第35話、大根

 冬季作物の、代表的な野菜『 大根 』。

 少々の苦みと、シンプル過ぎてインパクトが無いように感じる味の為か、若年層にはイマイチ人気が無いらしい。 まあ、好む者もいるとは思うが……

 実は、私にとって思入れ深い野菜であり、ある経緯によって、大好物となったのが大根だ。


 20代の、後半頃だったろうか……

 当時、営業をしていた私は、連日、深夜残業・休日出勤などの激務を続けていた。

 結果、デザイナー時代から発症させていた胃炎を悪化させ、遂に心因性十二指腸カタルに至ってしまった。

 潰瘍ではなく、腸壁に穴が開く一歩手前だ。


 毎日、数発のボディーブローを喰らった感が腹部にあり、非常に苦しい。 時折感ずる嘔吐感に苛まれ、実際に、何度も嘔吐した。 空腹感はあるのだが、食事をすると全て、吐いてしまう……

 ある朝、社用車での出勤途中、腹部に激痛が走り、耐えられない嘔吐感に襲われた。 まさに『 死ぬ 』かと思った。

 速攻で、自宅近くの外科医院へ。


「 どうした、あんた? 顔、真っ青だよ? 」

 診察室で、院長が聞いたが、苦しくて何も答えられない。 耐えられず、その場で吐いたら、真っ赤だった。

( ひいぃ~~っ! 血を吐いた。 死ぬわぁ~……! )

 もっとビックリしたのは、院長の方だった。

「 こっ… こりゃ、イカン! とにかく、入院だわっ! 」


 かくして、私は、緊急入院……

 レントゲン検査や血液検査をして、まずは安静に努める事となった。

「 3日ほど、絶食だね。 2~3日、点滴をするけど、トイレに行きたくなったら、点滴フックには車輪が付いているから、そのまま押して行ってね 」

 ……内科医院で良く見る光景だが、そんな元気は無い。

 仕事疲れも加味し、それから1日中、死んだように寝た。


 2日目になると、さすがに空腹感を覚えた。

 だが、食べるとまた吐くかもしれない…… 嘔吐感に苛まれる恐怖が脳裏を過り、何とか横になっていた。

 しかし、3日目ともなると、考える事は食事の事ばかり。 とにもかくにも、何か食べたい……!

 看護師が言った。

「 明日は、朝食を出しますからね 」


 おおう… か、神の言葉だ……


 メニューは、何だろう? 朝食だから、味噌汁は欲しいな。 …いや、入院食なんだから、それは無いだろう。 血を吐いたんだし……

 私は一晩中、病院のベッドの上で、食事のメニューを考えていた。


 翌朝、私の病室に、看護師が朝食を持って来た。

 ガバッと起き上がり、配膳台を見る。


 小さめのどんぶりが1つ、置いてあった。


 どうやら、お粥らしい。

( ナンでもいいっ! とにかく、食うぞっ! )

 どんぶりに飛び付き、手にすると、透き通ったお汁に、米粒が2~3粒浮いているだけのものだった。

「 なっ…… 」

 私は、絶望感に、打ちひしがれた。

 ズゾゾー、とすすると、もうお汁は無い。 空のどんぶりの底を眺め、私は固まっていた……

「 昼食、食べれそうですか? 」

 看護師の問いに、私は、目眩がするくらいに頭を上下に振って答えた。


( 食いてぇ~…… ナンか、食いてえぇ~……! )

 昼になるまでの時間が、長い事、長い事……

 とにかく、考えるのは、食べ物の事オンリーである。 トンカツ・ハンバーグ・ホカホカご飯……! 異常に、よだれが出たのを、よく覚えている。


 そして遂に、昼食が運ばれて来た……!


 どんぶりではない。 何かが、皿に載っている!

 私は、配膳台に飛び付いた。


 厚さ3㎝ほどの、輪切りにした『 大根 』の煮付けが1個、皿に鎮座していた。


「 …こ、これだけか…… 」


 量は、少ない。 だが私には、その大根が、眩いばかりの光を放っているように見えた。

 震える箸先で、まず半月型に2つに切る。 1つを箸で持ち上げ、口に入れた。


 ……う、旨いっ…! メチャメチャ旨いっ……!


 皿には、もう半分しか無い。( 当たり前 )

 私は、半月型に残った大根を、箸先で更に半分にした。 その半分を、口に入れて食べる。 味は、薄めの塩で簡単に茹でただけのもので、煮付けと呼ぶには程遠いものだったが、私は嬉しくて、涙を流しながら食べた。

 残った¼を、ペースト状になるまで咀嚼し、胃に流し込む。

 ……大根、万歳! ありがとう、大根……!


 それ以来、私は、大根が大好物となった。



 飽食の、この時代である。

 それこそ、世界各地の味が、手軽に手に入る時代となった。 しかも、今はネットで注文すると、自宅まで配送されて来る。

 まあ、餓える経験は、敢えて必要無いとは思う。

 しかし、長い人生… 一度くらいは、餓鬼になれるような経験が、人には必要だと思う……

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