アルナルドの悪寒 3


「何? 言い返す言葉もないのかしら」


 いつもなら、サラー、と情を引き込むような口調でもうやめようよ、と言い出すはずなのに、今回はそうじゃないみたい。

 サラはなるほどね、と独り納得する。

 もし側近の誰かがいまの彼を見れば例え駆け引きだったとはいえ、あのハルベリー姉妹に死罪を言い渡した時よりも沈黙の深みが増したと感じるだろう。


 彼との歴が長いサラにしてみたら、こんな表情いつか見たきりだった気がして、ふと過去を探ってしまいそうになる。

 しかし、その思い出への旅はアルナルドが指先で鳴らした長椅子の手すり部分の音で打ち切られた。

 コッコッコッ、とテンポよくリズムを紡ぐその繊細な指先は、彼の無言の表情を表していると言って良かった。

 早く、それでいて荒々しく、一度だけ雨の中を船団が通過したときのような重たさを段々と深めていく。


「サラ」


 不機嫌なその声はロイズが自分をぶつときに発したものと同じだと直感的に感じた少女は、咄嗟に顔を庇うがそれ以上はなにも起こらない。

 無反応の彼はふっ、と鼻息を大きく鳴らすと、自分よりはストレートで質感のある、寝起きのサラの髪にそっと顔をうずめた。


「……なに……貴方も、私をぶつの……?」

「ぶったこと、ないだろ。あれと一緒にするなよ」

「……ごめん」


 フン。

 まるで大きな犬だ。

 くしゃくしゃと顎先から鼻先から額の感触まで。

 それだけじゃない、自分よりも長いはずの睫毛が耳たぶに当たるとむずがゆいし、朝だからだろうか。

 男性特有のヒゲが少しだけ残っていて、たまーに顔にそれが当たる。

 いがいがするというのかそれとも痛いとそのまま言えばいいのか幼い頃、父親の子爵にされたようなヒゲの感触が同時によみがえる。

 あの頃は――母親もアルナルドも子爵もじいやもいて、侍女たち姉妹もいて、それなりにうるさいけれど、温かみのある家族だったはずなのに。


「いいよ。僕はたしかに利用したんだ。それは、嘘じゃない。君がいなければ、僕は帝国に戻ってもまともに生きていけない。これを終わらせなければ、陛下は帝国との縁組を兄たちの誰かに変えると思う。僕は王国を帝国の一領土におとしめる為に送り込まれた、単なる道具……スパイだよ」


 どこか自嘲気味に、しかし、もう後ろに道はないといいたげにアルナルドはそう言ってサラを抱き締める。

 そうは言われても、まるで捨てないでくれと懇願しているようにも見える彼はどこかよわよわしくて、保護欲をそそらないかと言われたらそれは嘘になる。

 同世代の少年だとばかり思っていたその胸板の厚さと力強さや逞しさを感じながら、アルナルドはどこまで本気ですがっているのかとサラは自問自答していた。


 抱き締められて嫌な心地はしないから、自分はまだアルナルドを好きではいるのだろうと理解する。

 でもそれは家族としてものなのか、友人かそれとも兄妹のようなものなのか、それとも……内縁の妻なんてことを言い出した手前、ここは下手な返事はできないと思いつつ、しばらく彼が落ち着くのを待ってみることにした。


「サラ?」

「……」


 貫くのは無言でいいはずだ。

 心に負い目を持つ人間は、それだけでも鋭い刃になって必死に取り繕うとするのだから。あいにくと情に訴えられてもそれはそれ、これはこれ。

 家族ぐるみの付き合いをしてきたと思ってみれば、この告白で、いまさら貴方に抱き締められたからって、もう心はなびかないわ、残念なアルナルド。そんな一言が心の片隅から浮かんでくると、サラはあれ、と世界が制止した瞬間を感じた。


 ……もしかして、彼はロイズやハサウェイと比べても誰よりも、小さい男性だったりする?

 不器用っていうより、これを断れば待っているのは何かわかるよね? そう皇太子が言いたいだろう本音を理解できてしまうから困ってしまう。

 もうすこし賢ければ黙って操り人形にでもなってあげたのに。女の浅知恵とは言うけれど、それに負けてしまう男性もどうなの、とサラはあげつらいたくなる。とりあえず、彼が自分の頭を撫でる不快感が起こる前に、アルナルドを引き離すことにしよう。

 それまでは――ひと時の安らぎでもなんでも与えてあげるわ、アルナルド。その先はないけれど。


「何、かな?」

「いいから黙って。貴方はしゃべりすぎなのよ……アルナルド」


 サラはアルナルドの胸から頭を上げると、じいっと黒い皇太子の瞳を見つめてやる。

 いつからこんなに臆病な目をするようになったの、殿下。そんな追い詰められた手負いの獲物のような顔をしたって現実は変わらないじゃない。


「いや、それは……」

「黙りなさいよ、皇太子様。今の貴方は殿下の顔をしていないわ。もっと賢くなりなさい。そうでしょ?」


 サラにそう言い当てられて恥ずかしそうに目を反らす彼は、ようやく黒々とした重い何かの奥から孤独の顔を出したのだった。

 

 

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