ハルベリーの嘆息
☆
コツ、コッと普段は几帳面かつ丁寧に叩かれるはずのそのドアから、コッコッ、と明るくはじけるような音が聞こえたのはもうすぐ乗り換え地点に着くという予定時間が来ようか、という頃だった。
朝早くサラにつれなくあしらわれた傷心の殿下は、「どうぞ」と気分のままに暗く重苦しい返事を返すと、手元の書類に目を落とした。
「理解してもらおうと行動したのに……ろくなことがないよ、まったく」
そう小声で言い、彼はまだ終わらないと手櫛で髪をかきあげた。
もう時間が無いというのに、作業はまったくはかどらない。
普段ならこんな業務に時間なんてかからないのに。
少年はぼやき、開いた扉から足を踏み入れたもののそこからやってこない誰かにおや、と顔を向けそこに立ち尽くす二人の女性を手招きする。
「……人目がある。早く閉めてくれないか」
「はい、殿下」
彼女たちの一人がそう言い、もう一人が静かに扉を閉めると「どうした?」、とアルナルドは問いかける。
「殿下、いえ……義父上様。帝国への帰還が決まったと伺いましたので、そのお礼をと思いまして」
と、ようやく息子に会えると嬉しさを隠しきれない様子で答えたのは姉のバーディー・ハルベリー中空師だった。
妹は姉の様子を見て自分も共に帝国本土に戻れると思ったのだろう。
腰を折り、軍人ではなく貴族の令嬢の作法としての礼をアルナルドに返す。
いきなり二人の子持ちだ、と皇太子は自分より年上の姉妹を見て困ったような顔をして見せた。
「なるべく早い帰国を考えている」
「なるべく? ですか」
妹はともかく、勘の良い姉はそれを聞いて脳裏に引っかかるものを感じたらしい。
わざわざ聞き返すのは失礼かな、と思いながら確認する。
問われてアルナルドの顔が曇ったのを、姉妹は見てしまった。
「あの、殿下? 帝国に――帰国するので……よいのですよね」
妹のリンネが姉の言葉にかぶせるように言うと、アルナルドは口元を引き締めた。
「帰国はする。だが、それはもう少し先の話になりそうだ。二人には王国について来てもらうことになる」
「王国って……セナス王国のことですよね、殿下」
恐る恐る聞き返すバーディーの表情が硬くなる。そこには少しだけ震えが混じっていた。
いや、とアルナルドは首を横に振る。そんなっ、と小さな悲鳴が姉妹の口から漏れた。
「ラフトクラン王国に戻ると言われるのですか、殿下。そんなことになれば、ハサウェイ王子が自分を生かしておくはずが……」
「そうはならないよ、バーディー。君たちは僕の庇護下だ。少なくともそこは守られる」
「でも、殿下!? 王国での任務は殿下のお仕事は達成成されたのでは……」
リンネも生きた心地がしなかったのだろう。
まだアルナルドの言葉を受け入れられないような顔をしていた。
あれから姉とよくよく話し合った二人だ。
本当なら義理の兄に当たるハサウェイ王子の非道ぶりは、姉の体験を聞けば妹でなくても同乗できるものだった。
そんな男の下に戻れというのですか。姉妹は四つの瞳でそう訴えていた。
「……心配しなくていい。二人にはサラの実家で過ごしてもらうことになる。不便はないようにするさ」
「サラ殿下の? では、サラ様もお戻りになられるのですか」
てっきり、アルナルドの挙式は帝国でするものと考えていたから、それを妻であるサラの母国でするものだと勘違いしてしまったハルベリー姉妹だった。
しかし、それもあっさりと否定されることになる。
「サラは……来ない。僕の代わりにエルムド帝国を訪れることになるだろうね」
「エルムド? では、義父上様の挙式は? エルムド帝国の皇女様との結婚は……」
サラ様は女性ですよ、とリンネが告げる。
女性同士の結婚など、どこの国でも聞くことがまずない事案なのに。
「知っているよ、リンネ。殿下なら、あの国は誰だっていいのさ。結婚させたいんじゃない。ただ、捕虜が欲しいだけだよ。帝位継承権を持つ皇族の捕虜がね。両国の安定のために」
国同士の駆け引きというやつだ。アルナルドのぼやきは姉妹には良からぬ未来を暗示しているように聞こえてしまうのだった。
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