イデアの女神 学園編(掃除場所争奪戦)

三機みき

学園より愛を込めて

 田舎の高校特有の間延びしたチャイム音が聞こえる。8時をしらせるチャイムだ。

 高校二年生である私、木原きはらひろやす(22)は冬空に身を縮み込ませて、通学路を歩いていた。私は持ち込み禁止のカイロをポケットに隠しながら、ゆっくりと校門をくぐる。

「おはよう~!」

「おはようございます」

 にこやかに挨拶あいさつをしてくるムキムキの体育教師。冬でもあぶらっこい顔つきで笑いかけてくる先生が、この学校の『門兵』八十島やそじまはだ(38)である。

 この先生は今こそ笑顔だが、閉門時間である8時45分を過ぎると、鬼神のごとく遅刻者に対して暴れまわるので有名だった。その豹変ひょうへん振りはこの地方都市に住んでいる者なら、老若男女問わず知られているほどだ。狭いコミュニティーというものは、おかしな田舎系有名人をしばしば生むことがあるが、彼がその典型例だった。

 私はいつも8時という早い時間に登校しているため、彼のマッスルソニックアンダソーン8号(拳骨げんこつの一種)を喰らったことがなかった。早起きには、こんな素敵な特典も付いてくる。私は、彼から逃れるように校舎へと急ぐ。

「おお、さむさむ」

 てつく風が、吹き付けてくる。私は学生服のえりから入ってくる外気を、首をすくめて遮断する。こんな服を着させるなんて、学生に風邪を引いてくださいと言っているようなものだ。せめて、マフラーの着用ぐらい許可して欲しいと思う。私はそんなことを考えながら校舎に入り、4階の教室に急いだ。


 扉を開けると、教室には数人しかいなかった。私は窓側にある自分の席に足早に向かった。

「ふう」

 椅子に座って、窓に視線を向ける。今日も、突き抜けるような青さの、綺麗きれいな快晴だ。あまりにも晴れすぎて、朝は肌を切るほどの寒さだが、昼になると小さな太陽が暖めてくれるであろう。窓側の席にはこんな特典も付加されている。

 田舎の高校には、基本的に空調設備がない。そう、エアコンが無いのだ。それに加えて、扇風機やストーブさえ「生徒に対して危険だ」の一言で一蹴され、教室に配置されていない。なので、夏は体が溶けるほど熱く、冬は体が凍るほど寒い。この中で勉強させられているのだから、一種の仏教修行に通じるものがある。田舎の学生の身体と精神が頑強になるわけだ。

「8時2分か」

 少し早く来すぎたようだ。私以外の人は、真面目に何やら予習か復習をしている。とりあえず私も破廉恥はれんちな雑誌をカバンから取り出し、これからの人生の予習を行う。


 何分か経ったときだった。

 女子生徒が挨拶している声が聞こえる。私はその声の主を敏感に察知する。

「おはようございます」

 千里ちさとさん(22)だ。学生だから当然なのだが、黒いセーラー服を着込んでいる。彼女は上川かみかわあいさん(自称22)と一緒に教室に入ってくる。私は思わず、破廉恥な雑誌を机の中に隠す。

朝の彼女は優雅な雰囲気を柔らかく身に付けているようだった。彼女が教室に居るだけで、雰囲気が色付いたように一変する。

「それじゃあ愛ちゃん。私、予習してないから予習しますね。もうちょっとおしゃべりしたかったけど、ごめんね」

「はい、分かりました……」

 思わず、彼女を凝視してしまう。彼女の一挙手一投足から眼が離せない。

 千里さんは私の憧れの人物だった。いや、私だけではない。このクラスにいる殆どの男子生徒の憧れの的だった。しかし、あまりにも高嶺の花すぎて、誰も声をかけられずにいる。それほど彼女は容姿端麗で、信じられないほど優しく温和な性格の持ち主だった。

「ああ」

 彼女の様子を、つぶさに観察する。

 肩口までの伸びた髪が肩に触れ、りんとした音が聞こえてくるようだ。造形美という言葉が、頭に浮かんでくる。溜息にも似た感情が押し寄せる。

「ああ、駄目だ!!」

 視線を千里さんから外す。どうやら私は、人を馬鹿みたいに見る癖があるらしく、そのことで、人生の様々なところで損をしていた。

 私は過去に犯した過ちを回想する。いやな記憶が、頭の中で駆けめぐる。

 あの時は女子を見すぎて「ちょっと、いつもじろじろ見ないでくれる!?」(A子さん)と言われた。あの時も女子を見すぎて「あの、あんまり見ないでください」(B美さん)とも言われた。

 私はこれらの教訓を受けて「チロ見回数制限法」なるものを制定していた。これは5秒以内の凝視を「チロ見」と定義して、一日10回だけ「チロ見」していい完璧な法律だった。このおかげで、過去に引き起こした悲惨な状況は回避できる。この法律案を思いついたとき、私は天才ではないのかと思った。これによって、私の学生生活は保障されたようなものだった。

 早速、千里さんに「チロ見」を使用してみる。朝のやわらかな雰囲気を纏った千里さん。そのみやびな姿を見ると、学校の朝という慌ただしい時間が意識の外に飛んでいく。

 これで残り9回だ。まだ取っておかなくてはならないと、自分の行動をいさめる。

 とりあえず、雑誌を見るのも飽きたし、私は椅子にもたれかかってのんびりと過ごした。


 時刻は8時45分に近い。教室の中はとても賑やかで、机には殆どの生徒が座っている。だが、いつものように、二つだけ席が空いていた。それは私の席の前に一つと、遠く離れた場所に一つ。

 突然、廊下から騒がしい足音と、言い争っているけたたましい声が聞こえてくる。

 いきなり、扉の開かれる音がする。その音が途轍とてつもなく大きくて、私の鼓膜を強く穿うがつ。それと同時にけたたましい大阪弁が、私の耳をつんざく。

「うし!! うちのほうが先に到着や! 今日はうちの勝ちやわ! 富樫さんのジュースおごり決定な!」

「あああ!!」

「何やねんな、変な声出して。負けたもんは負けや、さっさと150円出しや!」

「青井、今月は大量に書籍類を購入してお金が無いんだ。頼むから、来月まで待ってくれないか」

「まじかいなぁ。書籍類って、あんたの買うようなものは決まっているけどな。あんたの買うようなものは……」

「ひい、だめ! ここで言わないで!」

「そやったら、ちゃんと来月までにはミミそろえて返すんやで。返さんかったら、後で酷いでぇ」

「はい……」

 まるで、大阪のヤミ金融の一場面を見せられている気持ちになる。

 遅刻常習犯の青井あおい涼子りょうこさん(22)と、同じく遅刻常習犯且つ私の悪友である富樫とがし新太郎しんたろう(24)が、教室に入ってくる。どうやら彼らは、遅刻をしない目的のために、先に登校した方がジュースをおごってもらえるゲームをしているらしい。今回は青井さんが僅差で勝利を収めたようだ。

