NO SURPRISES
月世
NO SURPRISES
毎日が平凡だと思っていた。
今日もなんの変哲もない一日だった。深夜のバイトを終え、自宅へ帰ってあとは眠るだけだ。
特にずば抜けた能力もなく、やりたいこともない俺はきっと一生このままだ。
平凡に生きて平凡に死ぬだけ。
それを悲しいだとか虚しいだとか感じるようならまだ救いようがある。
俺は感じない。
悲しくない。虚しくない。
平凡でいい。
そう思っていたのに、目の前には日常からかけ離れた物体が転がっている。
道の真ん中に人が倒れていた。膝を折って前のめりに倒れている。覗きこむと、その人物は血溜まりの中に体を浸していた。
咄嗟に身を退いた。死んでいるのだろうか。
一度周囲を確認した。これは殺人だ。まだ近くに犯人がいるかもしれない。
しかし人の気配はしない。朝の四時。人は勿論、犬や猫の類でさえ姿を隠している。
「あの」
声をかけてみた。倒れたまま動かない。
死んでいるように見えた。多分死んでいる。それなら救急車を呼ぶよりも警察に電話をしたほうがよさそうだ。
携帯を取り出して110番を押す。生まれて初めての110番だった。電話はすぐに繋がった。
「人が倒れてるんです。もしかして死んでるかも」
「どちらからおかけですか?」
事務的な声。俺は電柱に記された番地を告げた。
「どのような状態ですか?」
「や、出血が酷いみたいで。血が、凄いです」
なんと言っていいのかわからずに見たままを言った。コンクリートに溜まっている血を見て胃が熱くなった。血の匂いに顔をしかめる。
「今すぐ救急車を手配しますので、あなたはそこを動かないでください。警察がすぐに向かいます」
死んでいるかも、と言ったのに救急車が来るのか。死体から目を逸らし、俺は仕方なく「はい」と返事をした。早く帰って眠りたかった。とんだ災難だ。
一言二言会話を交わし、携帯を切った。溜め息が出た。こんな道の真ん中で、しかも死体のそばでパトカーが来るのを待つのかと思うと憂鬱だった。まるで俺が殺人を犯したようではないか。
人が来ないか気が気でなかった。状況を説明するのが面倒だ。なんせ、人が血を流して倒れているのだから。血の池の中で倒れる人間のそばに立つ俺は、他人の目から見てどう映るだろう。本当に面倒臭いところで倒れていてくれたものだ。
恨みの目で見てやろうと振り返って、凍りついた。
いない。
ない。
さっきまで確かにそこにいた、それが。
跡形もなく消えている。
脳味噌がぐつぐつと煮えるように活動を始めた。
もしや、生きていた?
とてもそうは見えなかったが、そのまま歩いてどこかへ行ってしまったとか。
いや、違う。それはあり得ない。首筋に鳥肌がざわりと立った。
血の痕跡すらないのだ。
あれだけの量の血溜まりがなくなっている。
「そんな、馬鹿な」
俺は地面に膝をついた。人が倒れていた場所を手で撫でてみる。ざらりとした砂利が手のひらに当たった。濡れていない。乾燥した地面は埃っぽい。
手のひらを見つめてますます混乱する。まるでさっきの死体など、存在しなかったようだ。
じゃあ、俺が見たあれは、なんだったのだ?
地面を這う俺の背後にパトカーが現れたのはすぐ後だった。
疑いの目で見られ、それに乗る破目になったのは言うまでもない。
温かい布団が恋しかった。
「君、本当に死体を見たの?」
「本当に見たんです」
「君が見たというその死体? 人間? どこにもないじゃないか」
事情聴取というやつを初めて受けた。ドラマでよく見るように、刑事は嫌味で陰険で、感じが悪かった。
「場所を間違えたのかもしれません」
「でも君、死体のある場所から動いてないんでしょ?」
「それは、多分……」
「多分っていうのはどういうことかな」
「わかりません……。でも、いなくなってるってことは……俺が無意識に動いたのかもしれないし」
刑事は俺の顔を下から覗きこんでくる。
「無意識に動いた? 君はそういうことがよくあるの?」
したり顔で刑事は言った。俺は「いいえ」と応えた。
「でも今言ったよね。無意識に動いたかもしれないって。そういう病院に通ってるの?」
「違います。俺はそういうんじゃ……」
「じゃあなんでかな。なんで君はないものをあるといって警察に通報したの?」
刑事は小馬鹿にするように一度鼻から息を吐き出した。やおら懐から煙草の箱を取り出すと、俺の顔を見て「吸う?」と訊いてきた。首を振る。煙草は嫌いだった。
「確かに見たんです。血だってたくさん出てたし」
「血なんだけどね。血が地面を流れた痕跡がまったくないんだよ」
それは俺も確認した。刑事は煙草を咥えると百円ライターで火を点けた。
「どういうことかなあ」
煙が顔にかかって咽た。刑事は平然として煙を吐き続けている。
「こういうのはどうかな。君が人を故意ではなくても殺してしまったとする」
何を言い出すのか。反論しようとする俺の口を塞ぐように煙が顔に吹きかけられた。
「そこで偽の通報をして捜査の目をそこへ向けさせ、あとでゆっくりと死体を処理するつもりだった」
そんな馬鹿なことは誰もしない。俺が口を開くより早く、俺の背後に立っていた男が言った。
「それはないでしょう。無駄に疑われるだけじゃないすか。そういう理由で通報したなら姿を消してますよ」
「うーん、いい推理だと思ったんだけど」
苦笑して煙を吐く刑事は投げ遣りな目で俺を見た。推理とは言いがたい幼稚なでたらめじゃないか。
「じゃあ、何が目的なんだ?」
「だから……、俺はただ人が血を流して倒れてるから通報しただけで……。何もやましいことはないですよ」
「本当に? でも変だなあ。何故見たはずの死体がないのかなあ」
「わかりません」
「わかりませんはないだろう、わかりませんは。君、自分の目で見たんでしょ?」
「もしかして気のせいだったのかもしれません」
「気のせいって君、血を流して死んでる人を見ておいて気のせいってのはないでしょう」
段々とうんざりしてきた。刑事は俺が何か隠していると思いこんでいる。それを探り出そうと執拗に質問を重ねた。俺には無駄な問答だった。
見たものは見た。でもそれはなくなった。それだけのことだ。
でも、可笑しい。何故なくなったのだろう。確かに見たのに。
血の匂い。そうだ、血の匂いも俺は確かに嗅いだ。あの匂いも錯覚だったとは考えられない。
でも。
でも消えたのだ。ちょっと目を離した隙に、死体も血も消えていた。
こんなことがあるのだろうか。
死体を見たのか?
