2.

「いってー……。菊のやつ、思い切り叩きやがって」



 夕食を食べ終え、俺は自分の部屋に戻ると、ひりひりとまだ痛む頬に、氷を詰めたビニル袋を押し当てる。頬にはくっきりと、菊の手形が赤く焼き付いている。



「確かにスカートを捲っちゃったのは俺が悪いけど、でも、わざとじゃないんだ。こんなに強く叩くことないじゃないか」



 俺ってば、やっぱりタイミングが悪いんだよなと、一人反省する中。不意に、コンコンとドアを叩く音が聞こえてきた。


 外に向かって声をかけると扉が開き、その隙間から、ひょいと大きな影が姿を見せた。



「牡丹くん、ごめん。今、大丈夫?」


「桜文兄さん。大丈夫ですが、どうかしたんですか?」


「うん、ちょっとね。あっ。菊さんに叩かれた所、大丈夫?」


「ええ、まあ。腫れは大分引きました」


「ははっ。菊さん、力強いもんね」



 強いなんて、そんな可愛いものじゃない……!


 いっそのこと演劇などやめて、なにか格闘技でも本格的に習った方がいいんじゃないかと。そしたらきっと、それなりの成績を収められるだろうと。


 そう思ったけど、ひくひくと痙攣する頬を押さえながら、俺は、「そうですね」と、どうにか軽く流した。



「所で、何か用ですか?」


「うん。牡丹くんって、明日も部活があるんだよね?」


「はい。明日は一日稽古ですね」


「それじゃあ、一つお願いがあるんだけど……」


「お願いですか? 俺にできることなら別に構いませんよ」


「本当? はあ、それなら良かった。そしたら明日、菊さんと一緒に帰ってほしいんだ」


「は……? 菊と一緒に帰るって……」



 全く以って予想していなかった返答に、「ちょっと待ってください!」俺は咄嗟に手を挙げた。



「え、え? なんで俺が菊と一緒に帰らないといけないんですか?」


「それが菊さん、ここ最近、ストーカーに付けられているみたいでさ」


「えっ!? ストーカーって、あのストーカーですか?」


「うん。多分、牡丹くんの思ってるストーカーだよ。だから最近は俺が一緒に帰ってたんだけど、明日は俺、部活の練習試合でさ。

 会場が相手先の学校で、終わるのもいつもより遅くなると思うんだ。だから、終わってから学校に戻るとなると、菊さんの帰る時間にはとても間に合いそうになくて」


「話は分かりました。でも、みんなは知ってるんですか? その、菊がストーカーに付け回されてるって」


「いや、俺以外には言ってないと思うよ。菊さん、みんなにはあまり心配はかけたくないと思ってるだろうから」


「そういうのって、警察に相談した方が良いんじゃないですか?」


「それができたら一番なんだけど、後を付けられてるだけで具体的にはまだ何かされた訳ではないから難しいと思うよ。警察は法に触れるようなことをされないと動けないからさ」


「そうですか……」



 そういうものなのかと、俺はいま一つ納得できなかったけど。頼れないものを当てにしても仕方がない。


 取り敢えずは割り切ることに決めた俺に、桜文兄さんは、

「まあ、今回が初めてじゃないからね」

と、へにょりと太い眉を下げて言った。



「えっ。そうなんですか?」


「うん。今までにも何度かね。でも、今回の相手は俺が一緒にいるからかもしれないけど、かなり距離を置いていてさ。追いかけようと思っても足が速いのもあって、すぐに逃げられちゃって。

 臆病な性格みたいだから手を出しては来ないだろうし、下手に刺激すると反って危ないかもしれないから。取り敢えずは様子を見てるんだけど、やっぱり早く解決させたいよね」


「そうですね。

 ……あの、桜文兄さん。その、菊と一緒に帰るのはいいんですけど、でも、どうして俺なんですか? 俺、菊には嫌われてるから、他の人の方が良いと思うんですけど」


「どうしてって、明日は土曜日で、学校が休みだろう。学校に用があるのは牡丹くんだけだったから。それに、別に牡丹くん、嫌われてないと思うよ」



「気の所為だって」と桜文兄さんは、けらけらと笑いながら答える。


 そんな兄さんの能天気な様子に、今までの自分と菊との遣り取りを見て、一体どこに嫌われていないと思える要素があるのだろうかと。思わずにはいられない。


 それに。



「その……。なんていうか、菊って全然素直じゃないし、顔を合わせば人のこと悪くばかり言って。妹っぽくないっていうか、生意気でちっとも可愛げがなくて。それから、いつも一人で、他人とは極力関わろうとはしなくて。だから、その、わざわざ桜文兄さんが気にかける必要なんてないんじゃないかなって。少しだけ、そう思って……」


「うん、確かにそうかもね。牡丹くんの言う通り、菊さんは器用で大抵のことはほとんど自分でしちゃって、その上、一人が好きだしね」


「だったら……」


「でも、ほら。大事な妹だから――……」



「大事な妹だから」と桜文兄さんは、もう一度、穏やかな声で繰り返す。その声の柔らかな温度に、俺の内側はなぜかどくんと強く脈を打ち。開きかけていた口は、自然と閉ざされていた。



「それじゃあ、ボディーガードよろしくね。相手は何もして来ないとは思うけど、一応気を付けて。菊さんには、俺から牡丹くんと帰って来るよう伝えて置くから」



 俺は頷き返したが、果たして菊がおとなしく俺と一緒に帰るだろうかと。部屋から出て行く桜文兄さんを見送りながらも、首を傾げずにはいられない。


 だけど、いつまでも悩んでいても仕方がないかと思うと、俺はベッドの上に突っ伏した。


 でも、ストーカーって、本当にいるんだな。あの菊が今までに何度も被害に遭ってるなんて。まあ、中身はともかく外見は良いからな。


 ……大事な妹、か。そうだよな。いまいちまだ実感は湧かないけど、兄さん達はもちろん、菊も半分だけど血の繋がった妹なんだよな。


 でも、それにしても……。


 なんで見た目は可愛いのに、性格はあんなにも歪んでいるんだろうかと。


 一人きりになった部屋の中で、俺はごろんと寝返りを打ち。天井を見上げながら、はあと一つ乾いた息を吐き出した。

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