「あああ、負けた負けたぁ。おはよう……」

 学生服を着た富樫が、意気消沈して前の席に座る。

「おはよう」

 敗戦した戦友に、適当に挨拶する。

「富樫、お前もっと朝早く起きる癖つけろよ」

 私は一応、富樫に忠告をしておく。しかし、彼は私の言葉に返答せずに、自分勝手に話題を歪曲してくる。

「いや、実はな。昨日は自転車のシャーシを改造してスピードアップを図り、早く学校に来れるようにチューンしてたんだ。だが、それが思いのほか時間がかかってしまい、終わったときは夜中の2時だ。それから、寝床に着いたのが3時、そのせいで睡眠時間は5時間ちょっとしかなかった。この状態で、俺が普通に起きれるわけがないだろ。だがな、俺は青井には負けたが、何とか起きることができて、遅刻しなかった奇跡をひしひしと感じている。神様がいたら、是非ぜひ感謝したい」

「あの、お前。本末転倒って言葉知ってるか?」

「今日の犠牲、明日の躍進だ」

 こいつは訳の分からない日本語を器用に使いまわす。だから、あまり言論で勝負を挑まない方が吉なのだ。ボキャブラリーの少ない私は、このあたりで黙っておく。

「しかし、富樫って青井さんと仲いいな」

「ああ、それはB型の宿命だからだ。俺たちは戦わずにはいられない星の元にいるのだ」

「……」

「毎日が戦争だぞぉ。ここはアフガンの如くだ! アフガンアフガン! フォオオオ!」

 やばい、発言の意味が分からない。いろんな意味で、B型に生まれなかったことを神様に感謝する。

 そんな会話をしていると、朝のホームルーム開始のチャイムが鳴る。

「みんな、おはよう」

 クロム=サイト先生が教室に入ってくる。少しふくよかな体で、教壇に向かっていくサイト先生。彼は目立つような人ではないが、おっとりして優しく好感の持てる先生だった。

「起立っ」

 学級委員長兼風紀委員長の加賀美かがみゆうさん(27)によって、朝の挨拶が始まろうとしていた。

「ちょっと待てっ!」

 いきなり廊下から大声が上がり、扉が開かれる。

「なっ!? あんたは!」

 クロム=サイト先生が、驚愕の表情で乱入者を見つめる。教室にいた生徒たちもざわざわと騒ぎ出し、高波のような震撼が教室中を伝っていく。

「あんたはチェス=カレス先生!」

 サイト先生が震える指を向け、愕然とした声をあげる。女子生徒が悲鳴を上げ始める。男子生徒もうめき声を上げている。教室内は、一つのパニック状態だ。

如何いかにも。私がチェス=カレス先生だ」

「あんたは様々な法律に抵触して、2ヶ月前に懲戒免職になったはずだ! 何故ここにいる!?」

「裁判の敗者復活戦に勝ったのだよ。私は悪運が強いようでね」

 敗者復活戦なんて言葉を使うと、神聖な裁判が高校生ウ○トラクイズのように聞こえてしまう。控訴や上告で勝訴したと言ってほしいと、私は心の中で思う。

「うう、そして何故だ? 急に気分が悪くなった」

 サイト先生が苦しそうに体を折り曲げる。

「今朝、私がお前の朝食に『世界間矛盾』を引き起こす薬を入れておいたのだ。お前は朽ちて壊れる」

「卑怯だぞ、チェス……」

 そう言いながら、サイト先生は地面に倒れ伏す。

「おい、山田」

 チェス先生が扉付近にいる生徒、山田やまだ美紀子みきこさん(23)に呼びかける。

「は、はいぃい!」

「この男を保健室に運べ。一応、私の部下だからな。丁寧に運べよ」

「は、はぃい!」

 可哀想かわいそうな山田さんは、大きなサイト先生を抱えて教室を出て行く。それを見届けて、チェス先生が教壇に登ってくる。

「グッドモーニングエブリワン。アイルビーバック」

 発音の悪い英語で、朝の挨拶を告げるチェス先生。英文法の時制も間違っており、めちゃくちゃだ。

「私が今日から再び、このクラスの担任だ。また宜しく頼むよ、諸君」

 教室はしんと静まり返る。

「さあ、再び専制神権独裁封建恐怖政治の始まりだ。覚悟したまえ」

 どんな政治なのか全く想像できない。ただ、やばそうな気配だけは、ひしひしと伝わってくる。

 チェス先生は、魔王のような黒い衣服を身にまとい、口元を奇妙にゆがませている。教室にいる誰もが、絶望を感じ取り、一言も話せないでいる。

 私は、チェス先生の数々の悪行を思い出す。

 彼は職務そっちのけで訳の分からない『いであ計画』というものを行っていた。『いであ計画』とは『私が本当の私になる』計画らしい。しかし、その中身はおかしな挙動と人体実験を行うだけで、そのせいで彼は教師という聖職から追放されかけたのである。

 どのような計画か、例を挙げれば、千里さんなどの綺麗でかわいい女性に「お前たちは『検体けんたい』だ! 脳波を測定してやる! 私に電話番号を教えろ!」としつこく付きまとい、その脅迫に屈服した女性に対して、チェス先生が夜な夜な電話をかけ「もっと貴方を知りたい。今、何してるの? 今、何処どこにいるの? そして、愛してる人は誰ですか?」と気持ちの悪い言葉を連発して、電話を一方的に切るというものだった。

 他には、おかしな薬剤や機械を作り出し「お前たちが『世界間矛盾』に耐えられるかどうか試してやる!」と、生徒に対して強制的に薬を飲ましたり、機器を着用させたりしていた。直近の被害者は、ちょっと太めの男の子、田淵たぶちようすけ君(22)が三ヶ月間ロッカールームに放置されたバニラシェイクを、人体実験と称され強制的に口に流し込まれた。その日から、田淵君は学校に来ていない。

