転生先が気弱すぎる伯爵夫人だった~前世最強魔女は快適生活を送りたい~
桜あげは
1章
第1話 気弱な伯爵夫人は覚醒する
空虚で寒々とした古い廊下の一角で、伯爵夫人である私――ラム・メルキュールは虐げられていた。雑に梳られた浅緑色の髪をひっつかまれ、痛みから、「うっ……」となさけないうめき声を上げる。
数々の優れた魔法使いを輩出する、歴史あるメルキュール伯爵家に嫁いでからというもの、毎日このような暮らしが続いていた。
「本当に使えない奥様ね! さっさと私を側室にと旦那様に進言してくださらない?」
居丈高に命令するのは、他の侍女や使用人を従えた侍女頭のラクリマ。
この伯爵家で一番幅をきかせている、性悪侍女の筆頭だ。肩の長さで切りそろえられた黒髪に、涼しげな目元の美女で子爵家の令嬢でもあり、プライドが高い。
「まったく、グズで気がきかなくて、旦那様に顧みられることもない女なんて。伯爵夫人を名乗って恥ずかしくないのかしら?」
「……っ!」
「家のためになることもできず、体も弱く、なんの役にも立たないのだから。せめて、世継ぎを産める女性の紹介ぐらいできない?」
「うう……」
気弱で言い返せない私はただただ脅え、責められるまま廊下を後退する。
ラクリマの話は全て事実だった。
私は、しがない弱小男爵家の出身で、生まれてからずっと体が弱く屋敷から出たことがない、筋金入りの世間知らず。
行き遅れの不良債権でもあり、メルキュール伯爵家の後妻として、伯爵のお情けで拾ってもらった令嬢だ。
とはいえ、彼から愛されていたわけではない。
家業に口出しせず、身分が低く体の弱い妻が、メルキュール家にとって都合が良かっただけだ。
前妻を亡くしたあと、伯爵は周りから「新しい妻を」と、せっつかれていたらしく、義務として、余計な口答えをしない私を娶った。
娘の身と引き換えに、男爵家は伯爵家から資金援助を受け続けている。
「奥様、本当にあなたを見ているとイライラするわ! 役に立たないし目障りだから、さっさと部屋に戻ってくださる?」
ラクリマがピシャリと命令し、彼女の取り巻きたちが、意地悪く笑いながら私を小突いて部屋へ連行する。
メルキュール伯爵家内で、味方は一人もいない。
夫である伯爵は日々忙しく、義務で得た妻には無関心。
現状を把握しているのか、知った上で放置しているのかすらわからない。
そんなわけで、気弱な私は毎日のように侍女や使用人から暴言を浴びせられ、灰色の日々を過ごしているのだった。
しかし、窮屈な日常はある日唐突に終わりを迎える。
※
それはふとした瞬間に蘇った。
薄暗く誰も寄りつかない伯爵夫人の部屋の一角で、いつものように侍女頭に虐げられ、突き飛ばされて壁に頭をぶつけた瞬間……床に倒れたラム・メルキュール伯爵夫人こと私は、前世の記憶を取り戻したのだ。
突如脳内に沸き起こった膨大な記憶の波に翻弄され、固い木の床に両手をつく。
ややあって、私の頭ははっきりと覚醒した。
「そうだわ。私は……気弱な伯爵夫人なんかじゃなかった」
すっと立ち上がり、自分を突き飛ばした相手――侍女頭のラクリマを睨みつける。
今までにない私の姿を見てたじろいだ彼女は、僅かに身をこわばらせた。
「なによ、奥様のくせに生意気な目ね! 反省が足りないのかしら? それなら……」
再び攻撃しようと動くラクリマの手を避け、私は右腕を振りかぶる。
「ラクリマ! 反省が足りないのはあなたよ!!」
「な、なんですって!? このっ……ぐぶほぉっ――――!!」
頬に私の拳を受けたラクリマは、回転しながら部屋の隅まで吹っ飛ばされ、木の壁に激突する。
普通にビンタをする予定だったけれど、意図せず力が入ってしまったようだ。
「やれやれ、つまらぬものをしばいてしまったわ」
パンパンと手を払った私は、冷めた心で気を失った侍女頭を眺める。
毎日毎日、こんな女にいじめ抜かれていた今までの自分のなさけないこと。
でも、そんな日々はもう終わる。今のラム・メルキュールは、気が弱い伯爵夫人などではないのだから。
「それにしても、転生後に前世の記憶が戻る……なんてことが本当にあるのね。興味深いわ。ぜひ論文を書きたいところだけれど、まずは、この世界の仕組みをもっと知らないと」
記憶を取り戻した私は、今まで通り、臆病で気弱な伯爵夫人として生きる気なんてさらさらない。そんなことをしなくても、じゅうぶん自由に暮らせるのだから。
ラム・メルキュールの前世は、歴史に名を残す伝説級の最強大魔法使いだった。
※
私――ラムの前世は、今から約五百年前に活躍した魔法使いのトップ、アウローラ・イブルススという女性だ。
ラムが知る歴史書に「アウローラ」の名が残っているので、現在の世界は前世の延長線上なのだろう。
現在では魔法使いは力をなくしつつあるようで、その数はかなり少ない。
前世の私の死後、徐々に力を持つ魔法使いが生まれなくなり、魔法使いの地位全般が下がっている。
メルキュール伯爵家は、今では希少な魔法使いの家系だった。
現伯爵は優秀だと言われているが、メルキュール家以外の魔法使いの名はとんと聞かない。
(どういうことかしら)
ラム・メルキュールは世間知らずなので、現状が何もわからない。
「まずは情報収集ね。怖がりのラムは、ほぼ部屋に引きこもっていたから、伯爵夫人なのにメルキュール家の事情すら全然知らないのよね」
自分の生活拠点の情報収集は必要不可欠だ。どうせなら、快適に過ごしたい。
外に出れば、また誰かに絡まれるかもしれないが、そのときは言い返すなり、やり返すなりすればいい。
ラム・メルキュールは弱すぎた。
だから、各方面から嘗められ放題で理不尽な目に遭い続けてきたのだ。
無償で彼女を守ってくれるような、都合のいい人物など現れず、虐げられてばかりの日々。
(記憶が戻ったからには、好きにさせてもらうわよ)
だいたい、侍女や使用人が女主人をいじめるというのは、いくらなんでも異常すぎだ。
「こちらが何もできないからと調子に乗って。悪い子にはお仕置きよ!」
見た目より精神年齢が高い私にとって、屋敷の者たちなど赤子も同然。
しばいて効果がないなら、入れ替えればいいだけだ。
伯爵の同意など知ったことか。
(元はといえば、彼が妻を放置するから、屋敷の者がそれを見て私をぞんざいに扱うのよ)
どうして、そんな目に遭ってまで、奴に気を遣う必要がある。
「勝手にやらせてもらうから」
気を失った侍女を廊下に放り出し、私は屋敷を掌握すべく、ずんずんと廊下を進み続けるのだった。
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