マルルの翼

山南こはる

前編

 マルルは天使です。天使であるということは、もちろん、幸せを運ぶ仕事をしているにに決まっています。マルルは天使です。背中に白い翼を持って、人間たちの下に、毎日幸せを運んでいます。


 マルルはたいへん働き者の天使でありましたので、一緒に働く天使たちは、みんなマルルのことが大好きでした。マルルもみんなのことが大好きでした。ただ、空を統べる神さまはたいへん自分勝手でしたので、マルルはいつも神さまにあっかんべーをしていました。


 神さまは天使たちをたくさんこき使っていました。たくさんこき使って、地上の人間たちの下に、よりたくさんの幸せを届けさせました。たくさんの幸福。人びとは神さまに深い感謝を示しました。でもこき使われて、天使たちはへとへとです。マルルもマルルの仲間たちも疲れ果てていたので、いつしかマルルのあっかんべーは、天使たちの笑いのタネになっていました。


 ある日、マルルがあっかんべーをしているのを、他の天使が見つけて神さまに告げ口をしました。その天使は敬虔な神さまの弟子でしたので、神さまがどれだけ身勝手なのか知らなかったのです。


 神さまはマルルの言い分を聞きもせずに、マルルに雷を落としました。そして言いました。


「お前は天使として役立たずで、がんばりが足りない。お前はもう二度とこの空を飛んではならない」


 マルルは抗弁を試みましたが、神さまは聞きませんでした。そしてマルルの翼を、へし折ってしまいました。


「ぎゃあ!! 神さま!! 痛いです!!」

「うるさい! お前のようなクズの天使に、そんな翼など必要ないわ!」


 そうしてマルルは雲の穴に突き落とされて、空の世界を追放されてしまいました。仲間の天使に別れを告げる暇さえ、マルルには与えられませんでした。


   ※


 マルルが落ちた先は干からびた砂漠でした。太陽と月が朝と晩を支配し、雨は一滴も降らず、乾いた砂が荒野を待っていました。


 へし折られた翼を庇いながら、マルルは砂漠を歩きました。翼の傷に砂が入り、寒い夜には熱を出しました。時おり生えているサボテンの汁をすすいながら、マルルは二週間も砂漠をさまよいました。


 砂地を歩きながら、マルルは考えます。


「あの神さまは何を求めていたのか、わたしには分かりません。わたしは人びとの幸せのために働いていたはずなのです。わたしは神さまのために働いたのではありません」


 マルルは神さまのことが嫌いでした。毎日へとへとになるまで働かせて、あっかんべーのひとつで腹を立てる神さまが嫌いでした。天使の翼は生え変わりません。へし折られたマルルの翼は、もう二度と元には戻らないのです。


 翼を折られたマルルはもう、二度と飛ぶことはできません。飛べない天使は人びとに幸せを運ぶことはできません。幸せを運ぶことができないということは、つまりもう天使ではないということです。


「わたしはもう、天使である資格を失いました。わたしはいったい、どうしたらいいのでしょう?」


 昼間の灼熱の地獄、夜の真冬のような風の冷たさ。怪物のような砂嵐も、幸せそうなトカゲの夫婦も、みんなマルルの苦しみに気づかず、砂漠を通りすぎました。


 天使としての役割を失ったマルルは、これからどうするべきか、ようやく決めました。


「わたしはもう天使ではないのです。でもわたしは天使としての生き方しか知りません。なら自分の命を自分で終わらせて、あの神さまが悪い神さまなのだということを、皆さんに知らせてあげましょう」




 砂漠を二週間も旅したある日、マルルはようやく草原地帯にたどり着きました。雲みたいに優しい感触の緑の大地に、空に突き抜けるようなくぬぎの大樹がありました。


 その木に住む一話のミミズクが、マルルに言いました。


「マルルさん、マルルさん。あなたはどこへ向かっているのですか?」

「わたしは死ぬところを探しています。ミミズクさん、神さまの悪意を知らせるために、もっともいい死に場所はどこだと思いますか?」

「わたしは死に場所のことは分かりませんが、このくぬぎの木で、少し暮らしてみてはどうですか? 空き部屋はいっぱいありますし」


 どうやらくぬぎの木には、鳥や虫がたくさん暮らしているようでした。


「でもミミズクさん、わたしは天使でしたが、もう飛ぶことはできません。わたしにできることは何もないのですよ?」


 ミミズクは言います。


「いいじゃないですか。できることがなくても、あなたがやれる精一杯のことをすればそれでいいのです。ここでの暮らしが合わなかったら、また新天地を探すのもよいでしょう。でも今のあなたには、折れた翼を癒す時間が必要です。

 ……さあ、どうしますか?」


 ミミズクのありがたい言葉に、マルルはうなずきました。

 翼を折られて以来、はじめて誰かと話しました。


   ※


 くぬぎの大樹での生活に慣れるまで、マルルはずいぶん苦労しました。

 くぬぎの大樹には、鳥や虫がたくさん暮らしていました。マルルはそこで、歳を取った花たちのお世話をすることになりました。年を取った花たちは今にも枯れそうで、毎日お水をあげて、太陽の光に当ててやらなければなりません。翼が痛くて辛くても、マルルは毎日毎日、休むことなく仕事に取り組みました。


 マルルの仕事場の仲間たちは賑やかです。子育てに忙しい鳩もいれば、病気で今にも死にそうなフンコロガシのおじさんもいます。大樹の幹に穴を開けまくるキツツキの男の子や、いつも番を探すのに忙しいペンギンまで、マルルの仕事場には愉快な仲間たちが集まっていました。


 マルルは一生懸命働きましたので、仲間たちとはすぐに仲良くなりました。マルルはかつて天使としていろいろなところを飛んできましたので、各地でのおもしろい話をたくさんしました。マルルの話に、みんなが笑いました。翼は相変わらず痛いし、時おりあの意地悪な神さまのことを思い出しますが、それでも少しずつ、マルルは元気になりました。




 マルルは天使でした。天使だったということは、人びとに幸せを届けるのが仕事であって、つまりマルルは空を飛ぶのがとても上手でした。


 マルルの仲間の鳥たちは、飛ぶのがとても下手くそです。このくぬぎの大樹で生活している以上、飛ぶ必要はないというのです。でも中には、それではいけないという鳥もいるのです。やかましいオウムのノノがそうでした。ノノはマルルが天使だったことを聞きつけて、


「マルルさん。あなたは飛ぶのがとても上手だそうですね。ぜひ私にも、飛び方を教えてください」

「ダメですよ、オウムさん。ほら、見てごらんなさい。わたしの翼ってばもう、こんなになってしまっているのですよ」


 マルルにはもう、飛ぶための翼はありません。マルルは傷の癒えた翼をパタパタさせました。短くへし折れて、もう風を切ることができなくなった翼が、オウムの目の前で動きます。


「ではマルルさん。見本はいりません。私は私なりに一生懸命飛びますので、それを見ていてください」

「見るだけでいいのですか?」

「はい、悪いところがあれば教えてください。私はその通りに飛びます」


 そしてマルルはオウムのノノの練習に付き合うことになりました。

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