 また、チェス先生は大人しく無表情で幼さナンバーワンの上川愛さん(自称22)がとてもお気に入りだった。彼は上川さんを見ると『ああ、いであの女神よ、いであの女神よ』と、熱に浮かされたように連呼する癖があり、ひどいときには授業中ずっとこの言葉を言い続けて、授業が全く進まないことがあった。今のところ、上川さんに実害は無いようだが、彼女の無表情な顔つきの中にも、不快そうな感情を表していた。もしも、街中でこんなことをやっていたら、彼女の幼い顔つきも手伝って、児童なんとか法の現行犯で逮捕されるだろう。

 ただ例外的に、彼の魔の手から逃れている人物が、一人だけいた。それが私、木原弘泰だ。彼は私のことを「わーるどでぃあ」と呼び、私が近づくと「うわ、わーるどでぃあだ、ちかよるな」と幼稚園児がお遊戯会で喋るような棒読みで、いつも私から距離を取っていた。とてもありがたいことなので、私は「わーるどでぃあ」というものに感謝している。しかし、「わーるどでぃあ」とは何なのだろうか。謎は深まるばかりである。

 とにかく、これで彼の「やばさ」が伝わったら嬉しい。こんな狂気の充満したクラスに私たちは在籍していた。そして、チェス先生の帰還により、再びその歪んだ狂気が教室に満ちてきている。

「長々と私の悪口を言われた感じがするのは、気のせいか?」

 やばい、変なところは勘が鋭い。ばれたら何をされるか分からない。

 とりあえず私は、キリスト様と、シヴァ様と、アラー様と、仏陀様と、天照大神様に祈っておいた。きっと、これで大丈夫だろう。神様同士が喧嘩けんかしそうなのは気にしない

「それでは早速、最初の恐慌事項を発表しよう」

 ここにいる誰もが、沈黙の中で息をむ。

「今ここに、掃除場所決定戦の開催を宣言する」

 みんなが椅子から転げ落ちる。ちょっとだけ、私は大阪のテレビ番組を見ている気持ちになる。

「やばいと思っといたのに、掃除場所を決めるだけかいな。チェス先生も裁判受けて丸くなったなぁ」

 青井さんが椅子にもたれながら、チェス先生を揶揄する。

「ああ、よかった。あいつも改心したのかもしれないぜ」

 富樫が小声で、私に話しかけてくる。

「うん、きっと裁判がかなりおきゅうになったんだ」

 私も富樫に同意する。

 しかし、次の言葉で、その考えが甘かったことを知る。

「掃除場所は3箇所に限定される。トイレ掃除36人、視聴覚教室2人、職員室2人だ」

「なんだと!?」

「あの地獄のトイレに36人だって!?」

 片瀬かたせとおる(23)を始め、何人かが声を荒げて立ち上がる。

 この高校のトイレは、とにかくやばいのだ。どれだけやばいかというと、まず、詰まる。次に、水が流れない。そして、臭い。最後に、汚い。これで惨状は理解できるであろう。

 女子生徒たちは卒倒しかけ、男子生徒は暴動を起こそうとしている。この光景はどう見ても、法治国家ではなかった。

「トイレだけを注視しないで欲しい。見ろ、残りの二つの掃除場所を……」

 残りの二つとは、視聴覚教室と職員室だ。これらは、掃除場の中でもトップクラスのとても良い場所だった。

 視聴覚教室は粘着式ローラー掃除機が設置してあり掃除がとても楽だった。しかも、カーペットのため冬場でも足元が暖かい。確かに、とても良い掃除場所だ。

 しかし、それを遥かに凌ぐとても良い掃除場所がある。それが職員室だった。エアコンとストーブの暖房が効いており、とても暖かい。掃除機もあり、とても楽に掃除ができる。掃除が終わったら、家庭科の優しい先生がお茶をご馳走してくれる。まるで、この学校から切り離された楽園パラダイスにいるような気分になれる。

 しかし、これらの特典はただのオプションに過ぎない。職員室には更に凄い僥倖があるのだ。

 それは、意中の人と職員室の掃除場になれば、付き合うことができるファンタジーなジンクスがあるのだ。これで、過去何人ものカップルが成立し、楽しい学校生活を過ごしてきた。みんなそれにあやかりたいため、職員室の掃除場所の争奪戦はクラス内外でいつも熾烈しれつさを極める。チェス先生はその職員室の掃除当番枠を2つも取ってきている。これはとんでもなく頑張っていると言えた。

「別に、私は君たちを苦しめようとは考えてないのだよ。ただ、私は堕落者が嫌いなだけでね。真に頑張ったものはむくわれる、そんな資本主義的な考えが好きなのだよ」

 先生、それは論理に飛躍がありすぎると思います。

「さあ、戦おうではないか、諸君。では、まずルール説明だ。国語の教科書に掲載されている作品から、問題を出していく。私がランダムに1名ずつ指名していくが、問題に間違った者、または答えられなかった者は、トイレに強制送還される。トイレの掃除者が36名に達すると、次に視聴覚教室に行く2名を決め、最後まで残った2名が職員室を掃除する権利を獲得するのだ」

「間違った時点で、教室から退場させられて、きつい掃除場所へ順番に行かされるってことね」

 加賀美さんが眼鏡のレンズ越しにチェス先生を睨んで、補足する。

「その通りだ。そして、今日は一日中掃除してもらう」

 絶望と悲痛な声が、教室中から上がる。ここは地獄ではないのかと見紛みまがう。36人ものとうとい命がトイレに行かされ、一日中掃除をしなければならないのだ。

「なに、問題に間違わなければいいのだ。簡単なことではないか」

 くくくっと、喉の奥で笑うチェス先生。もう、体中から悪意がにじみ出ている。

「出題作品は、恋愛SFホラーアドベンチャーサスペンス現代小説のイデアの女神からだ」

 どんなジャンルの小説か分からない。とりあえず、一回は読んだことがあるので、大まかなストーリーは覚えている。

 周りが気になり、私はみんなの表情を窺う。やばい、みんな真剣だ。何が何でも、トイレという地獄に行きたくないらしい。それ以上に、何としても職員室という楽園に行きたいらしい。

 個人的に、最後まで残りそうな人を予想する。

 まず、片瀬徹(23)。正直、私は彼と仲がよろしくない。そのことをもっとも如実にょじつに表す出来事が、体育の時間にあった。サッカーの授業で、私がFWをしており、PKを蹴ることになった。しかし、ポストに弾かれゴールにはならなかった。その時、片瀬がやってきて「お前は社会人になっても、ああやって失敗するよ」と言い残して去っていった。それ以来、私は彼と喋っていない。まあ、とにかく最後まで残りそうだ。

