アルナルドの悪寒 1

 アルナルドのこめかみを、すいっと小粒の汗が走った。

 上から下へと流れるそれは頬から耳の後ろに、そこから背筋へと嫌な感触を残して消え去っていく。

 なんだろうか、まるで生暖かい海からやって来た風が、そのぬるっとした舌先で肌を嘗め上げていくような感触がして、皇太子は、ハハッと軽く笑ってしまう。


「サラは良く見ているんだね。まるで、何もかもその手の中に持っているような言い方だ。僕なんか必要なさそうな生き方ができそうじゃないか」


 嫌味たっぷり。

 アルナルドはこうと決めてやり始めたら、それに対して注意や忠告されることを嫌う。

 意地っ張りで強情で、それでいて必要とあれば決めたことの方向転換も辞さない。

 ただし、その場合はよほど彼が納得できる何かが無ければ……難しいこともまた、サラにはわかっていた。


「それは貴方がいるから言えるだけよ、アルナルド。誤解しないで欲しいわ……」

「つまり、賢い妻は夫を信じていれるから、どんな嫌味や大言壮語も口にしてしまう愚か者だって、君は演じたいわけだ?」

「どうしてそんな言い方しか出来ないの」


 それは決まっている。

 悔しいからだ。 

 どう言葉を並べても、サラとロイズの過ごしたあの時間には届かない。

 ついでに自分の負い目も底には関係してくる。

 サラがまだ隠しごとがあるでしょう、と怒鳴ったことはあながち嘘でもなかった。

 アルナルドはそのことを隠したくて仕方がなかった。


「厳しい意見になったのは……そう、だね。君にはもうすこしおしとやかでいて欲しいから、かな。エルムド帝国に行き、アリズンともし不仲にでもなった日には、僕は正妻につかないといけなくなる。勝手に連れ込んだ、側室の肩を持てば二人とも追い出されるだろうしね」

「そうね。そうなったら、貴方にはどこにも行き場がなくなるものね。私もそうなるわけだけど、そんな想像はしたくないわ」

「なら、お互いにもうこれくらいにさ、ね?」


 そして、彼がこれ以上このことに関して文句を言う気も、蒸し返す気もないことを、サラはなんとなく理解してしまう。

 これ以上言ってしまったら、意見するならこの船を降りてもいいんだよ? そうアルナルドは言うかもしれない。

 内心では男勝りな少女はいまはしなくても、次の乗り継ぎ場では笑顔で別方向にいく便に乗り換えるだろう。

 そう、どちらの帝国にも故郷である王国にも戻らない、第三の道を気楽に登り始めるはずだ。

 サラの背中には侍女二人の人生がかかっているが、クロノアイズ帝国の帝室につながる血はこの付近の他国では安く扱われない。

 彼女が持ち込んでいると見えた金貨の証書もそれなりの額がまとまっているようだし、ここは強気にでるのは賢くないな、とアルナルドは自重する。皇太子にはまだ、彼女が必要だった。


「――ごめんなさい。女のくせに余計な口を挟みました……」


 サラは頭を下げ、むき出していた牙をしまいこむと、途端におとなしくなってしまう。

 その変わり身の早さにアルナルドは女って凄いなと舌を巻いていた。

 彼女は本当にそう思っているのかな。それとも――と疑いをもちそうになる。


「そうは思っていないだろ、サラ。君の本音が怖いと僕は思うんだけどね。この二日間、ずっと君の風下に立って僕にはいいことがない」

「貴方ね……どう言ったら貴方は満足していただけるのかしら皇太子殿下。度を過ぎた発言をする婚約者、もしくは内縁の妻なんて欲しくないようにも思えてくるわ」

「いや、それは――」

「さっさとこの船を降りろと言いたいなら、そう言えばいいのに。私の意見がきついことは理解しているけど、でも――」

「でも、なんだい?」


 サラはまた俯くと、手にしていたカップをテーブルに置いて両手を膝の上で組んでいた。

 震えるようにも見えるし、何か別の言い分があるようにも見える。侍女たちを含めた三人の幸せがあればそれでいい。あの発言はどこまでが本気だったんだろう。アルナルドはそう思い、首を傾げていた。


「ねえ、本音を話していいかしら?」

「本音、ね。言えることがあるなら聞いておくよ」


 また内縁だの、アリズンと仲良くするかどうかだの。そんな女同士の会話だとしたら面倒だ、妻たちのことは妻たちに任せたい。そう吐露する皇太子はしかし、まったく別の攻撃にさらされることになるとは思ってもみなかった。

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