本当に?
血の匂いを嗅いだのか?
どうだ?
思い返してみると、わからなくなってきた。
幻覚だとは思えない。あんなにリアルに人が倒れて、血を流して。
でも現実に死体は存在しない。
存在しない?
存在しない死体。
存在しない死体を存在すると思いこんでいる。
少なくとも刑事はそう思ってる。
いや、誰が聞いてもそう思う、間抜けな話しだ。
俺はなんだ。
自分の存在感が薄れていく。
俺の見ている世界は、本当に存在しているのかもわからない。
こんな風に考えている事自体どうかしている。俺はどうかしている。
今、こうやって刑事に事情聴取されている、これはどうだ?
俺の創り出した妄想(ゆめ)の世界?
「君、本当に死体を見たの?」
最初と同じ質問が出た。会話が繰り返されようとしている。
刑事は虫けらを見るような目で俺を見ていた。
俺は口を閉ざした。それから何を訊かれても何も応えなかった、答えられなかったのか。
そうしているうちに釈放され、外に放り出された。もう日は昇っていた。頭の上にある太陽を見上げる。眩しいし、じりじりと太陽の熱を感じる。
これは現実なのだろうか。
すでにわからなくなっていた。
ちゃんと自分の足で地面に立っている。立っているつもりだ。
一歩踏み出してみる。歩いてみる。
ぐらぐらと世界が揺れているように感じた。
俺が今生きているこの世界は、こんなにも不確かなものだっただろうか。
大股で行き交う人々。空を飛ぶ鳥。雲。太陽。排気ガスを撒いて走る車。
目で追ってみる。何か、酷く乾燥している。いつからこんなふうになってしまったのだろう。なんて無機質な世界だ。
自宅に帰ると床に転がった。
俺の布団はあんな色じゃない、と思った。
やはり何かが狂っている。
何かのせいでどこかが狂ってしまった。
そのせいで何もかもがこんなにも違和感で溢れているのだ。
確かに存在した死体がない。
何故だ。
脳を揺さぶる。
両目に指を突っ込んだ。力をこめる。
圧力。
転がり落ちる眼球を妄想する。
そろそろと瞼を開く。足元にアスファルトの感触があった。
死んだ人間が倒れていた場所だ。
死体はやはりなかった。
血の痕も、ない。
死体も血も、最初からなかったに違いない。靴の裏で地面を撫でてみる。砂利を撒き上げるだけで、何も起こらない。その砂利さえも存在感が希薄だった。
それなら俺が見た状況を俺の手で創り出してみればいい。
この場所に死体を転がせばいいわけだ。
そして同じように血を流してみよう。
人が来た。
俺は手に、ナイフを握っている。
そんな物をいつ買ったのか。記憶が、ない。
ナイフでその人間の腹を刺してみた。
刃が肉に埋まる感触が伝わる。
それでもやはりリアルだと感じない。人間を刺した衝撃とはこんなもんか?
現実的(リアル)じゃない。
俺が刺した人間はガシャ、と簡単に崩れ落ちた。
これで終わり?
あっけない。人を刺したというのに心の中は静まり返っている。波一つ立たない。
現実感がまったくない。指先の濡れた感触すら現実的ではなかった。
ふと、何かを感じて振り向いた。
そこには男が立っていた。携帯を耳にあてて、何か喋っている。
ついさっき刺し殺したはずの人間に目を落とす。そこに死体はなかった。消えている。
顔を上げる。携帯の男に見覚えがあった。知っている男だ。
足元に血溜まりができていた。コンクリートにじわじわと広がっていく赤い液体は俺の腹から流れ出ている。腹に、ナイフが突き立っていた。
両膝をつき、体を折った。
こんなにもリアルに、痛みを感じ、死を、意識できている。
怖い。
地面に触れた部分が濡れる感触。
これは血か。
それとも涙だろうか。
もう、関係ない。
─END─
NO SURPRISES 月世 @izayoi_t
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