 次に、千里絵梨(22)。彼女は容姿だけではなく、頭の中も冴え渡っている。さすが某東北の国立大学を卒業しているだけある。高校生なのに大学を卒業したという矛盾した設定は気にしない。

 次に、青井涼子(22)。彼女は体育会系の生徒なのだが、勘がとても鋭くて勉強をしていないのにすらすらと問題を解いていく。彼女は、第六感を持つ天才肌なのかもしれなかった。

 そして、加賀美優(27)。数学や理科全般はクラスでもいつもトップで、他の教科もそこそこな理系タイプの生徒だ。しかし、時々頭から作業音が聞こえるのは気にしちゃ駄目だ。

 それから、上川愛(自称22)。いつも無表情で座っており、何を考えているのか分からない彼女だが、勉強は結構できる方だ。ただ歴史が苦手で、そこを突っ込まれると答えに窮しそうだった。

 そういえば、富樫新太郎(24)もいた。記憶力がよくて理論派、いつもパズルを解くように国語も数学も解いていく。ただし、理屈っぽいところがあるので、感性が必要ななぞなぞの問題には弱そうだった。

 最後に、私、木原弘泰(22)も一応、候補に入れておく。私は常にダークホース的な存在なのだ。チェス先生が忌み嫌う「わーるどでぃあ」の力も、今ここで信じてみようではないか。

 ふと、千里さんを意識してしまう。彼女は前の席にいるので、ここから表情までは見えない。ただ、肩までかかる艶やかな髪は見ることができる。ちなみにこれで、「チラ見」残り回数は8回だ。

 思わず、千里さんと一緒に、職員室の掃除当番になる妄想をしてしまう。その瞬間、まわり始める私の愛しい妄想映写機。もう誰にも、映写機は止められない。


 ここは職員室。ストーブがあるので、とても暖かい。

「うーん、掃除も終わりましたね。お疲れ様です、木原君」

「うん、早く終わってよかったね。千里さんこそ、お疲れ様」

「ちょっとストーブで暖まりましょうか」

「うん、そうしよう」

 ストーブに近づく二人。

「こうやって手をかざしていると、とても暖かいよ。かじかんだ手が嘘のように治る」

「ふふっ、本当ですね。寒すぎると手が震えて、鉛筆も持てませんからね」

「千里さんの手って綺麗な形をしているね。それにとても繊細な指先をしている」

「嫌だ、木原君。ちょっとめすぎですよ。ほら、木原君の指先も凄く器用そうじゃないですか」

 そう言って、私の手に触れてくる彼女。刹那せつな、時が止まる。

「木原君の手、暖かいですね。カイロみたい……」

「千里さんの手は少し冷たいね。でも、手が冷たい人って心が凄く暖かいんだよ。優しい千里さんがそれを証明しているね」

「そんなこと、ないです」

 彼女の手を強く握り締める。

「あっ」

「千里さん……」

「木原君……」

 手を握り合ったまま、寄り添う二人。私は自分の心に、淡く小さな炎が灯されているのを感じた。


「おい! 木原しっかりしろ!」

「はっ!? ど、どうした、富樫君」

「いや、お前が薄気味悪い笑顔で『淡く小さな炎が~』と言っていたから、何かにかれたと思ってな」

 どうやら、妄想中に声が出ていたらしい。今後は気をつけたいと思います。

「では、まずは脱落者36人を決めたいと思う。諸君、死に物狂いで戦うのだ」

 恐怖のゲームが、今始まった。


「では、第一問。主人公である木原弘泰が愛用していたピストル銃器の名前は何だ」

 必死で考えている人、答えが分かって安堵している人、答えが分からなくて当たらないように祈る人、もう匙を投げちゃっている人、様々な思いが教室に交錯する。

「では、ナンシーちゃん(23)答えを述べよ」

 チェス先生が指差した先に、みんなが振り向く。そこには、人型プラスチック模型が椅子と机の間に立て掛けられていた。

 私は絶句する。何でプラスチック人形が高校生として、ここにいるんだ。

 もちろん、ナンシーちゃんは答えられない。当たり前だ、お口がありませんから。

「残念、時間切れだ。えある脱落者一号はナンシーちゃん(23)だ!」

 教室の扉が開かれ、黒子が慌てた様子で入ってくる。そして、颯爽さっそうとした足取りで、ナンシーちゃん(23)を抱え上げて、教室から去っていく。

「……」

 その光景に、誰もが唖然あぜんとした。おかしな沈黙に、教室中が包まれる。

「……」

 だが、私はこのようにも考えてしまう。人型プラスチック模型なのに、彼女は義務教育という荒波を乗り越え、そればかりか高校受験まで成功し、今この机に座っていた。それは一つの奇跡といえた。彼女は私たちに「何でもやればできる!」ということを、身をもって証明してくれたのだ。私はその奇跡と彼女の頑張りに、思わず視界をかすませてしまう。

 どこからか、拍手が聞こえる。どうやら、私と同じことを考えていた同志がいるらしい。

 教室中が暖かい拍手に包まれる。感動のあまり、スタンディングオベーションで拍手している者もいる。

「素晴らしいクラスだ」

 チェス先生まで拍手している。今、ナンシーちゃんのおかげで世界間矛盾が消え去り、世界が一つになった。ありがとう、ナンシーちゃん。最高だ、ナンシーちゃん。とりあえず、トイレ掃除頑張れよ!

