母さんが牡丹を引き止めて欲しかったのか分からないままですが、それでもこの暮らしを続けていれば、いずれはアイツを不幸にするだけだって。俺にはそう思えるんです。それに、あの養父のことは、ちっとも信用できません。あの男は牡丹を連れ出す口実に、親父のことを持ち出しておきながら、牡丹はまだ父親に会えていないと言っています。だから」
萩はますます瞳を鋭かせる。逃がさないとばかり、一ミリも逸らさせることなく彼女を捕え続ける。
「牡丹は絶対に、俺が一緒に連れて帰ります。いずれは自分の前から姿を消すと分かっていても。それでもアイツのこと、思っていられますか――?」
✳︎
冷やかな風をその身に受けながらも、萩は一人ベンチに座り込み、暮れかけた空を見上げさせる。
薄紫色を、その瞳いっぱいに映し、
「なに、言っているんだろう。これじゃあ、ただの負け惜しみじゃないか」
(紅葉さん、面食らってたけど。そりゃあ、そうだよな。突然あんな話をしちまったんだ。
でも、牡丹を連れて帰るのは本当のことで。そしたら紅葉さんは、俺のことを……。)
恨むだろうかと、虚ろな瞳を揺らす。考えてみるが、頭を過ぎるのは小憎たらしい男の顔ばかりだ。
萩はその場に立ち上がると、思いっ切り息を吸い込み、そして、
「ああっ、くそうっ! なんでいつも、いつも、選りにも選って牡丹なんだよ!? 俺の方が、絶対に紅葉さんのことが好きなのに!! 本当に、どうしていつも……。
あーっ! 好きだ、好きだ、好きだーっ!!」
激しく肩を上下に揺らし、萩は乱れた息を整えさせる。煮えたぎっていた血の気も次第に落ち着き、冷静さを取り戻すと、
「馬鹿みてえ」
ぽつりと口先で呟く。
惨めさに浸っていたが、萩は帰るかと、そのまま出口に向かって一歩足を踏み出す。
けれど、その瞬間。萩の肢体は、後ろに大きく飛び退き――。
「ひいっ!?? ももも、紅葉さん……!?」
その喉奥から、素っ頓狂な音が漏れる。
(なんで、どうして紅葉さんがここに!? さっき、帰ったはずでは……って、もしかして。今の、聞かれた――!??)
萩は蒼白く染まった顔をそのままに、ひくひくと、頬を思い切り引き攣らせる。
おそるおそる、痙攣している口をそれでもどうにか動かし、
「あ、あの。紅葉さん……? 今のは、その、えっとですね……」
「あ、あの……」
「はいっ!?」
「これ、本当は菊ちゃんに作ったものなんですけど、渡せなくて。それで萩さん、クッキーが好きみたいだったので、良かったらと思って」
「あ、ありがとうございます。
あの、紅葉さん。その……」
「済みません。私、もう行かないとっ……!」
そう言うと、萩が咄嗟に伸ばした手を、紅葉はひらりと躱す。一歩、また一歩と、次第に彼から遠ざかって行く。
取り残された萩は、すっかり行き場を失ってしまった手をどうすることもできず。遠くで烏が鳴いている中、無意味にも宙に漂わせ続けた。
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