子爵の困惑
サラの思惑など知らないロイズは小さくうなづくと、すべてが解決したかのように微笑んだ。
それまでのサラが無礼だの馬鹿だのと暴言を吐いたその口からはもう、彼女への侮蔑の言葉は出てこなかった。
「いや……疑って済まなかった。サラ、君は自慢の妻になるよ。それは間違いない」
「誉めて頂きまして光栄ですわ、ロイズ。では良き仮面夫婦を演じましょう? 王国の為に」
「そうだな。これで我が国の他国に対する発言が増すというものだ。結婚するまで、いやしてからもこの仲を大事にしたいものだな」
「ええ、殿下。この場から新たな王国の物語が始まるような気がします」
満足そうなその微笑みの仮面がいつ剝がれるか、サラには楽しみでしかない。
後悔の言葉を叫ぶロイズを見れないのが残念だった。
「それでは失礼いたします。殿下、レイニーの件、よろしくお願いいたします。早々に我が家の養女となるように段取り下さいませ」
「分かった。感謝するぞ、サラ」
「これも彼女を守るためですわ、ロイズ」
「ああ、その通りだ。何としてもレイニーを説得すると約束しよう。君の慧眼には感謝してもしきれない。我が将来の花嫁どの」
「ありがとうございます、殿下」
感謝?
その顔で? するはずがない。
この男は自分が優位になったと勘違いしただけだ。
ついでにそれを維持しようとして猫撫で声を出してくる……気持ち悪い。この場から早く退出してしまいたい。
こんな男に抱かれることになるのだと思うと、サラはレイニーに少しだけ同情してしまった。
吐き気を抑えながら、ロイズのこれまで聞いたことのない丁寧な挨拶を耳にする。
「あの子を利用した私にも……酷い女ね」
そう戻りの馬車の中で言うサラのつぶやきを聞く者はいない。
もっともその同情も含めて、レイニーには大事な道具になって貰わなければならない。
その為にはまず、彼女を子爵家に取り込むのが最優先。サラはそう決めたはずなのに、自分がこれからしようとしていることに、いくばくかの罪悪感を感じてしまう。自分の自由を得る為に誰かを利用するなんて許されないと理解しているのに……。
「ロイズは陥落した。次はお父様と……」
ラグラージ侯爵閣下は父親よりも肝が据わっているように思えた。
どちらにしても娘を家を守ろうとする父親とは多少なりとも、偉大なものだ。
殿下は最低だけど。
あの男は人間じゃない、怪物か何かだと思いながら、サラは罪悪感をその胸に秘めて帰宅したのだった。
「どう、じいや? まだお父様は悩まれているの?」
「ええ、お嬢様。旦那様はまだのご様子ですな」
帰宅したサラを待っていたのは困ったものです、と注進してくるじいやと書斎に行けば孤独に打ち震えているレンドール子爵の姿だった。
公には知られないように秘密裏に揃えたその用紙たちを前にして、独り覚悟が定まらないとぼやいている。
せっかく、アルナルドに頼み込んで帝国から用意してもらった、我が家が生き残るための秘策なのに。
馬車の中で少しは見直した父親像があっけなく崩れ落ちる。
サラはその様子を見て、本当に意気地のない人と心の中で侮蔑の言葉を投げつけていた。
「お父様、いい加減になされませ。あとはただ、サインをするだけではありませんか?」
「……しかし、サラ。これは本気なのか? もし、陛下のお耳にでも入りでもすれば……」
「陛下のお耳に入っても、帝室の認めた書面です。陛下も強くは言われませんわ……先日、私とお父様とで決めたばかりなのに、しっかりしてください!」
「ああ、そうだ。しかし、こんな大それたことをしていると陛下に知られた日には……」
「ですから、皇帝陛下からの許可があると言えばそれで済むではありませんか!」
「そんな恐ろしいことを言えるものか! 私もお前も、この子爵家すらも……断絶になるぞ!?」
「はあ……お父様、殿下が我が家に来なかった夜にも窺いましたわ。二日の休みを一週間に延長して、それでも勝機があるというから急遽、アルナルドにお願いして届けてもらったのではないですか! これはお父様のアイデアでもあるのですよ?!」
「分かっている、だが、だが――サラ。私はお前が恐ろしい。こんな恐ろしい計画に手を貸すなどと……娘がまさか、国を裏切るようなことに手を染めようとしているなどと……ああ、恐ろしい」
国を裏切るも何も、帝国から爵位を買うという案は父親がふと口に出したものだ。
ロイズと会うまでの時間をギリギリ伸ばし、ようやく手にしたこの書類なのに。
ここで怖気づいてしまうなんてっ!
……この父親はやっぱり凡庸だ。
母親の実家が伯爵位だったから、早くそれに出世しろと言われれば、家財を売り払い大臣の職位を金で購入した。
元々、金勘定が得意だったからこれまでうまく勤めてこれただけで、商人の家にでも生まれたほうが良かったのだ。サラはそう思ってしまった。この父親には――清濁併せのむ、政治は不向きだと。
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