「ちなみに正解はコルトガバメントだ。よし、感極まっているところで、第二問だ。物語の第三章で、私の愛すべきクリス=ノ、じゃない、上川愛が持ってきたケーキは何だ。千里絵梨、答えてみろ」

「はい、ミックスベリーです」

 千里さんは即答する。

「正解だ」

 教室中から歓声が上がる。さすが千里さん、記憶力は抜群だ。

「さすが千里ちゃん! チ・サ・ト! チ・サ・ト!」

 千里コールを叫びながら、課長(44)が席を立ちあがる。サラリーマン経験者の彼は拍手かしわでも打ちながら、みんなを鼓舞こぶさせる。それにつられて、数人の男子が、課長と同じように柏手を打ちながら騒ぎ始める。まるで馬鹿しかいないお祭りを見ているようだ。

「チ・サ・ト! チ・サ・ト!」

「ちょ、ちょっと皆さん、止めてください」

 千里さんが恥ずかしそうに男子生徒の騒ぎっぷりを抑えようとする。しかし、次々と男子生徒は立ち上がり、お祭り騒ぎは教室の隅々まで伝播していく。ちなみに、私と富樫も立ち上がって、叫んでいる真っ最中だ。

 このとき、男子生徒の心は一つとなる。もう誰にも、この愛の邪魔はさせない。

「いい加減にしなさいよ!! あんた達!!」

 一瞬で、教室が静まり返る。加賀美さんだ。

「千里絵梨が何なのよ!!」

 加賀美さんはヒステリックな金切り声を上げて、何人かの男子生徒に向かってDVDを投げて、威嚇いかく攻撃を始める。

「ひい!」

 私のところにも、一枚飛んできた。頭を机の下に引っ込める。かろうじて私には命中せず、DVDが床に転がっていく。

「ミラ、落ち着け」

「……すみません、取り乱しました」

 女性の嫉妬しっとしんは、恐ろしいことを身をもって感じる。くわばらくわばらだ。

 とりあえず、落ち着きは取り戻したが、こんな調子で掃除場所決定戦は進んでいった。


 数問が終わり、掃除場所決定戦はいったん休憩になる。

 授業の合間にある休憩時間も、掃除場所決定戦は続行されると思っていたが、そうではないらしい。教室に残っている人は、半数の20名程度だ。

「せーの、はいっ!」

 私と富樫は、私が持ってきた破廉恥な雑誌で、お遊びを講じていた。まず適当なページをめくり、そのページに載っている女の子で、どの子が可愛かわいいかを指差し、互いの好きなタイプを探るというとても高尚なお遊びだ。全国の約8割の男子生徒が、このお遊びの経験者であると調査結果が出ている(木原弘泰調べ)。

「ははあ、木原の好みが見えてきたぞ」

「僕も富樫の好みが分かってきたよ。次のページで、予想が当たっているか確認だ!」

「よし! かかってきなさい!」

 ページをめくろうとしたその時、富樫が雑誌を私に放り投げてきた。私はその非常事態通告を受けて、雑誌を机の中に素早く隠す。抜群のコンビネーションだ。

「ちょっと、あんたら~」

 どうやら、青井さんがこちらに来ていたようだ。

「な、何かな、青井君」

「な、何、青井さん」

「あんたら、なんでそんなにぎくしゃくしてるん?」

 青井さんが不思議そうに、私たちに視線を向ける。

「まあ、ええわ。明後日の放課後にな、屋上で焼肉パーティするんやけど、あんたらも来ない?」

「屋上って、学校の屋上でやるんですか」

「他にどこの屋上があんねんな。学校の広い屋上にしか、大人数は入らへんやろ。うんで、これが詳細を書いた紙なぁ」

 そう言って、青井さんはチラシを私たちに配る。

 チラシを見ながら、私は思いにふける。

 青井さんは少々危険なイベントが好きで、1ヶ月に2回は変わったイベントを企画していた。前回は学校のウォータークーラー6台を貸しきって、流しそうめん大会を開催していた。ちなみに、私はそうめんの流し役に任命され、参加費500円を取られただけで、一口も食すことができなかった。あの時の悔しさといえば、ひとたまりもない。ほとんど、青井涼子という不良に500円をカツアゲされたようなものだった。

「まあ、俺は暇だから行くよ」

「OK~。富樫さんは参加なぁ。木原はどうするん?」

「うーん、僕は止めておくよ。お金も心の余裕もないし……」

「え~、残念やなぁ。木原の大好きな千里ちゃんも来るんやけどなぁ」

「え!? 千里さんが!?」

 思わず、私は立ち上がる。だが、そこで我に返る。なんで青井さんが私の好きな人を知っているのか。私の好きな人は、誰にも話していない。それなのに何故……。

「あ、あ、青井さん。べ、べ、別にぼぼ僕は、千里さんのことが好きだなんてて……」

 私が一生懸命、隠蔽いんぺい作業にいそしんでいるにも関わらず、青井さんはにやにや笑いながら、机の中に手を突っ込んでくる。

 そこで、再び我に返る。やばい、机の中には破廉恥な雑誌が入っている。

「や、止めてください!」

 私は俊敏しゅんびんに雑誌を取り出し、青井さんに渡さないよう胸元に抱え込む。こんな雑誌を高々とさらし上げられ、クラスのみんなにご開帳でもされたら、私の学園生活は終了したのも同然だ。そんなことは、この私が断じて許さない!

「はあ? そんな子供が読むような雑誌、全く興味ないわ」

「こ、子供だって!?」

 富樫と私が驚きの声を上げる。その言葉が、青井お嬢様の経験豊富さと確かな実績を表してた。知識先行型の富樫と私は、唖然とお口を開ける。

「うちが木原の机から引っ張り出したいのは、これや」

 手をごそごそと、私の机の中に突っ込む青井さん。嫌な予感がする。

「あったわ! 木原弘泰全集『愛のポエム アジアとヨーロッパの間』や!」

「!!?」

 やばい。家に持って帰ったと思っていたのに、果てしなく、どこまでも、やばい。

 私はショックのあまり動くことができない。そうしている間にも、青井さんが私のポエムを捲っていく。

「え~っと、このへんでええわ。タイトルは『千里さんとカラオケに行った夢をみた』やな」

 エマージェンシーです! 大脳大佐、早急なご判断を!

「えっと『千里さんの声によってメロディが息づき、心地よさが辺りに広がっていきます。テンポに合わせて、私の体はかくかくと動きます。千里さんは、そんな私を笑顔で見つめながら、全身でリズムを取っています。瞳は華麗に輝き、視線が優雅に移ろいます。時々、まぶたを閉じて思いを込める表情に、私の心が高鳴なります。開放感のあるメロディが、彼女の声で色付きます。躍動感のあるリズムが、彼女の声で弾みます』か」

 大脳大佐が、叫び狂う。小脳中尉、転進だ! 間脳少尉、撤退だ! 中脳少佐、玉砕だ! 木原大将、私はもうだめだっ!

