語り:百合などに関して思うよしなしごとを云々

そすぅ

2021年4月3日の考え(第一回)

物語を書くということに当事者性は必要なのか、という議論の一種だと思うのです。特に災害や戦争などについて書く時によく取り上げられることですね。

戸部山みどり氏の「書くことに〈資格〉は必要か-当事者性と想像力の間の震災高校演劇」では、東日本大震災を例としてそれを取り上げた演劇作品について考察がなされていました。ここではその全てを紹介することは出来ませんが、同氏はここで、書くことや演じることで、その行為の資格を体験者だけが持つのではないということや、語りの限界を認識し想像することでしか理解できないことを、理解することがその意義であるとしています。また、それを通して、自身を当事者と見なす想像力を働かせることも作品の役割だとしています。

その他にもランズマンのアウシュヴィッツを想像することに対する考えや、それと対照的なジョルジュ・ディディ・ユベルマンの「イメージ、それでもなお」など、当事者性に関する考え方は様々ですが、話が抽象的になりすぎて脱線してしまいそうなので控えておきます。

さて、話を具体的に、百合に戻しましょう。個人的に好きなのが百合なだけであって、いわゆる薔薇・GL・BL・NLなどなどの様々な愛のかたちに共通する話をしたいと思います。昨今、世の中ではLGBTQに関して認知が広まり、「生物学的」に合理的な男女恋愛をする人々にも理解されつつあるのではないかと思います。(生物学的に合理的、というのは種の繁栄としてという意味です。極端な話、どんな形の恋愛でも、愛に溺れて破産したり、恋の目くらましを食らって自ら不利益を被るような立場に走ったりする人がいることから、恋愛そのものが非合理的なのかなとも思います。これまた極端な話、種の繁栄だけ考えれば、愛なんかなくても交尾すれば増えますしね。)先程の話と絡めて、そういったLGBTQを題材にしたものを書くのに当事者性は必要か、そしてどう扱えばいいのかということについて考えていきます。

まずは前者ですが、当事者性はあってもなくてもいいと思います。当事者であれば多少、理解は深いでしょうが、創作物がノンフィクション作品でない限り、その理解もどこまで役に立つか分かりません。というのも、同じタイプの人(例えばG:ガールズラブ)でも、性的な関係を求めるのか、ただ一緒にいたいと思うだけなのかでは違うでしょう。仮にそれが同じであっても、やはり他人は他人。真の意味での完全なる理解は不可能です。だから想像力を働かせて創作するのです。つまり、そこに多少のアドバンテージがあったとしても、創作の中の人は想像で作られている創造物なのです。ちなみに、私は自己認識の上ではB:バイセクシュアルなのかなぁ、なんてぼんやり思っています。(パンセクシュアルかもしれませんが、その辺はややこしくてよく分かりません。ただ、個人的にはカテゴライズするための呼称なんて別にいいかなと思っています。言語化するのも大切ではあると思いますが、一方で言葉に収まりきらないような感情や愛があってもいいと思います。)しかし、それを免罪符に百合作品・GL作品を書こうなどとは考えていません。むしろ、実際の順番としては逆でした。つまり、百合作品などの同性愛作品を好きになり、その世界を知り、そして自身の恋愛に関する認識を改めたということです。ここにも、「非当事者が創作をすること」を咎められない理由があるように思います。様々な愛のかたちを読むこと、書くことを通して認識し、自身の本当の気持ちを『異常だ』などと切り捨ててしまうことを防ぐことが出来るのです。また、いわゆる「消極的事実の証明」の難しさもあります。つまり、「自分が今まで同性を好きになったことがない」「異性しか好きになったことがない」ということは、必ずしも「異性しか好きにならない」ことの証明にはならないということです。単に今まで魅力的な同性に巡り合わなかっただけ、今まで出会った異性が魅力的すぎただけという可能性もあり、これからも「同性を愛さない」とは限らないのです。その意味では、LGBTQというのは現在の状況を表す言葉でしかなく、未来では全ての人にその可能性があると言え、もはやその可能性を持つ人は非当事者ではないのかもしれません。

さて、後者について考えていきましょう。ここに関しては自分の中でもかなり考えが流動的で、これからここに記す内容も、ここ数ヶ月の思考でしかありません。どう扱うかというと漠然としているので、一つ例をあげて考えます。「女子Aと女子Bが付き合っている状況」と「女子Cと男子Dが付き合っている状況」を想定します。あなたはこの2組のカップルに対してどういった反応をするでしょうか。前者には触れずに、後者を冷やかす?前者のこの先の苦労を哀れみ、後者を祝福する?どうでしょうか?数ヶ月前の私は、「百合好きであっても前者のようなカップルを見つけて喜ぶことは愚かである」と考えていました。しかし、今は「前者と後者に大きな違いはなく、対応を変える必要はそれほどない」と考えています。また、前者のようなカップルを見つけて喜ぶことに関しても、「恋バナ大好きな女子中学生が友人の恋バナにテンション上げる」のが非難されない(もちろんそのカップルが嫌がらなければですが)のと同様、「百合好きが女子のカップルを見つけて喜ぶ」のも非難されないのではないかなと思います。非難されるのであれば、かの女子中学生も私も同等に非難されるべきであるし、非難されないのであれば、かの女子中学生も私も同様に容認されてもいいのではと考えています。男子同士のカップルも女子同士のカップルも、男女のカップルも同等に扱われるべきではないかなと思うのです。(ただし、社会的に不利な立場に立たされている同性のカップルの境遇に対して心を痛め、その改善に協力することは必要でしょう。)それから、具体的かと聞かれればそうでは無いのですが、恋愛=性的関係とみなすのも安直かなと思います。これは同性・異性問わずどのような恋愛にも言えるでしょう。恋愛に必ずしも性的な関係が必要でしょうか?そんなことはないと思うのです。それはどのような愛のかたちでも同じです。あくまで偏見なのですが、同性愛に対してマイナスイメージを持つ人というのは同性同士での(プラトニックな)恋愛ではなく性的な関係を伴う恋愛を想定しているように思います。性的な関係を伴う同性愛もありますし、私はそれを否定するつもりはさらさらありませんが、繰り返すように愛のかたちは様々です。私個人でいえば、同性との恋愛はプラトニックに、異性との恋愛は性的な関係伴うもの(でもいいかなというくらいでプラトニックな関係でもどっちでもいいです)がいいかな、と思っています。考えようによってはあまりに多様すぎる愛のかたちに言葉が追いつかず、結果的に大きな括りでのカテゴライズしか出来なかったというようにも見ることができ、言語化・カテゴリー化の罪であると見なせるかもしれません。

ここに記したのはあくまで2021年4月3日の私見です。反対意見やモヤっとする部分もあると思います。そして、そのような感想を抱くのはこの文章を読んでくださるあなたがただけではありません。未来の――もしかしたら明日の――私とてそうです。人間の思考は動的です。常に外界のと交流や内面での自問自答によって形を変えます。この文章は、そうした人間のある瞬間を捉えたものです。いわば備忘録のような、日記のような取り留めもない文章なのです。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る