「『彼女の元気溢れる姿を見つめながら思います。あぁ、チューしたい』」

「!? ちゅ、チューしたいなんて書いていません! 勝手に付け足さないでください! もう返してくださいよ!」

 青井さんから、やっとノートを奪い取る。

「とにかく、木原も焼肉パーティちゃんと来るんよ~」

 勝利宣言を残して、青井さんは座席に帰っていく。

 こんなところで、秘密にしていたポエムが読まれるとは最悪だった。呻き声が、私の口から漏れる。

 ふと、富樫のことが気になる。きっと、青井さんと同じように、にやにや笑っているだろう。しかし、予想に反して富樫の表情は真剣だった。

「木原。お前、最高にキモイよ」

 何故か、握手を求めてくる富樫。もうどうでもよかったので、力なく握手をする。

「そりゃどうも」

 握手を終えると、富樫はカバンの中を探り始め、一冊のノートを取り出す。また、嫌な予感がする。

「これは俺が書いた純文学の中編小説だ。この作品もマックスにキモイぞ。これは少女の青春や恋愛を描いた作品で、主人公の名前はあま姫子ひめこちゃん(17)だ!」

 富樫が自筆の小説を語り出す。どれだけ切なくて甘酸っぱい青春物語なのか、主人公の姫子ちゃんがどれだけ純真で清楚せいそで一途でちょっぴりエッチなのか、富樫は目を爛々とさせて力説してくる。

「……」

 こいつもこいつで、かなりキモイ。

「よし! 俺たち2人で『キモキモ文学部』を作ろう! 俺が部長をするから、お前が副部長を務めてくれ。週に一回、自分の書いた作品の輪読会を開催して、互いに批判する。ははっ、考えるだけで興奮するな! なあ木原!」

 早速、退部届けを出したい。

「あの……」

 背後から声がする。小さな声だったので、聞き漏らすところだった。振り返ると、上川さんが薄い紙袋を持ってたたずんでいた。

「ああ、上川さん。どうしたの?」

「これ、お借りしていたものです。とても助かりました。ありがとうございます」

 軽くお辞儀をして、薄い紙袋を差し出してくる上川さん。

「ああ、この前に貸したものだね。お役に立てられてよかったよ」

「はい、それでは」

 手短に会話を終えて、彼女は座席に戻っていく。

「おい、何で上川がお前に話しかけてくるんだ」

 富樫が驚いた表情で話しかけてくる。

「生物の授業のとき、隣が上川さんなんだけど、彼女が風邪で休んだ時があってね。休み明けに、上川さんがノートを取っていなくて困っていたから、ノートを貸してあげたんだ」

「それでか。納得いった」

 ノートが入った紙袋を見る。茶色くて少しあらめの紙質で、ピンクの可憐な花びらが所々に描かれている。ノートをそのまま返してもらっても全然構わないのだが、かわいらしい紙袋に入れて返してもらうと、男心をくすぐるものがある。このような女の子らしい気遣いに男の子は弱いのだ。

 ちょっとだけ、上川さんを意識してしまう。

 その瞬間、廻り始める私の愛しい妄想映写機。これは私の悲しいさがなのだ。


 ここは職員室。ストーブがあるので、とても暖かい。

「これで終わりです……」

「うん、思ったより早く終わったね。上川さん、お疲れ様」

「木原さんもお疲れ様でした……」

「ちょっとストーブで暖まろうか」

「はい……」

 ストーブに近づく二人。

「こうやって手を翳していると、とても暖かいよ。悴んだ手が嘘のように治る」

「はい……」

「上川さんの手って、少し小さいよね。それに、とても可愛らしい指先をしている」

「木原さんの手は普通の手ですね……」

「普通……」

 会話が止まる。


 だめだ、妄想映写機が止まりそうになる。ここは少し曲解を加えて、映写機を無理やり動かす。


「上川さんの手って、少し小さいよね。それに、とても可愛らしい指先をしている」

「木原さんの手は器用そうな手をしていますね……」

 そう言って、私の手に触れてくる彼女。刹那、時間が止まる。

「木原さんの手は暖かいですね。うどんのうつわみたいです……」

「上川さんの手は少し冷たいね。でも、手が冷たい人って心が凄く純粋なんだよ。素直な上川さんがそれを証明しているね」

「そんなことありません……」

 彼女の手を強く握り締める。

「あ……」

「上川さん……」

「木原さん……」

 手を握り合ったまま、寄り添う二人。私は自分の心に、淡く小さな炎が灯されているのを感じた。


「おい! 木原! 木原ぁ!」

「はっ!? ど、どうした、富樫君」

 再び、既視感デジャブに襲われる。この状況は、前にもあったような気がする。だが、富樫の次の言葉に、私の精神は崩壊しそうになる。

「お前、途中から声が出ていたぞ」

「なんだって!?」

 自分の顔が、青ざめていくのが分かる。

「ど、どこから……?」

「『上川さんの手って、少し小さいよね』からだ……」

「ダイレクトに、名前が出ているじゃないかぁ!!」

 恐る恐る、上川さんを見る。

「………………」

 まじで、やばい。もうこの休憩時間が始まってから、やばいを言いすぎている気がする。

 彼女は無表情でこちらを睨んでいた。視線が私に突き刺さってくる。

「は、はははっ」

 とりあえず、歪んだ笑みで、上川さんに笑いかけてみる。

「………………」

 私の笑顔にも、彼女は表情を全く変えることがない。

 単純に怖い。私は震えながら、早く休憩時間が終わることを切に祈った。


「さあ、掃除場所決定戦もいよいよ佳境だ。現在残留しているメンバーは、片瀬、千里、青井、上川、加賀美、富樫、木原だな」

 いつの間にか、物語は佳境に入っている。まあ、残ったメンバーは私の予想したとおりだ。

「これからは難易度の高い問題を出していく。覚悟したまえ」

 コールタールのような悪意が、再び教室を覆い始める。誰もが否応いやおうなしにトイレの凄惨な情景を思い出し、重たい緊張感が戻ってくる。

「では、早速問題だ。第4章で千里絵梨が昼休みに食していたものは何だ? 片瀬徹、答えてみろ」

「……カツ丼(大)だ」

「残念、不正解だ」

「なっ!? ふざけるな、何が違う!?」

 片瀬が不満そうに声を上げる。

「間違いは間違いだ、素直に認めたまえ。ちなみに正解は親子丼だ。それに想像してみろ、女性が真っ昼間からカツ丼(大)をがっつく姿を。非常にえるものがないか?」

 先生、偏見まるだしです。別に、女性が昼にカツ丼(大)ぐらい食べてもいいと思う。

「ははあ、カツ丼(大)だと、男性の方は萎えちゃってしまうのですね。知りませんでした」

 真剣な表情で手帳にメモを取る千里さん。いや、そんなことをメモに取らないで下さい。千里さんのイメージが崩れちゃいます。

「確かにそうだな……」

 しかも片瀬まで納得している。この状況を見ると、前々から言われていたようにHPPAC町の出身者と第七世界町の出身者には、何かしらの癒着があるのかもしれない。しかし、私はこのことに触れないほうがいいと結論付ける。深く詮索せんさくしすぎて「学校に地下施設発見!」なんて展開になるのはもうこりごりだ。

「うむ、いいことを思いついた。片瀬よ、ここまで残留できた褒美として、言い残すことがあるのなら、言っても良いぞ」

 不気味な笑みで、片瀬に手向けの言葉をかけるチェス先生。きっと何か意図があるはずなのだが、私にはチェス先生の考えが読めずにいた。

 チェス先生の提案を受けて、片瀬が座席から立ち上がりながらぼそっとつぶやく。

「いいか、すべてを疑え。お前の周りの人間、すべて疑え」

 この場にいる者達を疑心暗鬼におとしいれるその言葉。片瀬は面倒くさそうな足取りで扉に向かっていく。私は無表情なまま教室から去っていく片瀬の背中を、疑念に駆られながら見つめる。

 建付けの悪い扉が、軋んだ音を上げながら閉められる。しかし、こんな言葉で影響を受けるやつはいないだろうと思っていると、富樫が小声で話しかけてきた。

「木原、昨日俺の財布から100円盗まなかったか?」

 富樫さん、あんた影響受けすぎだ。


 それから加賀美さんも、執拗しつようなチェス先生の問題攻めを受けて、脱落していった。加賀美さんが問題を間違えたとき、彼女の頭から煙が出ていたのは、たぶん私の目の錯覚だろう。とにかく、残るは5人だ。

「では、問題といこう。第3章の四国旅行で、主人公たちはコテージを借りたが、そのコテージ一棟の値段はいくらか。青井涼子、答えてみろ」

「そんなん楽勝やわ。正解は6000円やろ」

「残念だが、はずれだ」

「なんやて!?」

「正確には6600円だ。お前は、消費税の存在を忘れている」

「そんなん納得いかへん! 今は税込価格表示が基本や!」

「ハワイが目と鼻の先にある四国に、そんな日本国の常識は通用しない」

 ごめんなさい、四国の方々。チェス先生の代わりに謝っておきます。

「ははあ、四国ってハワイが近くにあるんですね。知りませんでした」

 千里さんが神妙そうな顔つきで、手帳にメモを取る。千里さん、それ大きな間違いだから。席が遠くて注意できないのがもどかしい。

「ふざけんといて!」

 青井さんが大声を上げて立ち上がる。そして、スカートのポケットに両手を突っ込み、二丁の拳銃を取り出す。

「ええっ、何故この展開で銃が出るんだ!?」

 私は思わず、驚きの声を出してしまう。

「H&KのP2000か」

 チェス先生はつまらなさそうに呟いた後、さとすような口調で青井さんに話しかける。

「しかし、青井。どんな理由があろうと、銃器を学校に持ってきてはならない。お前の行動は立派な校則違反だ」

 先生、彼女は校則違反の前に、銃刀法に違反しています。やっぱりこの人、だいぶズレテルなと思う。

「さっきの問題を取り消しにせ~へんと、先生の身体は穴だらけやで。そうなるのは先生も嫌やろ」

「ふん。よっぽど、私は教え子に恵まれてないらしい」

「あんたに言われたくないわ! 自業自得やと思いや!」

「なら、仕方ない。目には目を、鼻には鼻をだ」

 間違ったことわざを得意げに披露して、チェス先生はサブマシンガンをおもむろに取り出す。

「なっ!? あの銃器は、チェス先生に没収された俺のサブマシンガンじゃないか!? あの銃はS&Wの9mmSMGだぞ!」

 ここぞとばかりに、富樫が自分の銃器を説明する。すると、先ほど脱落した片瀬も銃器を手に持ち、教室に戻ってくる。

「ちなみに俺の銃は、青井の銃に似ているH&KのUSP TACTICALだ」

 ここぞとばかりに自分の使用した銃器を解説する片瀬。とりあえず片瀬、お前はそんなこと言いに来るよりも、早くトイレに行って便器についた黄ばみを洗い流してこい! それがお前に与えられたタクティカルオペレーションだ!

 ふと、何やら気配を感じて後ろへ振り向く。

「………………」

 そこには、小さな銃器を握り締めて、もじもじしている上川さんの姿があった。

「……」

 上川さん、あんたもか……。


 結局、青井さんは二丁拳銃でサブマシンガンには勝てないと悟ったらしく、チェス先生を大阪弁で罵倒しながらトイレ掃除に向かっていった。

「まず、残った者達の頑張りに、祝辞を述べたいと思う。ここまでよく勝ち残った。あとは職員室を目指すだけだ。油断することなく、気を引き締めて考えたまえ」

 残った面子めんつは、千里さん、上川さん、富樫、私の4人だ。これで、トイレ掃除の刑は何とか免れた。あとは職員室を目指して突き進むのみだ。

「では、問題だ。主人公の木原弘泰が得意とする楽器は何だ? クリス=ノ、じゃない、上川愛、答えてみろ」

「………………」

 真剣な表情で考えるクリス=ノ、じゃない、上川さん。

「………………」

 おいおい、上川さん。私が自己紹介したときに「ギターを弾いています」とはっきり言ったはずだ。ここまで悩むとなると、彼女は私のことなんて全く興味がなかったらしい。そのことに、軽いショックを受ける。

 しかし、上川さんの次の発言に、私は更なるショックを受ける。

「……マラカスです」

 自分がマラカスを楽しそうにシャカシャカと振るのを、思わず想像してしまう。目が霞むのは、何故でしょうか。

「残念だが、間違いだ。確かに、マラカスだったら愉快だったな。きっと、趣の違う小説になっていただろう」

 もう、チェス先生のフォローさえ苦痛に感じる。

「視聴覚教室はこの教室の隣だ。気をつけて参られよ」

 上川さんは黙って席から立ち上がり、無言で出入口に進んでいく。

「クリス=ノ、じゃない、上川愛よ。言い残すことがあるのなら、この場で話してよいぞ」

 上川さんは扉に手をかけたまま、こちらを振り返る。そして、小さな声で呟いた。

「さようなら……」

 彼女のその言葉に、辺りが一気に静まり返る。ゆっくりと扉が閉まり、彼女の姿が消える。

 上川さんに「さようなら」を言われると、どうして切なくなるのだろうか。ただ掃除場所に行くだけで、こんなにも人を切なくさせる彼女。私はもう二度と彼女に会えないのではないかという思いで、扉を見つめる。富樫は上を向いて、半泣きになっている。千里さんは悲しげに俯いている。

「やっぱり愛ちゃんは、たまんねぇな」

 ただ、チェス先生のえつに浸った声だけが、教室に残響していた。


「さて、良いものも見られたところで、次の問題だ」

 残ったのは、千里さん、富樫、私の三人だ。このうち誰かが問題を間違った時点で、職員室に行く二人が決定する。ここまで来たら、もう一頑張りだと自分を鼓舞させる。

「今回の問題はかなり難しいぞ。イデアの女神に記載されている『遺伝子』という単語は計何個あるか」

 まずい、これは全く見当もつかない。当たらないように、切に祈りまくる。

「富樫、答えてみろ」

 思わず、机の下で小さくガッツポーズをする。こんな難しい問題を答えられるはずがない。

「うーん……」

 悩む富樫。ふと、千里さんに視線を向ける。彼女の艶やかな髪が視界に入る。ああ、これで千里さんと一緒の掃除場所だ。そう考えた途端「チラ見」を制限する回数カウンターがくるくると狂い廻り、今まで何回「チラ見」したかが分からなくなる。

 ええい、もういいや! こんな規則なんて今すぐ破棄だ! 私の前途は洋々たるものだ!

「富樫よ、答えを聞かせてもらおう」

 チェス先生が、答えを催促する。富樫の表情が引きる。

「……20個だ」

 クイズ番組の効果音を自分の口でかなでるチェス先生。第七世界から来た割には、この人はアナログ人間なのかもしれない。

「……正解!」

「な、なんだって!」

 思わず、私は声を上げる。

「素晴らしい。さすが富樫だ。では、次の問題だ。第5章の昼食時、千里絵梨が木原弘泰に渡したものは何だ。千里絵梨、答えてみろ」

「はい、お漬物です」

 即答する千里さん。しかし、何やらチェス先生の様子がおかしい。まさか、もしかして……。

「千里よ、残念だが不正解だ」

 きょとんとする千里さん。目を見開く富樫。愕然とする私。

「正解はサラダだ。スパゲティーセットには、基本的にサラダがつくことを忘れたのかね」

「すっかり忘れていました。私ももっと精進しないといけませんね」

 うんうんとうなずきながら、教室を去っていく千里さん。そんな彼女の姿を、教室に残った男二人とヒューマノイドが、ぼんやりと見つめる。

「愛ちゃん~。私も同じ掃除場所になりました~。1学期間、よろしくお願いしますね~」

 遠く廊下から、扉を開く音と千里さんの声が聞こえる。

「……とりあえず、おめでとう」

 チェス先生が祝辞を、やる気なく棒読みする。

「……」

 ゆっくりと、富樫が振り向いてくる。

 刹那、ぶつかる視線と視線。

「えへへ」

 奇妙に笑う富樫。

「えへへ」

 それにつられる私。

 その瞬間、廻り始める私の暴走妄想映写機。

 い、嫌だ! だ、だめです! お願いだから止まってぇ!! 心の悲痛な叫び声を無視して映写機は廻っていく。


 ここは職員室。ストーブがあるのでとても暖かい。

「ああ、掃除も終わったな。お疲れさん、木原」

「うん、早く終わってよかった。富樫のほうもお疲れさん」

「ちょっとストーブで暖まるか」

「うん、そうしよう」

 ストーブに近づく二人。

「こうやって手を翳していると、とても暖かいよ。悴んだ手が嘘のように治る」

「ははっ、本当だな。寒すぎると手が震えて、授業中に漫画も読めないからな」

「富樫の手って、大きくて立派な形をしている。それに、とても強そうな指先をしているな」

「どうした、木原。ちょっと褒めすぎじゃないか。ほら、木原の指先も凄く器用そうじゃないか」

 そう言って、私の手に触れてくる彼。刹那、時間が止まる。

「木原の手、暖かいな。冬場の缶コーヒーみたいだ……」

「富樫の手は少し冷たいな。でも、手が冷たい人って心が真っ直ぐなんだよ。真面目な富樫がそれを証明しているね」

「そんなこと、ないぞ」

 彼の手を強く握り締める。

「あっ」

「富樫……」

「木原……」

 手を握り合ったまま、寄り添う二人。私は自分の心に、淡く小さな炎が灯されているのを感じたってだめえええええええええええええええええええええええ!!



「木原君!? 大丈夫ですか!?」

「うーん、やっぱり嫌だよぉ。もうしません、もうしませんからぁ。ごめんなさい、ごめんなさいっ」

「木原君! しっかりしてください!」

「はっ、ここはどこ!? 私は誰!?」

 机に伏した体を起こして、辺りを見渡す。スーツを着たたくさんの人々。雑多な書類に埋もれている机たち。

 ここは私の勤務している会社だと、寝ぼけた頭が把握する。どうやら、私は自分のデスクで居眠りをしていたらしい。

「よかった、気がついたみたいですね」

 千里さんが心配そうな笑みで話しかけてくる。

「あぁ、助かった」

 思わず、安堵の声が上がる。あれは夢だったのか。

「だいぶうなされていたみたいですが、大丈夫ですか」

「う、うん。大丈夫だよ」

 急に我に返り、居眠りしていたのが恥ずかしくなる。かなりの大失態だ。

「それなら、いいのですが……」

 千里さんはそう言い終ると、何故かくすりと大きく笑った。

「どうしたの?」

 疑問に思い、彼女に尋ねる。

「いいえ、うなされるまでの木原君の表情が面白くて、それを思い出しちゃったんです」

「ど、どんな表情をしていたの?」

 恐る恐る、彼女に聞いてみる。

「いろいろ変わっていましたが、ほとんどが笑顔でした。木原君、一体どんな夢を見ていたのですか」

 おかしそうに笑う千里さん。

「うーん、あんまり覚えてないけど、そうだなぁ……」

 かすかに残る夢の余韻よいんと、彼女の楽しそうな表情に、私も笑顔になる。

「とても楽しい夢だったと思うよ」

(了)

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イデアの女神 学園編(掃除場所争奪戦) 三機みき @mikimikisanki

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